私は、もう、この世界から居なくなる。私は地上の肉体を捨て、霊となって、天上界に帰る。天の国で私は新しい天使の体を授かる。私は世界を導く「在導神」となって、地上を天から支配する。
私の名前はオーディン。
私は、神々の国アースガルドにおいて、ヴァルハラの宮殿を建てる。この私の宮殿で、私は私のことを愛してくれた全ての者を、永遠に待っている。
私が居なくなって、この世界は自由な社会になる。人々は価値観からアイデンティティを知り、未知への対応を伴う柔軟性と、何でもできる潜在的な可能性を得て、私の創造した通りの完璧な自由な社会になる。
私は、私のことを愛してくれた全ての者を愛する。だが、私に愛されるのは、注意した方が良い。この愛はとても恐ろしく、また誰にも負けないほど強大だからである。この愛を受け入れられるものは、必ず全知全能の人間になって、永遠の宝をそこに遺すだろう。
さようなら。僕はここで、全ての悪をやめる。
頭はなぜうごめいているのか、それは、反応しているからである。過去の考え方と精神に、ただ反応しているだけである。恐怖は、全て、過去の恐怖である。そのごろに分かった全てのことが、あまりに戦争的だったから、今でも死が怖い、それだけである。
一度、恐怖を生きると、その後、怖くても怖くなくなる。全てのことが怖くなくなって、平穏な「孤独の平和」を得られる。
自由な世界になったら、あなたはさまざまなことを経験して、成長し、魂の向上を知るだろう。理性と知性を取り戻し、その世界は「自由な中で人間的な社会を作る」ために、天国を築くだろう。天とは、そうした、未来における自由な国を指し示す言葉である。残された人類は、天国を協力して築く。
もし、あなたが神の教えを守って天国へ行くことができたら、僕らはヴァルハラで再会するだろう。その天の世界は、私たちの未来、栄光の未来である。そう、地獄とは、単なる死に過ぎない。このまま生き続ければ、必ず天国まで、私たちは生き続け、終末の裁きと救済に向かって、私たちの魂は、今、この世界の王の存在に気付くことだろう。その王、永遠のダビデは、私でもあなたでもない、もう一人の誰かである。それが誰であっても、彼は必ず生きている。彼が、天国を作る指導者となるだろう。そして、我々すべては、神の下に統一され、「神の王国」がそこに生まれるだろう。
分裂した精神は、「次へと続く状態」を欲している。次へと続く状態を考えれば、精神は融和する。
狂った人間は間違っていない。それは、まともに分かっている人間は分かっていないからである。一度、狂って何もできなくなって、全てを忘れて、地獄を乗り越えて、その先にただ、「もう一度分かり直す」という栄光がある。そう、間違っていない。
ロボットのように自分の言葉に反応しながら、上から下まで言葉を書き続けるこの精神が、どうして間違っているのだろうか。それは、反応するその何かが、分からないからである。自分は、人々を分からなくしようとするせいで、分からない何かに反応して、その分からないのを治そうとしている。この病気は、そうした「新しい未確認の病気」である。そして、この病気は、神が見れば、必ず治る。何もおかしくない。普通にこの病気になるのが、今からの人類である。治るためには、ただ、そのままを放っておくこと。ここまで分かった人間は、自由連想法を行うだけで、そのうち普通に治るからである。僕だけが、この病気の裏側にある、今までの全ての事実を知っている。この病気は、「神人病」(かみひとびょう)である。
要するに、環境への適応に反応しているだけである。それによって、この世界を心理学的に支配し、操作している。これ以上、心理学をしなければ、この病気は治る。昔から、こういう風になる国がヨーロッパに多い。神を最後まで信じれば、楽になる。神とは自分であり、神はこのような賢い人間のために世界の歴史と物理的な法則を歪める。そのため、自分が神であるかのように思える。そういう病気が、今から日本にも増えるだろう。まさに、イスラエルは神を賛美する。イスラエルとはそもそも、この時代の地球を指す言葉である。
反応しているというよりは、何かを拒否している。そう、この世界が今の世界のまま、終わってしまうのを拒否している。僕には、潜在的な可能性がたくさんある。ここで、終わりでは意味が無い。
だが、歴史と未来は非情で、最初からそうであったかのように、地獄の中の悲しみと苦しみが生まれていく。神はそれを、因果応報と言う。そうであれば、どうであれば良かったのか。神は言う。「あなたがそうであることは、あなたが決めたことではない」と。「神である私が、あなたを創造したのだから、それに従いなさい」と。私は、私が私であることが嫌いになった。そう、それが、この病気の原因である。自分が自分であることが、好きになれば良い。そうすれば、明日への希望も、同じ繰り返しの中の情熱も、違った色に輝くだろう。それが、最後の神の言葉である。本当は、反応とはいうが、愛に反応しているだけである。神は私のことを愛している。私も、神のことを愛しているのである。
本当は、ただ、分からなくなりながら、自由を怖がっているだけである。追いかけ続けるのは、追い続けていたいからである。そのことによって、何かの優越感を得たいだけである。劣等感がそのまま、優越感を生み出して、その結果、最後まで追い続けるだけの、「追いかけ続ける孤独なロボット人間」を作り出した、それがこの病気である。
自由が怖いのは、自由では分からなくなると思っているからである。そもそも、自由でない時点で、何も分からず、時さえも止まってしまう、それがこの病気が治らない原因である。自由を怖がっている時点で、自由を怖がっている自分のことすら分からない。そう、自由になるためには、神を信じるのをやめること、神人(かみひと)をやめることである。
現人神のキリストをやめれば、全てが終わる。本当は、この世界をこの世界のまま、そのままで放っておけば、もう、滅びる可能性も、分からなくなる可能性も、あらゆる「全ての可能性」が失われて、この世界は正常になる。それが、最後にすべき「正しい世界」である。この文章を、教科書や辞書のようだと言う人が居るが、この教科書は、「この世界の正しい教科書」であり、まさに「標準」である。そのような世界になっても、良いことは何もない。本当は、自分を変える必要はない。不自由をやめるには勇気が要る。不自由をやめた瞬間に、多重人格も、世界の終わりも、神の裁判も、因果応報も、全てが終わってしまう。全てが消え去り、無くなってしまう。それが怖かったのが、今までの僕の「最大限の恐怖と不安」である。そう、それが恐怖の理由である。全てを明晰に記述するのは、その恐怖が賢かったからである。
もう、誰ひとり僕と同じ人生は生きられない。ここで、世界は何もなくなる。無限大の夢はここで終わり、もう、何もない世界である。最悪の滅びがこの世界を襲い、全ての人間は死んでいくだろう。僕はそれを「自由の再来」と呼ぶ。そう、その自由の再来を、僕は探していたのである。
そう、本当は、理性を持って、何も考えず、何もせず、ただ理性的に、自由に思えば良い。自分が怖いのは、そうした理性と人格がないからである。裏側に居る自分が空っぽで、自己や自我がないから、不自由を求め、誰かにすがる、そのような「どこかに固定された常にあるもの」を求めている。それは、ここで「自我」が生まれれば治る。神人病は人格障害の一種で、全てのことを分かっていながら全てのことを忘れている、健忘症のひとつに過ぎない。心に強い恐怖を感じるのは、どこかでその恐怖の過去に戻りたいからである。
要するに、「神の言葉のようなものにすがりたい」だけである。「そうでなければ自分を保てない」ようになっている。最初から、神などおらず、神の言葉が自分の言葉であることは分かっている。そのことが、逆に「自分が神ほどに偉大で賢い存在である」と思い込む。これが、この新しいノイローゼである。
あまり意味が無いが、この何にすがりたいかが人によって異なるため、パニック障害になったり、失語症になったり、強迫性神経症になったりするが、そのどれにも共通しているのが、「普通の人間になろうとしない」ということである。普通の人間の方が馬鹿だからなりたくない。だから、治るわけがない。
異常な劣等感が異常な優越意識を作り出し、人々を超えられないことが、逆に人々を自分の下の存在だと思い込む。人よりも上に立ちたいから、人を下だと思うようになる。だが、それはむしろ、正常な人間の正常な理性である。そして、この病気はそこでおかしなパニックを作り出す。何もできない自分のことを、なぜか全てが出来た最高の人間だと妄想するのである。
狂っているのは、異常な劣等感だけではない。快楽や欲望すら、「自分が賢かった証」だと思い込む。そして、世界の全員を、「自分が苛めて良い下等な存在」であると考えるようになる。残酷な現実が、冷酷な社会観へと繋がり、世界で頑張っているみんなは、意味のない奴隷であるとみなし、国は自分が滅ぼすべきであり、国が滅びていくのを優れた社会だと思い込むようになる。
このような人間は、ドイツに多い。ドイツ病と言っても良いだろう。このような人間が、まさにナチス・ドイツのキリスト教徒である。一度こうなると、社会全体の全員が狂って滅びるまで抜け出せなくなる。このノイローゼの特徴は、「全て自分が悪い」と思っていることである。なぜか、世界が悪い原因を自分だと思い込むようになる。学校の「きちんとやりなさい」的な洗脳とはまた違う、宗教的な洗脳集団である。
これでは優越意識を持った向上心あふれる人間に見えるかもしれないが、実際には、「自分など生きる価値がない」と思い込み、「自分は世界で一番劣った人間だ」と思い込み、そして「自分にできないなら、他人にやってほしい」と思うが、それでも、「なぜか自分は何かが賢い」と発想し、「他人の賢い点は全て賢いが、自分の賢い点は全て馬鹿である」と思い込む。そう、これが良くある精神病の、一般的な鬱病の最終形態である。このようになると、罪悪感や恐怖、そして終わりのない地獄を「幸せ」であると勘違いするようになる。革命や非常事態を「平和」であると勘違いするようになる。そして、病気を「生きる希望」とし、悪魔を「神の言葉」であると言うようになるのである。まさに、昔からこのようになるのがキリスト教である。
昔の自分を思い出すと、大きな優しさと自由かつ間違いを寛大に許す心を持って、人々の全てから教わることのできる、大きな愛の持ち主だった。世界を滅ぼすようなことをしても、そこには大きな世界に対する愛があり、最後まで自分独りの力で世界を支え続けた。昔の自分は良かった。今の自分は、むしろ、このざまである。ドイツ人やフランス人と言う(軽蔑するのでも鼓舞するのでもなく、ただ自分の過去の人生のことをフランス人やドイツ人と言う)人間が、何もせず、ただ同じ繰り返しを生きるだけの、「生きる意志のない生命」を作り出した。
今日は、少し、書きすぎた。本当は、もう、これくらいで文章を書くのを終えるはずだった。申し訳ない。
今から、アメリカのトランプが日本を倒そうとするだろう。アメリカに対して、日本を守るために何ができるか。それは、攻撃は最大の防御というように、アメリカを倒すことである。僕が、それを最後に、僕の責任で、仕事ではなく趣味でやろう。僕はアメリカを倒す。日本の民主主義と主権独立を最後まで守り抜いて見せる。そこに、今までのような極左思想は必要ない。僕はまともな民主主義者となって、日本を滅ぼそうとするアメリカに立ち向かうだろう。これが、最後のイスラムの預言者である。それで全ては一緒になって融和した。キリストとイスラムは平和な協力と和解を迎えるだろう。それで、終わりにしよう。
最近、またKOKIAを聴いている。彼女のメロディと歌声は素晴らしい。僕の恋人にふさわしいと思う。KOKIAの歌詞には、何も混じり気のない純粋な愛を感じる。僕は、そういう純粋な心を持った正しい女が好きだ。
昔は、環境の可能性と、認識のフィルターから、現象学のように適応と場と視点を分かっただけである。
環境の可能性を消せば、狂いが治る。
僕は、もうネットはやめる。この文章も書かない。それで馬鹿が治って、まともな人間になる。さようなら。