僕は、今から、今一度フランス人になる。今度は、最高の芸術家になる。
これが生命の最初に居た巨大クラゲである。このクラゲから、新しい生物が生まれていく。これが宇宙の最初に起こった、一度きりの生命の誕生である。生物はクラゲから始まった。
昔は、「環境の物理」という発想をしていた。何でも前提条件と事前の思考を考えながら、環境の場と視点を物理にして、さまざまな場所における想像力を予測し、想定する。そこから留保や客体化や集団化をサルトルのように分かっていた。
そろそろ、数学もきちんと分かった。これ以上、大学の知識は必要ない。僕はもう大学の本は読まない。大学は全て分かった。
ある意味、物理が分かっていない。作業所のスタッフに教えてもらったこととして、微積分は物理をすればどういうことなのか分かると言っていた。微積分を分かっても良いだろう。
だが、僕はこれ以上、大学のようなことはしない。大学には別れを告げるだろう。
もっと、色んな人と出会いたいと思う。そして、人間好きになれることができたら、それで僕の人生はハッピーエンドである。
そもそも、国を左翼になんかする意味が無い。ましてやソ連などもってのほかである。
今からこの国をどうしていくか。それを真面目に考える必要がある。
自民党は安定と言い、この国の改革を前に進めなければならないと言う。野党は生活と言い、家系や暮らしを守るために安倍政権は退陣すべきだと言う。
だが、安定と生活をただ目指していけば、それで良いのだろうか。
何が楽しいのか、何が大切で素晴らしいのか、この国の国民は分からなくなっている。一昔前ならば、希望のない暗い時代だった。だが、その希望のない時代の割に、面白いものや良い人間たちが居た。
僕は、そうした、面白いものや良い人間たちの営みを素直に楽しむことができて、今の幸福に浸れるような、そうした希望のある社会にならなければならないと思う。
僕が提示するのは、「自分のなりたくないものにならなくていい自由」である。なりたくないものになり、したくないことをし、言いたくないことを言い、信じたくないものを信じるこの世界は、まさに「暗闇」ではないかと思う。完全な暗闇では、今の自分の状況が分からない。周りに何があるのか見えてこない。
そう、暗闇には、地上の全てを照らす「太陽」が必要なのである。
今から、僕がその太陽になろう。地上の世界に朝を連れてくる太陽として、僕はこの太陽の国を支配し、征服する。
本当に必要なのは、自由と平等の争いではない。太陽のように人々を照らしてくれる王が必要なのである。
会社や学校ではない形で、学びや経験の環境を作れないかと思う。新しい世界を作ることができないかと思う。そこには、国や社会、機械や技術の上で、新しい進歩があるはずである。オープンソースはそういうものではないかと思う。共産主義者が言うように、生産手段を共有するという発想はある。だが、僕はそれを自由になった上で、不自由にすることなく、コミュニティを自由に形成することで実現できないかと思うのである。
歴史とは、ありのままのこの世界の発展と変化である。そして、科学とはありのままのこの宇宙における捉え方に過ぎない。本当に必要だからこの世界がこうなったわけではなく、ただその時その時の流れに任せてこうなっただけである。もっと別の将来の可能性はたくさんある。そこから、「変化を許すこと」で、この世界の教育や立場に縛られた政府の「変化の受容」を行うことができる。そう、それが正しい「可能性の希望」ではないかと思う。そして、それを追求するためには、知らなければならないし、考えなければならないし、経験しなければならないし、その意味を考えなければならない。
インターネットには馬鹿しかいない。だが、彼らは子供たちの成長にとって有益なところがある。人々が何を考えているのかを知り、この世界の「社会的な様子を観察」することができる。そう、歴史とは状態と様子の変化であり、その場その場の状況を知ることで、必ず解決策と社会を築く方法が見えてくる。
ただ、いつまでもインターネットに頼っていてはいけない。自ら本を読み、時には辛く苦しいことも耐えて勇気を出さなければいけない。勇敢な心を持って全ての問題を解決していけば、全てをその時の答えだけで網羅することができる。そこには、同じ境遇の人間など居ない。自分が独り、孤独に進むことから才能は生まれる。天才は孤独である。
本当に必要なのは、愛することや愛されることがどういうことであるかを知ることである。そしてそれは人々への「希望」という名の「悟り」であり、人々の心を打つだけの「同じ存在に対する救いの愛」がそこに生まれる。必要なのは、そうした「平等の愛」であり、間違っているものは「不平等」であると僕は思うのだ。相手や敵を口汚く貶めるような自由は要らない。相手のことをきちんと考えて、敵であっても味方のように礼儀正しくふるまうような、そうした「相手の平等な人格の尊重」がなければ、インターネットの破綻したコミュニケーションの病気は永遠に治らないだろう。
僕は、ドイツ人やフランス人になるのはやっぱりやめて、また日本人に戻る。ドイツ人は、日本語が読めなくなる。フランス人は、インターネットのおかしな左翼になる。そうした人々は必要ない。僕は日本人になる。日本人は、普通の大学生のような良い人間になる。だが、賢い点は無い。日本人にはそもそも、賢い点がひとつもない。正常だが、子供と同じで、健全な少年から変わらない、それが日本人である。
フランス人の特徴は、アメリカ人と同じで、さまざまな荒くれた不潔な社会を経験して大人になる。そういう人種である。ドイツ人は、何もかも消えていって、何も分からなくなって、その中で望みを頑張って叶えて、それで分かるようになる。白人には、そうした賢い人間が多い。なぜか、日本人は賢くない。日本人は、ただ何もしないで、何かしたくてもできない、分かりたくても分からない、そうした「馬鹿の不自由」を生きている。
僕はそもそも、フランス人やドイツ人は嫌いである。日本人が好きだ。何もしない日本人でも、分かることはたくさんある。何も賢くない人間でも、真面目に勉強して学校に通えば賢い。それが日本人的な「賢い人間」である。そう、そんな人間の方が良い。フランス人は恐怖のコミュニケーションに耐え、ドイツ人も苦しみの人生の地獄に耐えるだけである。