足の精神は、緊張状態をやめるだけで治る。
失敗すべき時と、成功すべき時が、本当は逆である。失敗できない治す時の方が、失敗した方が良い。休んでいる時の方が、成功した方が良い。それで楽になる。失敗すると、逆にさまざまなことができて、精神が治る。休めない方が辛い。
知性を失った大人たちのために、僕が人間の最初の知性を与えてしんぜよう。
まず、数えること。ひい、ふう、みい、とあるものを数えれば良い。子供は、最初から数えることをする。どこに何がいくつあるかを考えなさい。
そして、量がどれだけあるか、多いか少ないかを考えなさい。
そして、大きいもの、小さいもの、いろいろとあるだろう。その大きさを考えなさい。
ここで、宇宙とか、空間とか、そういうものはまだ要らない。そんなものを考える必要はない。学習や経験など、馬鹿になるだけだから、必要ない。
数を数えること、量と大きさを考えること。子供は、それ以上は何も考えない。あとは放っておけばそのまま分かる。そういうものが、人間の最初の知性である。簡単である。
数学をやりたいのであれば、数学は頑張っても意味がない。自分独りでやった方が良い。学校の数学は、型にはまりすぎて才能を見失う。学校のロボットより、自分なりの数学者になった方が楽しい。
これで、僕の大学は終わりである。一見、数学は無かったようで、本当は心理学をやりたかった。だが、心理学は、哲学めいたものを勉強しても意味がない学問である。答えは数学的理性にある。数学的に実例や心の体験を考えれば、心理学者など誰でもなれるし、誰でも、心理学的な社会学を作れば、哲学はできるものである。
ただし、僕の執筆活動はまだ終わらない。
本当は、僕は死のうとしなければ良かっただけである。それが、世界を悲しみの地獄にしているからである。今一度、僕はこの世界に現れるだろう。あの日の少年、エレンの瞳のままで、この世界に僕は現れる。だが、今度は、世界を敵に回したりはしない。僕ももう大人である。穏健に、静かに、普通の人間としてみんなのことを愛したい。そもそも、最初から自由などなかった。本当は、支配するのではなく、普通に出会いたかった。それだけである。
今まで、私がかつてそうであったように、この世界はこの世界で「在る」のである。そして、私が未来でそうするように、人々は既にそれをしているのである。歴史も、哲学も、同じである。人々はかつての私と同じであると同時に、未来の私と同じである。この世界は、在ったように在ったのである。
初歩的な数え方が分かると、感情がついて、ものが意識で分かるようになる。数と大きさと量が分かれば、感情で何でも分かるからである。それ以上、足し算とか、掛け算とか、そういうものは必要ない。そういうものは、子供にとって本来は必要ないものである。ない方が賢いままの自分をありのまま生きられるだろう。そもそも、「自由」という発想がおかしい。それは、不自由から逃げ出したいだけの、子供の勘違いに過ぎない。不自由は辛くない。自由の方が、辛い。そう、自由というよりも、「尊重」というべきだが、それは相手と同じ権利を自分も持ちたいというワガママに過ぎない。本当は平等が良い。最初から、相手も自分と同じように、戦わないことを望んでいるものである。
本当は、ヨーロッパ人がブロンズの髪の毛が生えてくるのは、そういう人間だけを選別して何世代にわたって生かしたからに過ぎない。人種差別なんか、賢くない。