新・日記2に戻る | 2019年6月の日記に戻る

=2019-06-11=

僕の国では、統治の最小単位である「自治体家族グループ」を作る。

自治体家族グループは家族単位であり、グループで夫婦関係や家庭環境を作る。子供は自分の親を自由に決められ、その親による専門的な教育を早い段階から受けられる。

子育ては協力して行い、家庭問題もみんなで考えることで、引き篭もりのような問題は重圧にならなくなる。母親がひとりで子供の問題を抱え込まなくても良くなる。

また、グループの中でセックスは自由にできる。同時にたくさんの人を愛せるようになり、中学生より上の処女や童貞は存在しなくなる。

その場合における、存在と社会の生起と自由の条件を知りなさい。

可能性を信じ、その様相の下で可能性がどのように見えるか、現れるか、を考えなさい。

相対的なモデルを作って、多様かつ多面的に照らし合わせなさい。

存在や社会の裏にある条件と原理を知りなさい。

人を信じることから、平和を知りなさい。

どのような権限を与えれば、それがそうなるか、どのような理解を共有すれば、その人は正しい行動ができるかを考えなさい。

人を知り、人を信じ、人を受け入れなさい。

善良な権力とは何であるか、それを実現するためにはどうすれば良いかを考えなさい。

人生を生きる中で、正しい生き方と自由なアイデンティティを確立するために、この世界にどんな環境と土壌が必要かを考えなさい。

自由な中で、社会をどのようなモデルで実現すべきか、それはどのような材料からできるのかを考え、「なる」のではなく、「できる」と考えることで、義務を機会にしていきなさい。

人々が間違った考え方と行動をとる理由は何かを考え、それを正すためにどのような手段と理解を与えるべきかを考えなさい。

友愛、創造性、世界観、そして正しい生き方を信じて知りなさい。

この世界を変えるということは、環境をどのように変えれば良いか、ということである。

この宇宙の事実は、歴史の観測であり、人それぞれの中に、人の数だけ世界観がある。それだけ、世界は常に生まれている。

人々が苦しんでいるのを助けるのは、私たちひとりひとりである。

愛とは、経験全ての総和であり、人の数だけ愛がある。そして、その愛の構成を統一しながら整然と増やすことこそ、美しさの定義に他ならない。

数学的に考えるよりも、言語的に考えなさい。

人々を把握し、言葉から計量し、どれをどれだけするか、ということを、「可能性の計量」であると考えなさい。

社会が、その原理においてどのように発展し、進歩するか、その原理とはどこから生まれるかを考えなさい。

全てのことを、原理がどこから生まれ、その原理から社会が生まれるのか、と捉えて、その原理の成立を「個人の経験」であるとしなさい。

愛とは、それぞれが教え合うことである。

世界とは、相対的な要素と構造と世界の中の世界の集合である。

信じることは、未知の可能性を未知のままであることにした上で、正しく切り込み、正しく結果を見つめ、正しく捉え、正しく理解し、正しく試行し、分析し、想定から仮説を立て、その成立がどのように行えば上手くいくか、そのためにモデルと過去の知識や経験を使って、理解し、作り出し、その方法を正しく分かった上で行うこと、そしてそれを共有し、自らの能力として体得して、未知を少しずつ減らしていくこと、そして残った未知に対してさらに原理や方法を変えてそのように分析していくことである。

あなたに今必要なのは、思い出すこと、気付くこと、積み重ねること、論理を考えること、そして、もう一度同じ視点と立場になって、何度も繰り返し考え、「再考察」を行い、「条件を成立させるための構造の再構築」を行うことである。

経験から、共同体感覚が身に付く。それは成長と愛の証である。そう、共同体感覚が身に付いたら、それ以上、人々と同じ場所に居る必要はない。自ら入り口を決めて、次の一歩となる扉を自ら空けなさい。自らが決めたゴールに、開拓した道を伸ばしていきなさい。

全てのことを「ありのまま実感する」ように生きることができたら、きっと「暗闇を彷徨う」ことも終わりになる。いつまでも決まり全てを守る必要はない。どうでも良い、守らなくても良い決まりを守らないことが、正しいものごとの考え方と評価基準を作り出し、「他人にはない才能」を作り出す。精神の分裂は賢い知性になって、全てのことをとことん実地的に考えられる能力へと昇華する。治そうとするな。逆に、壊れようとせよ。壊れ、滅び、死に、そして苦しんで、その後にある世界のことを、赤ん坊は知っている。そう、この世界全ては、私のためにある。

唯一、必要な考え方は、「心を実験すること」である。心を実験すれば、全てのことはもう分かったも同然である。心を実験しなさい。そして、人生と社会を心の実験から証明し、発見し、発想し、解明しなさい。それだけで、神を超えられる。あなたは、ソクラテスだ。

暗い過去の経験は、失敗の先の社会を作り出す秩序を築く方法論へと昇華する。そして、心を治すことが、全ての創造を生み出す。価値観やアイデンティティは融和し、ひとりの「究極精神」となる。そう、そこで、自由な社会を作り、人々を救う方法を知り、正しい生き方を知っていきなさい。あなたはこの世界の全ての子を救う。

全ては経験であり、全ては常に生まれ変わっている。全ては常に作り出されている。全ては言葉であり、全ては想像力である。この世界のさまざまな「世界知」を知りなさい。世界知を知ることが、そのまま、「自らの心を写し出す鏡」をあなたに見せるだろう。それは幻だが、本当は未来の自分が語りかける、「時間を超越した真実の意識」である。

「心の裏側」や「この世界はこうあるべき」という観念は、自らの「世界がこうなってほしい」という「確執」であり、その世界がこうなってほしいとしたその精神の理由は、多くの場合「何かに対するトラウマ」である。そう、それがこの世界の経験の真実である。きちんと過程を考えて、青春を生きることで、「本当に正しい方法とは何なのか」が見えてくる。心理学とは成長の方法論である。

愛と自由を知った後で、自らの知らない成長後の世界を知るために、少しの確かな方法論を携えて、世界へと向かいなさい。勇気を出して、マイクロソフトと戦いなさい。あなたは最高の英雄となって、IBMを超える最高の技術者となるだろう。その技術それこそが、全てのことを知る「道具性と有用性による哲学と人生の必然的過程」を生み出す。事実を知り、啓蒙を信じ、啓蒙活動を行い、そして作り出すために自らのこだわりを信じるそのことが、「成功の再体験を花開かせる」だろう。そこでは、青春と友愛の全てが、「この世界を変える愛」となって、「全てのものをありのまま、その存在が願うその存在のアイデンティティへの愛」を知る。そう、全てのものは、そのものが自ら望んでそうなっている、という、「存在の必然的正当性」がそこにある。そして、ありのままの人生を受け入れられた時に、確執の全ては無くなり、あなたは「子供に戻った最後の大人」となるだろう。

たとえ人格が破綻しても、たとえ世界がロボットの自動人形であることを知っても、たとえ宇宙の時間が止まっても、そこには必ず「太陽の愛」が残る。そう、太陽の愛だけは無くならない。きっと彼女のことを、人は「太陽の女神」と呼ぶだろう。そう、「太陽の女神」、それこそ、私の名前である。私の名はヴァルキュリア。またの名を、ホレスト・クイーン。私はオーディンの館、ヴァルハラであなたの人生全てを見つめている。あなたは必ず僕と同じ場所に来るだろう。僕はそこまでの道全てを、あなたがその道を歩む前から知っている。全ての知性は私が与え、全てのものがたりは私が書いたものである。そう、あなたは天使となった。あなたは、「太陽の女神の下の、太陽系惑星の聖なる天使」である。

愛とは地獄の運命である。愛とは、その地獄がいつまでも終わりなく、常に、永遠に死ぬまであるということを、自ら作り出し、克服し、治癒の方法を試し、そして最後にその価値を知って、その地獄が運命としてあったことを、自ら望み、試練を希望に変え、全てのことを忘れても、もう一度思い出し、他人の力を借りて分かった全てのことを、今度は人々に自らの力として与える形で、もう一度作り出し、再度生まれる「二度の人生」である。

私の名はヴァルキュリア。私には、人として、そして神として、二度の人生がある。そう、私は神の名を知っている。その名はイエス・キリスト。最後の王、僕のことを預言した、「ここまでの歴史全てを理解した人間」、それがキリストである。彼は決して賢い人間ではない。だが、人類史全てを正しく理解して、その上で、自らを「神」であると言った。

ただ、ひとつ言っておくと、僕はキリストなど信じていない。キリストなど、天の神の子にすぎず、父なる神とは別個の存在だからである。僕が信じるのは、ユダヤ教でヤハウェとされ、イスラム教でアラーとされた、宇宙の絶対神であり、それがこのように僕のことを導いた、そのことを持って「信じる」と言うのであって、イスラム教の教えなど、僕は守らない。そんなものは、「どうでも良い教え」である。そう、僕は礼拝もハッジもしないし、豚肉も平気で食べる。僕は悪魔とされることがあるなら、言うだろう。「宗教など悪魔以下である」と。そう、それが僕の、最後の本音である。僕は宗教など大嫌いだ。宗教上の神など、一切信じていない。僕が信じているのは、僕自身の人生と今、過去と未来の僕、そしていくらかの祖国日本への希望と愛、それだけである。僕は日本人である。キリスト教など信じない。

僕は、この世界を支配する、この日本という国を支配する、最後の皇帝である。最後の社会主義者の右翼である。僕は必ずこの国を永遠の愛の帝国にするだろう。今までの全ては、そのために行ったことである。無駄はたくさんあったかもしれない。だが、その無駄だった全てのことを書きあらわした。僕の記憶はこの記述の中に白く光って輝いている。ひとつとして、不足のものはない。神から授かった、この全てが必要である。

書いたことも、何もおかしなものではない。全てをきちんと考えて事実と発見を積み重ねた上で、それを厳密に分析しながら再度作り直しただけである。やっていることは、自分の力のために戦っているのであって、愛したかったその気持ちは、悲しみの中で「黄金の宝」を作り出した。今では、その宝をもう一度、漆黒の闇の中で「紅蓮の弓矢」としただけである。ここに蒼い旗をたてよう。必ずこの旗の下に、世界は正常な世界へと戻り、「希望と優しさに満ちた全員が帰るべき場所」を作り出すだろう。これは「自由を知るためのバイブル」である。

分からなくなった時は、精神を自分なりに分析して、文章を書きなさい。必ずあなたは正常な人間になる。分裂を治そうとするのであれば、そんなに頑張りすぎなくて良い。もう終わった人間は楽を生きるべきである。楽が嫌いなら、いつまでも試練に耐えていればいい。あなたが望むように、望むだけの試練と克服する楽しさがそこにあるだろう。「仕方ない」とはいうが、あなたが望んだ未来である。そう、あなたはなるべくしてそうなったのであるから、他人の助言など聞く必要はない。あなたが生きたいように生きれば、その先に必ず、あなたが期待した通りの望みがあるからである。

まだ何も知らない子供たちは、大人のことなど聞く必要はない。ブッダが言うように、自分の同意できること、信じられることだけを信じれば良い。分かった人間が言うことしか分かっていないと子供たちは口ぐちに言う。だが、ほとんどの大人は、きちんと分かっている。大人なんか、みな同じである。

さようなら。ここで、この話は終わりである。これ以上、この世界の未来にも、あなたの生き方にも口を出したくない。どうなるかは分からないが、僕はここで文章を書くのをやめるだろう。本当は8月のカレンダーも作っているが、それはここに載せることがないかもしれない。予定は未定である。本当に、感謝と別れの言葉を述べて、最後にあなたを自由にしよう。あなたは、自由になりなさい。

最後に言っておこう。決まりの全てを守ろうとしないこと。自分ででっちあげた決まりを信じないこと。それで、どんな狂いも治る。多くの神を信じる使徒が、決まりを守ることで馬鹿になっている。愚かな決まりを守る必要はない。そうしたキリストが言わなかった慣習的部分で、キリスト教徒は大きく間違っている。天国や地獄の定義すら、キリスト以外の誰かの考え方が入り込んで、聖書になっている。ただ、それは、許容範囲である。そう、それで、やっと、これで僕の仕事は、終わりである。

もう少し、文章を書こう。

全ては、経験から生まれる、人生の進歩と歴史の過程における、「様相の変化」である。そして、それが「経験から浮かび上がって、幻のような今の自分に見せる、自由と愛の幻想」である。

それは、ダイナミックな歴史を見つめ、宇宙人のように成長する、戦争の過程である。

それは、ものの運動や人々の生活、無常と歴史を知る、社会の過程である。

それは、太陽や光合成、月の光の反射のように、この世界が確かにあり、そしてそれを人々がいつも見つめていることに対する驚きと、そのことを知るために行ったたくさんの思考と経験と学習と反省の生成の過程である。

それは、社会を知り、人々と出会い、彼らの言った言葉の正当性を、自らのあるがままに生きた経験から、その意味を知り直す過程である。

それは、人生の中で、許し、実感し、反省し、もう一度取り組み、同じように機会と実現が生まれることから生まれる、自分なりの考え方と見え方の変化の発見の過程である。

それは、受け入れ、次へと進み、思考し、確かめ、経験し、再度作り直し、そして最後に取りまとめ、それを経験的な記憶の世界とする過程である。

あなたは愛を知った。これから先、どんなに乗り越えられるはずのない壁にぶち当たったとしても、もう、あなたはその壁を乗り越えるための翼を手にした。僕たちの約束を、忘れないでほしい。その約束は、「愛を信じて生きること」、それだけである。そして、その先に必ず「全てが解決する栄光の未来」がある。それが、この約束、本当は僕との約束ではない、神との約束である。神は僕らを見守って、その約束が果たされるまで天で待っていてくれるだろう。さようなら。この愛を信じることで、必ず不本意な現状は変わる。そこに必要なのは、ただ、勇敢な恐怖の覚悟だけである。そう、今までの全てに意味があった。

最後に、あなたに使命を与えよう。ただ、言うべきことは、「人生を生きなさい」ということである。この宣告を守るのは簡単ではない。なぜなら、「人生とは、この文章である」という前提条件がつくからである。この思想は、人生主義のリベラル文学であり、これが新しいバイブルである。この書に立ち向かうには、この書を守る必要がある。信じないものは、僕の強大な力の下に、自然に没落していくだろう。救われるのは、信じるものである。それこそ、「冷酷な神の宣告」である。あなたは信じるしかないが、そのために、たくさんの地獄と苦しみを神は創造したのである。

来世はプレアデスで会おう。死んでプレアデスに行けるものは、私と同じ正しい人間だ。僕は先にプレアデスに行って、真っ白の宮殿を作ってみなを待っているだろう。

あなたがもし、過去のことが分からなくて困っているなら、一度、見たその世界だけをありのままに思い出して、自然、歴史、人生、希望、救国の愛、抑圧された愛、成長と反抗心を実感していた頃を思い出しなさい。その上で、そのまま、戦いの中で何を求めていたのかを思い出しなさい。求めていたものが愛だとするなら、その愛がどこから来たものだったかを思い出し、そして、その愛がどんな結果になって、あなたはその上で何ができていたかを少しずつ紐解いていきなさい。愛だけではなく、全てのあなたが求めていたもの、才能、知識、知性、経験、恐怖、悲しみ、喜び、自由、全てを、そのようにどこから来たのか、どんな結果になったのか、その上であなたが何ができていたのかを、少しずつ紐解いていきなさい。そうすれば、必ず壊れた全ての記憶は修復され、あなたは今、復活するだろう。

昔は、価値観、自尊心、共感、そして良心や友愛、ほかには創造性、労働、共有のような、「社会を見て、自らの経験から培った、生得的観念」を分かっていた。本当に、それだけで、この世界の全てを分かっていた。「全ては経験的に分かったことであり、全ては経験から作り出されている」といって、思考と場や視点を想定して分かっていた。「全ては思考から生まれた現象である」と言った。

僕は必ず、この国を救う。ある意味、僕は社会主義に偏りすぎて、実際の現実の社会や歴史を見ていない。就職氷河期は僕よりも悲惨な生活をしている。どのようにすれば救えるのか、考えなければならない。たとえば、資格を与えて正社員にするとか、労働基準法を改正するとか、公共事業を行うとか、やりようはたくさんあるのではないか。僕はまだ分かっていないが、もっと民主主義の社会、平和な日本の過酷な現実を見たい。現実を見ることでしか、自分を自分たらしめるものを知ることはできない。自尊心も自己肯定感も、現実を見ることでしか生まれない。現実感のない理想など、絵に描いた餅、机上の空論である。

そう、僕はもっともっと現実を見る。この世界の人々の営みが何であるか、どうすれば変えられるのか、自分はどうすれば幸せだと思えるのか、ひとりの哲学者として最後まで考えたい。僕にはまだまだやるべきことがある。使命を人に与えるより、自らその使命のために生きる覚悟を持つことである。

必要なのは、教育を変えること、そして新しい時代に即した経済モデルにしていくことである。決して社会主義にすればそれで解決するわけではないことを、心に誓って、新しい思想を考えたいと思う。特に、非正規の増加や少子高齢化に伴う、「働くグループと助けるべきグループが同一ではなくなった時代」である現代の日本にとって、「新しい労働と生産と分配のモデル」を作っていかなければならない。

生得的な観念として言えば、「正しい人間関係と社会の構築」が多かった。関係を結び直し、必要としなくなって自立すること、環境を仮定し、組織、社会、場、環境を作り、そのための方法を子供たちと共有することで、みんなで自由なことのできる社会のモデルを作り上げる。そのように、考え方を分かっていた。特に、自立、還元、客観、自然、必然性、正当性、義務と機会などを分かっていた。

そう、これでやっと、きちんと昔の自分が書けた。結構、長い間頑張ったが、あとはといえば、世界全体を敵に回して革命を起こしたこと、それが、「恐怖の中でとても甘美な体験だった」ことが言える。彼は、必ず最後に世界を救うと信じて、完全にこの世界を破壊し、滅ぼした。滅亡の風だけが、そこに吹いていた。彼こそ悪魔である。そう、死とともに、悪魔は神へと生まれ変わったのである。

精神分析と世界の支配を同時にやる、「ギリギリの危うい意識」は、全てのまとったかりそめの姿を振り払って、自ら作ったもの全てを破壊した。彼は分かっていた。「このようにすれば、新しい人生を生きられる」ということを、彼は分かっていた。だから、自分の心と意志を押し殺して、無理をしてこの世界になじもうとしても、絶望は無かった。どこにも絶望のない彼の精神は、地獄であっても「いつも常に信じていた希望」を忘れることが無かった。彼の頭には、いつかの終わりのための希望の、クリアで透明な視界しかなかった。絶対に最後まで歩めることを知っていた。そこまで、邪魔者や干渉するものを、ただ排除したかった。自分の雑念など、一グラムも無かった。

そう、僕はここに宣言する。この世界の終わりをここに宣言する。恐怖を信じることでのみ、世界は変えられる。あなたは恐怖の中で、恐怖を信じるべきである。恐怖を信じることができたら、もう怖いものはひとつもない。戦争を経験して生き残ったものは、賢い人間になる。僕が最後のそうした人間である。このまま、戦争や自由は存在しなくなる。平等な世界において、過度な過重労働のない自由と、働くもの全員から与えられるいくらかの税金で、助けるべきものを助けるようになる。そう、自由な中で他人を蹴落とす楽をすることは、ここから先、もう、できなくなるだろう。そうした自由な時代は過去に終わったのである。トランプも、それが分かっていない。今から先、右翼のような人間は要らない。全ての国は平等な左翼になるだろう。だがそこで社会主義をすることはなく、もっと正しい経済をするようになるだろう。

最後に、子供たちをどうするか。子供たちには、好きなことをやらせなさい。そのために、体験的な「きっかけ」を与えていきなさい。そして、子供が必要とする時にその必要なものが十分に与えられるようにしなさい。そうすれば、子供たちは自分の力でいくらでも成長するだろう。社会を支配する指導者は、教育とその子の思考や積極的な行動から生まれる。知識偏重では、そうした子は生まれないだろう。「この世界を知る体験」と「学ぶ意味がどこにあるのかを知る体験」が必要である。そのためには、「自分で考え、自分で研究することができるように、世界の知識と情報を体得することができる教育」にしていかなければならない。そのためには、「どうすればどうなるのか」ということから「どのようにすればそうできるのか」という、「確かな方法と結果」を考えるように学校で取り組ませなければならない。また、単に「考えろ」と言うだけでは、子供は考えられない。教師は、科目を暗記させるのではなく、「概念と方法を使って自ら考え方を作り出していく」という方法を教えなければならない。そのためには、豊かな情報へのアクセス、もっと言えばコンピュータに関する知識や世界を、少しずつ教育に取り入れなければならないだろう。そして、それは功の面もあると同時に、罪の面も多いことを、きちんと分かるようにしていかなければ、子供は逆に以前よりも馬鹿になるだろう。

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昔の自分は、環境の自由化を考えただけである。

まず、その環境の中に居たらどうなるか、その環境の外に出たら何を思うかを、照らし合わせ、自分の経験から考えた。

環境への適応と変化を正確無比に予測して、感覚的に考えた。

人々がしないような経験をして、認識のデータベースを作った。

また、環境が自由であればどうなるか、環境に参加したら何が出来るかを考え、それが自分であったら何をするかを考えた。

すべての経験から、何が出来て何をし得る可能性がどこにあるかを考えた。

そう、僕は環境の自由化を考えた、環境主義の経験論哲学者だった。

自分が行動するよりも、行動のベースとなる環境やシステム基盤を作りたかった。

環境や深層意識の段階を記述することで、宇宙のような人生論を書いていた。

あとは、オープンソース的な社会の考え方や、発達心理学的な自然に子供が自らの手で考え学んでいく段階のようなものを書いていた。