新・日記2に戻る | 2019年5月の日記に戻る

=2019-05-25=

昔は、独り、孤独に生きただけである。引き篭もりになっても、人生を諦めなかった。ネットを見て、人生の未来を開拓し、習得と実証と積み重ねから、この世界を変えられるようになった。

最近は、戦いという最初の賭けに負けて、その後の執筆という他全ての賭けに勝った。勝てる戦いを最後まで頑張った。

数学的に考えるならば、高校の数学はいらない。必要なのは、発見した事実を積み重ね、実証して世界を分析する力である。あとは、この世界全てを、ただ見て知れば良い。それだけで、自らの学ぶ力を知れる。

積極的に、能動的にやるとはどういうことなのかを知りなさい。

イエス・キリストが言うように、広い門よりも狭い門から入りなさい。そして、地上に蓄えるのではなく、天に蓄えなさい。そのように生きれば、必ず偉大な人生になる。狭き門を見出すものは稀だが、そうでなければ分からない。

自分なりの答えを見つけ出し、作り出しなさい。それができる人間に教師は必要ない。自らが科学者となって、自由に分析しなさい。自由自在に明晰に分かることができるようになった時、それを人は「哲学者」と呼ぶだろう。そう、あなたはモーセになるだろう。

社会の構築に必要なのは、人間性を尊重すること、自然に変化可能であること、それぞれが自由であること、自由の上でそれぞれが自分の意志で協力すること、誰か独りによって勝手に決められないこと、全員が平等な「みんなの社会」をシステムやモデルの上で作ることである。だが、そうした「正しい社会」を作るための強権的な独裁は許される。逆に、何もできない民主主義の自由には意味がない。

これで、万事すべては解決である。ここまで来たら、もう、精神は治さなくて良い。これ以上は何もしなければ良い。

精神を治したいのであれば、数学を殺しなさい。数学的知性は必要ない。僕に足りないのは、数学ではない。本当は、足りないのは日本語である。数学が分からないと思っているが、数学は分かる必要はない。分かる必要があるのは、日本語である。日本語が分からないから、言語の知性がないだけである。仮想社会など知る必要はないし、現実から理想を分析するのはもう十分である。社会科も心理学も生物学も必要ない。必要なのは言語と言葉である。それが分かれば、大学など、自分独りだけでできる。日本語で考えれば、考え方の適用が分かる。社会を分析して、独自の考え方を経験から見出すことができるようになる。精神も言語的に治る。

精神は、治さなければ治る。精神を治しているのは、ただ殺しているだけである。だから、狂った人間は極右になる。精神は差別すると死ぬ。精神はそもそも、治すべきものではない。作り上げ、育て、築き、生かすべきものである。そうなった時、初めて精神は賢くなる。治しても意味がない。賢くなれば、それでもう、普通の人間になる。精神を生かせば、自然に必ず自愛あふれる良い人間になる。

賢者にあって愚者にないものとは、喜ぶこと、驚くこと、反省することである。賢者は、良く喜び、良く驚き、良く反省する。そのように先入観なく、「自分を変えていく」ように生きればすぐに正しい人間になる。正しい人間は、何事にも躓かない。必ず困難を乗り越え、一日の中で多くの進歩を遂げる。一年を100年のように生きられる。それが、正しい賢者の生き方である。

方法だけではなく、目的を考えなさい。そこから、理想と現実が見えてくる。理想主義に偏ることも現実主義に偏ることも良くない。両者はバランスが伴ってはじめて哲学者の「思考体験」となるからである。それを人は歴史学者と呼ぶだろう。

自由の理想とは、それぞれが自由なシステム基盤を作ることである。ここで言う自由なシステムとは、インターネットの掲示板のような「ある環境でそれぞれが自然にそれを使ってやり取りをするシステム」である。そして、もうひとつの理想は共有である。コアのシステムを共有し、それぞれはそのシステムを自分たちのものに改良・改造しながら、カスタマイズして表面的な部分を拡張することができるようにする。それが、この現代社会における、ひとつの理想である。だが、これは「必ずインターネットを使う」という前提に基づいている。現実世界で言えば、計画経済でゼロから社会を作ることが、社会体制の改善によって容易になることも考えられる。ひとりの指導者を選び、その指導者が自分の好きなようにすることも理想の一つである。そして、それらのどれもがとり得る「体制のメタ体制」を作っていくことが、EUのような「戦争を放棄した経済共同体」へと繋がっていく。最終的には国境はなくなり、ひとつの「メタ体制」が支配するようになる。世界は必ず、自由になっていく。それぞれの権利は拡充され、不当な拘束や逮捕を受けず、その上で平等な安定した生きていく権利を全員が甘受する。そこでは、生きられない人間は居なくて、失業も存在せず、全員が「安定した人間的な暮らし」を得られる。だが、そのために全員は、自由な中で働かなければならない。働かないものに、報いは与えられない。これらは、それぞれの共同体が選択するメタ体制の中で、矛盾せず、矛盾したとしても自らの判断で選択できるようになる。

まさに、「コアとなるシステムを共有すること」と、「それぞれが自分の目的のためにカスタマイズ・拡張していくこと」によって、新しい政治体制を作ることができる。そこでは、縦割りの巨大な省庁は存在せず、あるのはインターネットに共有された「仕組みの設計図」を「共有」することである。また、プロジェクト・マネジメントにおいても、公務員が税金で行うのではなく、「国民全員が参加する新しい発想と手段の共有」が行われる。自動車の関連産業のように、それぞれの制度的部品をそれぞれが作り、それを組み合わせることでデプロイをディストリビュートしていく。そのようにすることで、モジュラー的な「メタ体制におけるコアの共有」が行われる。まさに、国はなくなり、それぞれの共同体の関与と共有によって、社会は「自由なままで成り立たせる」ことができる。会社においても、競争をベースにした資本主義の株式会社モデルではなく、下請けと総合企業による「専門部隊のシェア」によって、それぞれの場合や状況に柔軟で臨機応変に適合させた、「ちょうどいいサービス」を行うことができる。そこには自然な可能性があり、新しいソ連がそこに生まれる。

また、会社のようなものは、常に存在しているものではなくなる。必要に応じて、必要な時にインスタンスに作られ、必要な時に自動的に消滅する。会社の役員は全て資格を持った派遣社員となる。プロジェクトはインターネット上に公開され、誰でも参加したり離脱したりできるようになる。仮想的な国や人間すら、インスタンスに作られたり削除されたりするようになるだろう。

ただし、このような国をやるのはやめた方が良い。完全に滅びて廃墟になるだろう。正しい国など、どこにも存在しない。三権分立と議会制民主主義は、イギリスの市民革命やフランス革命に由来する、とても古くて場当たり的な考え方である。もう一度、国のあり方を再考した方が良い。封建社会の身分制度は奴隷を生む。スペインは奴隷貿易によって豊かになった。何が正しいのかといえば、ある意味、「強さ」すら正しい。他国に勝利し、自国をファーストと叫ぶ自由主義者は、全てを勝ち負けだと思っている。

あとは、日本後で言葉を作って考えれば分かる。

ものとは、価値と所有である。社会とは、価値の生産と供給である。そして、人間の側には、願望、欲、価値観、すなわち好き嫌いと望みが存在する。

社会において、会社にあるものは、安定した生活の保障と、それぞれの立場と権限である。そして、それら全ては、自然に生まれたものである。

この世界が何であるか。そこには、「主たる観念的信念」つまり「主念」が存在する。主念とは、たとえば「全ては経験的に培われたものである」とか、「全ては有用性と功利主義に過ぎない」といった、主たる信念の観念である。これは、発見と価値観と世界の見え方を変えていくことで、大きくなって深くなっていく。たとえば、「フィルターとは見方を変えることである」といったことが、主念に値する。「オープンソースの下では、全てのソースコードは自由にアクセス可能でなければならない」といったものも、主念に相当する。主念は、啓蒙的な「先入観の排除」から生まれることもあれば、規則的な「支配的虚言」に至ることもある。嘘やでたらめな意見から、主念を構築することもあれば、思考と思索を重ねる中で、「行き着いた考え方」としての主念という発想もある。

人間は、経験から見方を変えて分かっていく生き物である。経験から、「全ての見方は主観に過ぎない」ということが分かり、「客観的に務めても必ずどこかで主観が入ってくる」ということも分かる。だからといって、客観が無意味であるわけではない。「絶対的にものごとを見ることで、全ては相対的に生み出されたものにすぎない」ということが分かるからである。いついかなる場合でも絶対性を維持することは、難しい。だが、むしろ、相対性を追求した場合において、全ては「絶対的なプロセス」として「醸し出される」のである。明確に相対的に考えれば考えるほど、絶対的精神がそこに生まれていき、全ては絶対的なプロセスである、ということが、経験から証明や実証から見えてくるのである。これは、ある種の「真理の解明」に近いものではないかと思う。

社会とは、自由である。社会生活と制度の全ては、自由と不自由のバランスから考えられる。ルールをそれぞれが変えることは、「それぞれのためのルールをそれぞれが作る」ということでの「民衆の超意志」であると考えられる。全ては、意志と選択から考えられる。また、社会における「意味」は、同時に「自由なモデルを作る」ことで考えられる。「それぞれのための超意志という意味でのモデルの創造」から、「自由になっていく自由モデル」を作ることができる。この基礎的なモデルは、「応用的にさまざまな場合がある、中心となる普遍的なモデル」であると同時に、「自らの経験から培われた、帰納的なモデル」である。このモデルをどのように構築するかによって、信念や考え方が変わっていく。僕の場合は「自由」から構築したが、これをもっと違った、たとえば「平等」や「社会所有」から構築することもできる。自由とは、超意志によるそれぞれの個人とグループの自由化と、個別のモデルを応用的な状況に当てはめて社会を作っていく、自由な上でのモデル化である。

すなわち、この哲学は、「それぞれの自由という前提から、どのようにモデルを作っていくか」という方法論に他ならない。ここで言う信念はリアリズムとアイデンティティ、すなわち現実と価値観の「理想における交わり」である。この交わりがどのように生まれるか、それは経験的な「自らの成長と悟り」から生まれるものであり、自由の意味や価値とは、そのようなモデルを作ることで、社会における「人間性と自尊心の尊重」をどのように実現していくか、ということになる。それによってこの世界の可能性が解明でき、「この世界を如何様にも変えられる」新しい指導者を生み出す。これこそ、僕の思想である。モデルは、簡単な「何に対して何がどうなるか」という「作用と振る舞い」のモデルであり、そのモデルからカントの批判哲学やヘーゲルの歴史論のような「歴史的な様相の実像」を見出すことができるだろう。そこにあるのは、「可能性と事実という両極における、それがあったそのままのありのままの歴史的真実」である。ここに、フィルターと弁証法は融和し、この世界を「どのように見えるか」という認識論と、「どのような過程を経ていくか」という歴史論が、ここにバランスを持って両立し、哲学の全ては融合するだろう。あるべきは、共通認識や依存と受動のコントロールであり、全ては「一体性と共感」から、ヒュームのような経験論やウィトゲンシュタインの分析哲学に至るまで、「全ての哲学の融合」がここに見て取れることだろう。

要するに、可能性の分析とは、「それがそのような経緯や過程によってそのような結果になった時、その結果がどのような見方によって見られるか、現れるか」ということである。可能性とは、自然に生まれていく過程の、実証主義的な結果のフィルタリングに過ぎない。だが、この可能性を考えることで、「全ての世界が可能になる」。ここで世界をしかと見つめることで、「この世界がありのまま、それぞれの在り方で存在する」ということが見えてくる。ありのままであることが分かれば、それ以上は「可能性を捉えることで自由に変えられる」ようになる。ルールから法律まで、全ては全員の手によって変えられる。そこには、個人と全体という区別や違いは存在しない。全ては自分であると同時に、自分は全てのものに「なり得る」ものであり、自分による「関与」は「実現」に変わる。干渉の全ては自由な権力となり、自由な行為の全ては「全てが真実や原理に根差したもの」であることになる。ここでは絶対自由の恐怖政治が正義である。だからこそ、自由は自由でなければならない。自由でなく、自由を行えばそれは悪であり、誰かの自由が平等に保障された時点での自由は、「その人間が本当に正しいと言える限りにおいて正義」だからである。だからこそ、その人間が「何を信念とするか」が大切であり、「良く考えなければ自由というものは扱えない」のである。そう、決して「共産主義的な不自由は間違いではなく、自由の一種である」と言える。ここに、矛盾は存在しない。

また、自由は「合理性」と「柔軟性」から見て最も正しい。ここでは、現実主義的な話が展開される。現実において、「自由でない経済はあり得ない」のである。それは、「ソビエトの失敗」すなわち「自由以外の経済の失敗」から見て分かることである。だが、ここでは、もうひとつの問いが言える。「ソビエト型のモデルだけが共産主義ではない」という問いである。そう、ソビエトなど失敗作に過ぎない。 「自由でない経済があり得ないからと言って、自由が最悪であることに変わりはない」、すなわち、「誰かが新しい社会主義を作らなければ、自由をやめることはできない」、まさにこれは「自由の方がマシ」という論であり、それは、本当は、「自分が無能であることの証明」である。

子供には、ひとりひとりのやりたいことや知りたいことをさせることである。世界をありのままに見せて、さまざまな体験や経験をさせること。そこで必要なのは、強制的に経験させたりせず、自らの「自身の意志」で学ばせること。そこから子供は、どんどん学んで賢くなる。そして、パソコンに触れさせないこと。パソコンは人間の知性や感情を奪う。普通の体験をさせれば、子供は楽しい。それを、自らの原動力となる「好奇心」から学ばせれば、子供は自分の力で大きくなる。言葉で説明するよりも、やった方が早いだろう。そして、社会を作る方法、コミュニケーションの方法を学んで、さまざまな行動体験をさせれば良い。教師は絶対的立場になる必要はなく、サポート役のようになれば良い。