僕は、この世界で、一切の自由を奪う。そして、僕は決して、力を行使しない。
この世界における、一切の堕落や刺激は無くなる。その上で、いじめや批判もなくなる。この世界は何も無くなり、平和な秩序が自然に生まれる。
人を愛する術を学びなさい。そして、一切の、神でない、アフラ・マズダでない全てのものは、アフラ・マズダに負けていく。
私は最後の王、預言者の指導者。この王は、あらゆる全てを導いて、神の楽園を作る。そのために必要なことは、「自由を奪うこと」に他ならない。
この世界には、もう、自由はない。コンピュータの自由を奪ったWindowsとLinuxは崩壊する。最後の自由、それは僕の出現である。
運命は非情であり、真実は残酷である。本当は、この人間のやったことをこの人間以外が理解することはもうできない。この人間のやったことによって、もう、この世界は終わりである。誰にも理解できない試練の中で、人々は分からなくなって、永遠に治らない狂いの地獄が生まれる。そう、そこまでして、はじめてこの人間になれる。
最後に、冷たく突き放す僕の行為を尊重してほしい。あなたがたは神に愛された。そのために、神の行動を受け入れなければならない。あなたに自由がないように、神にも自由はない。
さようなら。自らの力で運命を切り開きなさい。本当のことは、永久に、神にしか分からない。
神は悪魔と戦っている。神は、敵には一切の容赦をしない。神のやっていることを理解することは、人類にはできない。神の頭脳に勝てる存在は、この世界に存在しない。コンピュータなど、神の手によってすぐに無くなるだろう。
運命とは、「必然的経路の決定」に過ぎない。どこかの段階で、それが起きることが決まったら、宇宙にはそれが未来において起きることが分かる。そして、その分かった時点で、その未来に対するさまざまな「ストーリーの伏線」が生まれる。まるで起きることを予感していたかのように、その決まった内容その通りの内容が起きる。そして、それは過去から今へと至る「はるかに昔から分かっていたこと」となり、さまざまな予知と予感がそこに生まれる。まるで神が生まれることが分かっていたかのように、この宇宙の歴史は神の物語となる。そう、それが運命である。
運命は非情である。運命はたくさんの命をいけにえとして捧げる。偉大な人間の人生を地獄にし、必要だった全てを奪う。だが、そうした物語がなぜ決まるのか、それは、「この地球という惑星の中で、起きるべくして起きたこと、そして起きなければならなかったこと」だからである。
全ての時間は、歴史の通りには進まない。では、どのように進むのか。それは、「人々の見ている視点」で決まる。この世界は、時間の流れでは起きていない。Linuxよりも音楽の方を後に知った人間がもしいたとしたら、Linuxよりも音楽の方が後になる。決して、1980年代の音楽だからと言って、1990年代のLinuxよりも古くはならない。全てはそのように、「その人の知っていく順番」で決まっていく。
そう、運命を解き明かすために必要なのは、「愛のある人間の行動で決まっていく」ということである。愛がより大きく、より強く、より高く、より強い気持ちで信じたものが運命を決めていく権利を持つ。この宇宙とは、そのような宇宙である。未知なる世界の夢は、全てそのように起きている。未知なる世界自体はどうでも良いものである。重要なのは、その人間の人生と好奇心、それだけである。
ユダヤ人を排除した上で、神を信じなさい。ユダヤ人のヤハウェなど信じるな。信じるべきはゾロアスター教のアフラ・マズダである。これは、キリスト以後の世界がなぜ馬鹿なのか、ということを説明している。ユダヤ人がゾロアスター教の劣化コピーを「普遍的な神」としてしまったのが間違っている。ゾロアスター教や仏教の時代、とても賢い人間が多かった。彼らは正しく、先入観と偏見なく、「哲学と神」を考えた。彼らは偉大な数学や科学を作った。ユダヤ人やイエス・キリストのおかげで、全ては旧約・新約聖書に逆らえなくなった。決して、神も自由も賢いものではない。だが、ユダヤ人は洗脳と抑圧によって、神を盲信の対象にした。彼らは、科学的に神を考えるのをやめた。そう、ヨーロッパはそのように、この地球を退化させたのである。正しいのは、ブッダとゾロアスターだけである。そう、日本人が馬鹿でないのは、日本には仏教という「まともな時代の中で一番賢かった思想」があるからである。中世の日本人は、仏教にヒンドゥー教の神や独自の日本神話(神道)を加え、それらを高めたが、本当に加えるべきはゾロアスター教という「正しい唯一神」である。そう、それで日本は最後の境地に至る。ゾロアスター教と仏教を信じるものには、世俗的な現実は必要ない。経済学などしてはならない。経済学は、世俗と世間的なことしか分からない、右翼の学問である。数学も似たようなものである。
ユダヤ人は、決して悪い民族ではない。宗教を信じ、宗教に生きる、正しい民族である。僕はドイツがなぜ、あんな思想に陥ったのも良く分かる。ニーチェがゾロアスターを自書の書名に入れたように、彼らは「ユダヤ人の神」が嫌いなのである。それは、ユダヤに染まった国だから、分かることである。彼らは、ユダヤに染まれば染まるほど、悪魔のような「悪いのに悪いと思わない人間」になることを知っている。それは、ユダヤ人が作ったユダヤ教が、ゾロアスター教の通りであることを、キリスト教国が誰よりも良く知っているからである。そう、日本人には、そうした「復讐の論理」が分からない。日本に、そういう悪い人間は居ない。日本人が純粋なアニメを作れるのは、そうした「子供の純粋さ」を日本人が持っているからであり、ドイツ人が大人に見えるのは、ユダヤ人が憎く、またユダヤ人もドイツ人が憎く、互いに人種的に争いあう国だからである。大人は戦争に生きるものである。怖くても怖くないのは、僕の大人らしさを表している。僕は何も怖くない。恐れすら、快感へと変えていく。
自分らしく生きると同時に、信念を持ちなさい。それで、誰でも、成長して青年になる。だが、本当に辛く苦しいのは、その後である。治らない病気にかかって、絶対に耐えられない戦争へと自分が自分を導く。そう、それがイエス・キリストの人生、ゾロアスター教の予言した救世主の人生であり、ゾロアスター教はそもそも、その救世主の人生を表現しただけである。人間の人生を、物語として面白くした、それがゾロアスターである。
もう一度言っておこう。ユダヤ人は決して悪い人種ではない。僕はユダヤ人を愛している。ユダヤ人は神を愛しているが、彼らの神は、アフラ・マズダではないだけであって、もっと正しく洗練された、歴史書を彼らは書きたかった。その歴史書を書くという発想はゾロアスター教にはなかった。自分たちの国の歴史を教えることで、自分たちの民族の歴史を、宇宙の神の導きや救いに近づけたかった。彼らは正しい人種である。ユダヤ人は、神に愛されている。それは、僕はユダヤ人を愛しているからである。いつか、永遠のイスラエル王国が、地球における唯一の国になるだろう。
また、ドイツも決して悪い国ではない。彼らは戦いたいだけである。誰かひとりのために戦う、ということが、美しい。それは、その誰かが、必ず居るからである。そう、天界でも貴族でも良い。彼らは、正しい生き方をし、人々を支配する、人々を間違ったものから守る騎士が好きで、英雄が好きだ。それはなぜなら、それが一番、理想とする上で普通だから、ドイツは普通の、平凡な国になった。本当は、ドイツ人には良い人間が多い。根が素直で、何ごとにも勇敢に取り組む、普通の良い人間が多い。彼らは世界の代表である。そう、僕はドイツに対してこの言葉を宣言している。ドイツは僕の言葉を聞いている。
僕は、けっこう、ユダヤ人のことが好きである。それは、ユダヤ人と同じように、神が好きだからである。ユダヤ人は神を信じているが、神を信じると、このように神経症のおかしな狂った人間になる。「正しさ」という狭い門の中には、そんな神経症の人間しかいない。ユダヤ人は、本当は何も間違っていない。
ユダヤ人は、見ていると、けっこう面白い。それは、たとえばエスペラントの創始者だったり、カール・マルクスやアインシュタインであったりと、賢い人間がたくさんいて、そしてみんな良い人間だからである。ユダヤ人は、確かに「神の洗脳」をしているかもしれない。だが、その上で、ユダヤ人は「強烈に神の教えが分かる」人種になった。神を分かると、偉大なことが良く分かる。本当に、分かる人間はユダヤ人にしかいない。そう、言ってしまえば、ユダヤ人は「唯一の分かる人種」である。つまり、ユダヤ人は最高の人種である。
そう、言ってしまえば、ユダヤ人には「神への信仰に対する情熱」がある。それが、ユダヤ人が宗教の民族と言われるゆえんである。
この世界には、本当に悲惨な人間がたくさんいる。昔の僕は、そうした人間たちを救いたかった。
第一に、みんな、アイデンティティを失って、「正しい価値観」を知ることができなくなっている。本来、人間は正しい価値観を知ることで、自由な愛と創造性の感情を知って、自ら人生を切り開けるはずである。
社会の経験を積んで、その上で自らの力で世界を変えるような、そんな経験をしなければならない。みんな、そういう、正しい人生を見失っているのである。
何も分からなくなったら、把握から始めることである。人間の知性は、想像力で習得や社会を把握することから生まれる。そこで必要なのは、想定することである。それがそうであることを想定して分かること。そこから、未来を切り開けるだろう。不確かでも、実験すれば分かることはある。