その人間は、明らかに馬鹿に見える。それは、みんなはその人間の顔を知っていて、馬鹿な顔をしているからである。
その人間が賢く見えるのは、本当のその人間がどんな人間かを知っている、その人間本人だけなのである。
そして、その人間は、自分の顔を知らず、他人が自分のことをどう思っているのかを知らず、その人間の知っているその人間に基づいて行動し、発言する。そのことが、よりいっそうその人間を馬鹿に見せる。
そのように、「客観的なその人間目線」で考えれば、この世界の全てはすっきりと理解できる。誰もが自分の「世界観」の下に行動し、発言しているから、その人間が見れば、その人間は正しいことしかしていない。
また、これと同時に、「過去の自分のような人間は馬鹿に見える」という経験論がある。過去の自分と似たような人間は、中身が透けて見える。そのことが、狂った人間をより馬鹿にする。
誰とも知り合えないかというと、そうでもない。長い間その人間と一緒に居ると、「その人間とどのように付き合ったら良いか」ということが見えてくる。その人間がどんな人間か、その人間の人柄と作品から見えてくる。
人間とは、そういうものである。相手にどうしてほしいかを考える前に、自分とは何であるかを考えること。違いよりも共通点を考えること、同時に、どうでも良いことは考えないようにすることで、自分の他人へのフラストレーションを抑えられる。そもそも、他人にどう見えるかはどうでも良い。それは、他人に合わせるよりも、自分を変えていけば良いからである。低レベルな考えをするよりも、自分を高次元な存在へと変えていくことで、俯瞰的にこの世界全体を客観視し、ありのままあるだけの全てを知ることができる。それが、「人生学」である。そのためには、環境や人間関係を棄て、一度完全に自由にならなければならない。自分らしさを本当に発揮するためには、優れた自分に変わった自分を、そして過去の全ての自分を、ありのままに受け入れられなければならない。社会や経験についても、全てを受け入れなければならない。