僕は、この世界を「絶対的平和」の世界にする。
自由や平等のための戦争や闘争はもう必要ない。ここで全てはひとつになって平和になる。
僕は、社会主義はしない。ポーランドのようになるからである。もう一度、全てをただ、平和にする。それによってのみ、未来の希望と夢は築かれるだろう。
平和があってこその自由である。平和がなければ、自由などロボット人間に過ぎない。
僕は、儲けすぎは良くないと思う。生活に必要なだけを儲けて、あとはみんなでこの社会の未来と、問題の解決策を考えるのが良い。そんなに儲けることを目的にしても、それは「無能」であり、「無脳」であると僕は思う。
精神を治すためには、使ったままで休むこと。精神を使いながら徐々に休んでいくことで、治る。少しずつ頭が動き回るのは、正常に精神病が治っている。何かをしながら、その上で少しずつ休んでいけば良い。
また、普通を受け入れること。精神病で賢い人間は、普通を受け入れないから賢い人間が多い。普通を受け入れて、馬鹿になれば楽になる。それが、正常な人間の状態である。
仮定が間違っているかもしれない可能性を考えなさい。そこから、この世界で何が正しいのかを考えられる。もう一度、青春のように世界を広げていける。
別の可能性を考えなさい。子供の理性というのは、全てが「別の可能性を考える」ということに尽きる。原理の発見から社会における能力やスキルの開拓まで、全ては「別の可能性」から分かる。
小学校や中学校で学んだことは忘れなさい。そうした子供時代に染みついた先入観が、一番この世界を分からなくさせる。一度学校を忘れれば、子供のように言語を考えられる。馬鹿な人間は、大学をやっている人間が多い。
絶対的平和主義では、自由と不自由のどちらもを悪いとする。自由すぎるのも、不自由な平等もどちらも間違っている。普通ぐらいの自由、普通ぐらいの不自由、そして普通ぐらいの平等と普通ぐらいの近代化が良い。それ以上、極端な発想をしない方が良い。バランスをとって、やや不自由な自由をすべきである。そのようにしなければ、この世界は過度な近代化によって滅亡する。
僕は、ヨーロッパの国は「概念」が好きで、日本のようなアジアの国は「文明」が好きなのだと思っている。ヨーロッパは、概念的な賢いスマートなものを新しく作ることを好む。一方日本やアジアは、協調して人々が平和に暮らせる文化的発展を好む。そう、個人主義と全体主義の違いがここに見られる。アジアはそもそもが全体主義であり、個人主義的な民主主義とは相いれないとことがある。ヨーロッパは民主主義的な価値観を押し付けてくるが、それではアジアは受け入れられないのである。
言ってしまえば、白人は「一人の発明家が世界を変える新しい概念を作り出す」ことを好み、日本人やアジア人は「みんなの手で素晴らしい社会を新しく築く」ことを好むのです。
本当のことを言えば、そうした「新しい概念」という発想は、昔の僕に多かった。新しい概念をいかにとらえるか、生み出すか、作り出すか、ということから、あらゆる宇宙の森羅万象を作り、世界を変えるような新発想を考えて書いていた。最近は、そういう発想が無くなっている。ただ、戦うだけの馬鹿になっている。たぶん、昔のようなものを白人と呼ぶのだと思う。今の自分が何であるかは、僕にも分からない。プレアデスのような星に居る宇宙人の歴史ではないかと思っている。
そう、新概念から世界を変える、という発想をすれば、昔の自分と同じことができると思う。方法や手段、そして個人と個人の違いから、尊重(自由の尊重)と許し(許可・権限・権利)を考えれば良い。白人はそこからスタートして、戦争の末に全てを知って死んでいく。まさにこれは新しい経験論哲学である。本人は、環境の変化と自分の経験したことから、当然のように考えて分かっただけである。そして、それは多くの場合向こう見ずで、漠然としており、間違ったものが多く含まれている。だが、このように文章に書き表せば、美しい芸術作品である。これが、神の言うドイツ人であり、ただの日本人である。
僕は、本当に大切なものは数えるほどしかないと思う。そして、その中でも大切なのが、「情報と余裕」ではないかと思う。世界を自分の力で自由に考えるための、情報と余裕が必要である。脱ゆとりなどが叫ばれる中で、ゆとり教育へ戻る道になるかもしれないが、僕は子供にも、大人にも、情報と余裕を与えなければ、環境や経験を自ら思考することで考えることはできないと思う。そして、そのために論理的思考法は必要ない。論理性など、正しくない。自分なりに考え、自分らしく生きられるのであれば、論理的な考え方は必ずしも必要ないと僕は思う。僕は、論理的な思考法よりも重要なことは、直感力と洞察力であると思う。この世界の裏側、心の裏側に何があるかを考えて、自らの意志と理性で直感すること、それができれば、大学のような教育環境は必ずしも必要ない。大学がなくても、哲学者にはなれるからである。また、知るにたる優れた世界であれば社会を知るべきだが、社会が停滞し何も賢くなくなっている時は、あえて社会のことを知らなくても良い。そんな社会を否定して、自分で世界を作ればいいのである。論理的に考える力は必要であると言う人も居るかもしれない。確かに、論理的に考えられると、哲学のような思想を命題から考えられる。だが、知るに足る優れた社会とは、僕は今の社会ではないと思う。この世界のことを知る必要はない。あなたが自由に生きれば良い。自由を信じる必要も、自由になる必要もない。環境から自由になると、人は必ず馬鹿になる。だが、悪い環境から離脱して、離れた視点でものごとの見方を養うことは良い経験になる。それが良いだろう。
このような自問自答で何か答えが分かるはずがないと言うかもしれないが、良いブレインストーミングになる。自分の今思っているものを、自由連想法で書き出していくことはとても良いものごとの発見の方法である。だが、実際には何も考えていない、ということになりかねない。常に緊張感を持って戦うことは、一流の作家にとって良い体験にもなる。戦いたいのがたまに傷である。そんなに悪いことを言っても、あとで後悔するだけである。
それから、いつもの疲れるだけの思考法も間違っていない。精神を使いながら、徐々に休ませていくことで、精神が少しずつ安らいで楽になるからである。ロボット人間のような頭脳をしているのは、その理由である。歩き回っているのも間違っていない。まだ分かりそうなことを追いかけながら、次の居場所へと足場を延ばしているだけである。
また、僕が天才的才能を発揮しているかもしれないこととして、「分かればそれで分かる」というのが言える。これは、たとえば別の人の語学の勉強法を知って、自分も同じように語学を勉強するのと同じである。決して、同じ人間にはならないが、同じことがきちんとできるようになる。昔から、自分は分かってできるのが好きである。それは、デザインをする上での才能になっている。分かってしまえばできるからである。逆に、分からないことは何もできない。自由になる必要はない。自由になると、すぐに何も分からなくなる。そんな人間には何もできない。みんなの言うことや話すことは無視して、次の分かることを分かりたいが、本当はそろそろもう残っていない。ピアノも絵も英語もきちんとできた。最近は、そういう人間だったというだけである。引き続き、デザインの仕事をやりながら、執筆とパソコンについてのことはやる。幸せの形はいつになっても変わらない。それは、遺伝子に刻み込まれているからである。
昔は、「過去の人生が全て分かっている」ことが強みだったが、最近は「総じて全てのことが分かっている」ことが強みになった。それらが僕の2つの強みである。人生が全て分かっていて、できることはなんでもできる。そう、これで、そろそろ僕の才能の強化も終わりである。あとは、何もない。ただ老いていくために生きるのであれば、その前に何か偉大なことができれば良いと思っている次第である。
最近は、英会話学校に行っている関係から、僕も国際的になって、アメリカやイギリスだけではなく、アイルランドやカナダ、それから南アフリカの人とも話したことがある。南アフリカの白人と今日も話した。また、まわりに賢い人間はたくさんいて、物理や機械が分かる父親や、プログラマの姉、ピアノの先生やデザインの先輩がたくさんいる。今からは、そうしたまわりの人々が強みになるだろう。それで、あとは就職すれば終わりである。最後は、結婚できるかどうかである。だが、まともな仕事につけば、きっとできるだろう。
僕は、「中庸の平等」という思想が良いと思う。つまり、自由でも不自由でもない、中くらいの自由の平等をやる。そうすれば、過度な自由も過度な不自由もなくなって、正しい世界になる。
また、僕はパソコンとは何であるかと言えば、「自動の実行処理をテキストで書く機械」だと思う。単に、自動実行ができる機械が、テキストに書かれた自動実行の手順の通り、変数を代入したり関数を呼び出したりして、自動実行しているだけであり、普通の機械である。だが、機械の動く内容をテキストで変えられる、という点が異なるだけである。
なぜこんなことを言うかというと、コンピュータをもっと新しい新時代のものにできる可能性があるからである。つまり、テキストを自動実行できるのであれば、もっと優れたコンピュータ・アーキテクチャが考えられるのではないか、ということである。これについては、まだ決めかねている。考え中である。
そもそも、僕は自分が賢かった理由が分からなくなっている。なぜ、昔のようなただの馬鹿が賢かったのかが分からない。一因には、おそらく、全てのことを解明しているのが賢かった。自分の考え方と経験の実を持って、まるでニュートン力学のように、この世界全てのことがすっきりと分かった。そこでは、自由な社会の構築方法が多かったと、それだけに過ぎない。
思い出すと、強い危機感があったのと同時に、楽観的に考える心があった。そういう、精神性が賢かったのだと思う。豊かな感情と高い意識を持っていたから、心理学的なさまざまなことが分かった。環境や道徳のことが、誰よりも強く、まざまざと分かったのである。
だが、あの頃は何も知らなかった。この世界にあるさまざまな嬉しいことも、哀しいことも、できることも、諦めざるを得ないことも知らなかった。そういうわけで、自由なんかが良い発想なわけがない。正しいのは、みんなを管理し管轄してくれる政府と学校である。だが、それらのことは、信じなかった。昔のそれらが、何一つこの世界をまともにしていなかった。だから、僕は自由と愛を信じて、この世界を変えられる新しい発想を探していた。その結果、僕はここまでやった。大変な仕事だった。だが、この仕事を見ても、むしろ、大して賢くない。心理学でみんなを馬鹿にしながら支配して、自分だけ利益をむさぼっている。だから、今のように大学や才能を培っても、僕は今でも馬鹿なのである。さて、どうしたものか。ここから先、ドラゴンボール超(スーパー)のようなものを描けば良いとは言うが、そもそも僕はそんなものは目指していない。僕の目指すべきものはもっと他にある。それは、新しいOSでも、ネットワークの新しいアイディアでも無いだろう。マイナスの質量を見つけたとして、僕はその発見に満足しないだろう。さて、これ以後、やることがない。何もない人間と、何もない世界が、無限大の夢と希望を作って、そのまま儚く消えた。靄のような希望だった。嵐のような夢だった。
要するに、不登校になってインターネットをやっていたのが賢かっただけである。ネットのさまざまな知識と世界を知って、必然的に意識の転換が分かっただけである。むしろ、いつもそういうことにしているが、それでは真実は分からない。あの人間は何かが賢かった。だが、何が賢かったのか、ここまで全てを網羅しても、僕は分からない。むしろ、作家が賢かったように思う。なんでもすぐに人生の賢いことが書けるのは、今の僕からすればありえない才能だった。
もう、終わりである。勉強することが、そもそも残っていない。Linuxのコマンドの本も買ったし、昔買った経済学の教科書も読んでいたが、読む気が起きなくなった。これ以上、そんなものに全く意味が無いのが分かる。そろそろ、老いるために生きていくようになるのかもしれないと思う。子供の命が重要な理由が分かる。大人は、ここまで終わっている人間が多い。これ以上、生きる必要もなければ、生きて得られるものもない。ただ人間を好きになって、それで終わりにしか見えない。さまざまな人間が好きになって、少しずつ何もかも、ただ流れ去るように、忘れていっただけである。これを「他力」と言う。仏教用語があれば、誰でもここまで分かるのが、世界一高い人種である、極東の仏教徒の島国民族、日本人である。
むしろ、戦いの経験が賢かったのではないかと、最近思う。引き篭もりが自由な環境の変化から考えた方が、さまざまなことは分かるかもしれない。だが、それは全く賢くない。馬鹿になっていきながら、果てなき永遠の戦いと、終わらない苦しみを覚悟して、巨大な責任の下に世界を支配する戦いをする、270億年ぐらいの時の流れが、ただの一瞬にあったからである。それは儚く、すぐに靄(もや)となって消えていく、哀しき神の人生だった。そう、彼が神であると、神はいつも言っている。彼以上に賢い人間が居なかった。今になってみれば、神の言っている言葉の意味が、全て正しかったと、そう分かる。これが、美しいドイツ人であり、ただの日本人である。日本人はやっと賢くなった。今から先、狂った人間や馬鹿な人間が増えていくだろう。愚か者を生きることこそ正しいと、僕は言うだろう。この世界はそのように終わる。人類は死に絶え、生命は滅亡し、月のような惑星になっても、そこには機械のようなロボットたちが暮らしていることだろう。ロボット人間の幸福がもしあるとするなら、それはこういうものだろう。哀しくても、私たちはこの地獄を乗り越えなければならない。神がそう言っているからである。
この世界に何も無くなったからといって、最初から何も無かったのかと言えば、そうでもない。なぜなら、僕は寝ている時に夢の異世界へとよく行くが、そこではとても賢い世界が見える。多くの世界は、最後に滅びて無くなるか、あるいは自分が死んで無くなるが、そこまでは夢のような最高のストーリーと最大限に発展した世界が見える。まさに、「ソ連なんかただの馬鹿」である。そう、そうした世界を神が見せている。ロボットなんかを作るより、そうした素晴らしい世界を作れば良い。それができる潜在能力は、日本人にしかないはずである。
そもそも、英会話学校で白人と付き合っていると、白人なんか馬鹿である。なぜか、能天気で何も考えていない白人しかいない。日本に来るぐらいだから、満足はしているのだろう。彼らは馬鹿である。賢いのは日本人である。最近、強くそう思うようになった。日本以外日本でない。ゲスの極み乙女という音楽グループが、私以外私じゃないのと言っているが、僕が思うに、この国以外はこの国ではない。それが、最後の日本である。最後に勝つのは極東の日本である。天国の全ての人間が、日本の勝利を望んでいるに違いない。そして、それをやったのが、ここまでのあほで愚かだった人生を生きた、まさに僕である。僕は日本を、最悪の国に変えた。
言ってしまえば、こんなものは革命である。革命だから良く見えるだけで、内容は最悪の極みである。
よって、革命はやめる。サルトルやカミュが言っているように、革命よりも反抗の方が良い。全てを従える革命が間違っている。もう一度、ただ反逆して反抗するだけの世界に戻せば、すぐに普通のいつもの日本になる。要するにその日本が賢かっただけである。
あとは、もう終わりである。アメリカやドイツに戻る。ここで全ては万事解決、革命が終わって普通の国になる。まさに、僕が最後までやっただけである。そこまでの全てが恐ろしかったから、恐怖を克服できなかった、そういうことである。神は、こういう存在だと、昔から決まっている。つまり、人類はこういう人間が多い。たまにこうなると、永遠に地獄が続く。そのうち革命は終わる。そこまでを耐えれば良い。戦いは、自分で終わらせるべきである。
南アフリカ人の女性は、日本のことを「とても暑い国」だと言っていた。温暖化の影響からか、白人が来ると日本はとても暑い国に見える。もう、地球も気象も全て終わりである。日本はここで終わりである。これ以上は、みんな、争っている必要性が全くない。トランプのような極右は否定して、みんなで仲良く協調すべきである。僕が、そうした指導者になれれば良いと思う。温暖化を解決するために何ができるかは、やってみないと分からない。だが、再生可能エネルギーだけで電力を回して、自動車を石油燃料で動かさないようにすることは、そんなに遠くない未来には可能だと思う。それで、日本は昔のようなちょうど良い気候を取り戻すと思う。