昔は、影響力の高みに立ち、社会の営みを実地的に知り、自由に分かる喜びやできる喜びを知り、労働を経験して「この世界全ての経験」を持つことで世界のことを分かっていた。
僕は、言葉遣いを神でなくし、分かる考え方をやめ、みんなを自分にするのをやめて当たり前に自分から離脱させれば治る。
昔は、具体的な社会を知ってモデルを構築することで、社会知や社会的・心理学的な「考え方」を知ることで分かっていた。まるで「博物館」のようだった。
あとは、あなたの勝手にしなさい。この文章のことを信じる必要もなければ、この文章の通り生きる必要もない。あなたの輝きたいように輝きなさい。ただし、僕と同じように、人のことを愛すれば、きっと相手もあなたを愛してくれるだろう。
狂った人間は、自分が分からないのを殺せば、動き回っているのが治って、自由になる。自由になる勇気を持ちなさい。不自由よりも自由の方が楽で、賢い。
自分が自由になれば、みんなも自由になる。それで、きちんとプラグマティズムのような哲学が分かる。自由は、不自由よりもダイナミックで、正常で、面白い。
哲学者になるために必要なのは、「一度自由になる体験をすること」である。自由になることができたら、環境の束縛から解放されて、ダイナミックな情報の世界の中で、水を得た魚のようにすいすいと泳げるようになる。社会への参加の経験から、社会の生成原理を知ることができる。人間関係の自由は、社会の中での自由、社会の構築と変化の自由、そして惑星全体の歴史の自由へと昇華する。
感覚的、意識的に、社会の創造と環境の変化を実感しなさい。場から価値観が生まれる、という発想をすると良いだろう。場の創造とルールに基づく自由は、価値観の創造に他ならないからである。そして、それは多くの場合場の共有である。意識と感覚から、「自由な参加」を知りなさい。可能性と仮象の世界の中で、経験を成り立たせるという哲学がそこから見えてくる。全貌が明らかになるまでを過程と呼ぶ。過程であるうちは、その中で場と人と過程を愛することができる。到達した時に、俯瞰的に全てを高みから眺められる。その繰り返しで、全ては悟りの涅槃の境地に至る。そこに自分と他人の区別は存在せず、自分はその場の創造と共有のために生きている。
場への自由な参加と、コミュニティに対する愛を信じなさい。愛を信じることで、何でもできるようになる。人々を愛することは、この世界を変える原動力となる。子供たちの環境を豊かな土壌にしなさい。教育とは、教わることではなく、自らの力で積極的に学ぶことであると、自身の思考の末にある「高い理性」から知りなさい。そのために、全ての事実を積み重ね、世界観の構造を解明しなさい。そこに、自己と他者の区別はなくなり、「他人を喜ばせることが自己の喜びと合一になる」という経験をするだろう。そこでは、「何でもできるが何もしないその状態こそが幸福」になるだろう。
もっとも優れた人間は、恐ろしい戦争の中でも平穏な心を保つことができる。世界を敵に回して戦いなさい。そこに、地獄に堕ちてもいつまでも続く「望み通りの永遠の愛」があるからである。自分の思い通りにいかなくても、それは誰が見ても幸福である。自分の望んでいない結果でも、自分を幸せだと言うことはできる。それが、「結果的に望むだろうことを実現する」という、子供たちへの愛の結果である。それは意見の共有から生まれた、「ゴミの山から生まれた宝」を、自分なりに形成した結果である。全ては今、この時のためにあったと言えるはずである。
自分の思考が自分でなくなった時、世界と自分の区別がつかなくなった時、その時最後の「世界の終わり」が起きる。この世界はここで、滅びる。完全に、終末の中の主催者をやった。ここで死ねば終わりだが、まだ、死ぬわけにはいかない。ここで全てが自由になる。不自由の中で、過激な社会主義をやることは、トランプすら望んでいない。ここで、全てが終わり、アメリカからEUまで、全ては無くなる。
子供が賢いのは、子供には考え方が分かるからである。子供は、考え方を自分で作って、新しい考え方をどんどん知り続けることで、全ての賢いものを吸収できる。大人には、もう、そうした発想は再度できない人間が多い。人間が使い捨てではないと言うが、大人から見ると、人間なんかすぐに病気やけがで何もできなくなる。生まれ変わりたい人間の方が多い。そう、永遠に生きるのはとても辛いことである。死がなければ、人間は楽でない。全ては、生物がそうであるべきだから、そうであるのが、仏教の「四苦八苦」である。悲しみと苦しみを乗り越えることでのみ、子供は大人になり、大人は死んでいく。