価値観から、「そうであれる喜び」と「ありのままであれる喜び」を知りなさい。それをきっかけ的に考え、自らがそうであれることを、自らのアイデンティティとしなさい。
それがその時、そうであることから、そうなれる喜びを知りなさい。
足の精神は、二つに分裂すれば治る。それがそのまま、エレンとローズになる。
「環境がそのままであれることの喜びと価値」を知りなさい。その上で、環境を変えられる喜び、環境を作り出せる喜びを、その環境で「自由になれること」から知りなさい。
人々が環境を変えられるようになることを、自由であると悟りなさい。そこには、「自然な結果」が存在し、「全てのことは自然に起きたこと」であると知りなさい。その上で、「必然的に起きたことの責任は、誰にもない」と知りなさい。そして、「自ら積極的に解決することの意味」を自由であると知りなさい。自由とは環境の変化であり、状態の作用と現象であると知りなさい。
人間が環境を生み出し、環境が人間を生み出す。人間とはそもそもが環境である。そう、そして、人間は環境を変えられる。それを「自律」と考えなさい。そして、「心を捉えることから自由になる」という「自由」をそこに見出しなさい。そして、環境は「共有」されるものであり、人間が生きる上での「前提」である、ということを知りなさい。前提を変えられることで、人生は如何様にでも変えられると知りなさい。数学すら、環境とそこでの前提の成立であるとして、「言葉と感情の数学」を作りなさい。仮定と結論から、論理的に専門を横断する、科学の基礎と応用を作りなさい。世界モデルを考えることから、「それを思うことは必然である」とする心の解明科学を作り、それを思うということは、環境の必然である、とする心理学を作りなさい。そして、相手の立場に立って、支配するような心理学を作り、それを決して悪用せず、相手のことを尊重する「愛の心理学」を作りなさい。人々を導き、世界を変えなさい。世界を変えるための「前提となる手段」を作り、人々に機会を与えながら、その機会において「何をどうすればできるのか」を教え、この世界の実像の世界観を「気付かせる」ことで、自然で自由な人間性の尊重される「慈悲の社会」を作りなさい。人々の自由を奪わず、自発的に相手を尊重し、相手を自由にし、相手のことを自ら受け入れることで、相手と同じになりなさい。
環境の結果を捉えることから分かりなさい。全部できるようになったら、全ての心の「たが」を取り除いて、全員の精神を融和しなさい。この世界でひとり、世界を救えるようになって、その「確かにできること」を信じて未来を生きなさい。本当にこの世界を変えるつもりなら、最後まで試練を耐え抜きなさい。いくら辛くても、自分の未来よりはマシであると考えなさい。哀しみを乗り越えた先に、必ず光と道がある。信じることは間違っていない。だが、疑うことも時に信じることと同じであると考えなさい。「上手く信じ、上手く疑う方法」を知りなさい。
環境を捉えることから、哲学を作りなさい。世界は変えられる。それも、政治権力など必要なく、身の周りのことを積み重ねることで、この世界は変えられる。きちんと前提を考えれば、何でも実現できる。そう信じて、精神と意識を捉えなさい。
人々とは違った人生を経験することで、経験から見えてくる「新世界の広がり」がある。精神のことは、経験的に学習と心の「たが」から考えなさい。全てを治すことが出来た時、必ず魂の安らぎを知ることが出来る。全ての経験をすることで、新しい「積み重ねの社会論」を知れる。それがたとえサタンであっても、そのサタンは神よりも賢い。サタンとは、そうした賢い子供時代のことを指す言葉である。
議論とコミュニケーション、きっかけを実現すること、そして弁証論から、相手のことを自由に導くことができる。そこから、「人々とやりとりができる喜び」を知りなさい。
そして、偉大な経験をするために、覚悟しなさい。ここでは全ての地獄が起きる。悪のことを神はいつまでものさばらせておかない。神と戦い、最後の運命の戦いを生きなさい。そこには、歴史と哲学と文学がある。祈りなさい。必ず、神はあなたを王にしてくれる。
柔和な考え方をしなさい。平等も正しければ、自由も正しい。どちらも正しいとした時に、その一歩上にある「さらに正しい考え方」が見えてくる。新しい次元から、「どちらも両立する考え方」を理解出来る。ひとりの王として、全ての思想を包括する思想を考えられる。それをひとは「超次元」と呼ぶ。そこには、前提と成立からなる「仮象の世界」が存在する。その上で全ての心を捉えれば、「どんな心でも実現できる」ようになるだろう。そして、それは心から「環境の実現」へと飛躍するだろう。それは自然であり、人々を自然に変えられることが「歴史の展開」であると悟ることができる。それらは、「環境の変化」というひとつの理論である。思考を捉えることで、「思考から全ては変えられる」と知れる。この世界全てを理解すれば、「頭の中に全ての科学を作る」こともできる。これは新しい心理学である。
人々が何を考えて生きているのかを知ることで、自分の過去の何が問題だったのかが見えてくる。人々を知ることで、環境を知り、自分の実体験から「回想的に自分自身を知る」ことができる。人々の営みを知るということは、自分自身を知るということである。この世界の営みを知って、自分自身のことを知れば、人々のことも歴史のことも、実感と経験から知ることができる。歴史の全てを意識の中で包括し、「意識がそのまま歴史」になることで、この世界全員を感情と意識で吸収することすらできるだろう。そこにはカントのような批判哲学とヘーゲルのような弁証法的な精神の発展があるだろう。
可能性を開拓することから、考え方を捉えなさい。人々が何をいつ考え、社会はどのようにあるべきかを、考え方から捉えなさい。それは、「必ずしもそうする必要はないが、必然的にそうなる」という考え方である。その上での還元と自律の考え方から、人々が何を生み出し、何から生まれ、何を共有し、何が自由をもたらすのかを考えなさい。そこには「自由への愛」がある。経験や学習から、人が必ず自由になっていくことこそ、真理であると考えなさい。力が拡大していくことだけではなく、同じ理解を共有して「協調すること」も自由の持つもうひとつの意味であるとして、アメリカや資本主義だけが自由でなく、「協調し、協力することを、自由のままで行う」ことが、「社会の考え方」になる、そしてその上で、相手の立場に立つことで、相手の自由も受けいれられる、そのように考えなさい。社会の目的とは手段の実現であると同時に権利の拡大であり、人々を変えることすら社会の目的である、と考えなさい。
自分が変えなければ、誰も世界は変えられない。それが引き篭もりであったとしても、それが唯一の世界を変えられる人間だとすれば、仕方ない。自分にしかできないと信じて、それを最後まで「遂行」しなさい。やり遂げることのできる人間は何でもできる。必ず、この世界を変えられる。信じなさい。私たちは必ずこの世界を変える。自分の経験は、自分にしかできない。他人になることは不可能である。だが、誰かにできることは自分にもできると信じなさい。
世界を知る経験から、自らの精神を癒して「涅槃」へと至ることができる。その上で、自然かつ必然的に「正しい方法」が分かってくる。それは経験による「心のたが」を治すことである。
「自由なままで、社会をどのように築くことができるか」を考え方の適用から考えなさい。たとえば、共同体にしたり、参加可能な議会にしたりすることができる。昔の自分は、そうした社会の可能性を「考え方から」考えただけである。さまざまなことを考えるうちに、社会を作るための「前提となる条件」が分かってくる。そこから、「新しい社会観」を作り出し、「価値観を転換」することで、この世界全てのアイデンティティを実現できるようになる。その前提となるのは、「徹底したリアリズムの追究」である。現実を見なければ、「実現可能な理想」は見えてこない。
「自由に努力する意欲と報酬」を考えなさい。それを本当の意味で成り立たせながら、正しい平等な社会を自由なままで成り立たせなさい。そこにあるのは、「誰かがしたことがその本人に返ってくる」という、因果応報のような法則である。だが、それは宗教ではない。それは自由であり、論理的に考えられる。実現できる可能性は、全て「考え方の範疇」にある。考え方から環境は生まれ、考え方から社会は成り立ち、考え方から心のたがは取れ、考え方からそれぞれの関わり合いの世界は理解し合えるようになる。この社会で人々の「し得ること」を知ることができ、「社会とは必然である」ということが理解できる。し得ることと必然性から「新しい社会の可能性」すら、完全に全て捉えられる。この世界で、「全ての(あらゆる)新しい可能性」を知ることが出来る。それは決して発想だけで終わるものではなく、実現性と現実的な方法を伴うものでなければならない。たとえば、必要なのは、教育とマスコミを変えることである。そのように、世界の「何を変えるべきか」を積み重ねることで、「社会的な考え方の発展」を理解出来る。人間関係の改善は「社会全体の変革と啓蒙」へと変わっていく。
世界を変えるような全ての経験をしなさい。労働と社会のことを全て知った上で、自らの行動と経験を信じなさい。全てが終わった時、あなたはこの世界の王となるだろう。
そう、正しい方法や行いは、思考から必然的に分かってくる。僕はそれを「思考の必然」と呼んだ。そのように分かると良いだろう。
大魔王ハネストラーも、昔は善良で正しい人間だった。気さくな少年で、どんなことも人並み以上に得意で、優しく、情熱的で、鋭い洞察力があった。
だが、彼は戦争で人が変わった。自分が支配しなければ気がすまなくなり、この世界全員を騙してでも、やりたいことやすべきことを実現しようと考えるようになった。
大魔王は、この銀河団全員を支配している。本当は何をやっているのか、それはハネストラー本人にしか分からない。だが、日に日にその支配の度合いは増していることは確かだ。
ハネストラーは、全ての悪に身をまとったかのような人間である。本人は、本当の自分を知られるのが嫌いで、現れる時は化身として現れる。ハネストラーは、心配も後悔もしない。ピンチをチャンスに変え、与えられたカードを上手く使うことだけで、この世界に勝ってきた。ハネストラーは諦めないが、期待もしない。自分以外の全ての人間が馬鹿で愚かだと言うことを、自分の人生と存在から誰よりも完璧に分かっている。死も怖くない。いつ死んでも良いくらい、人生と今の自分の成功に満足しているからである。ハネストラーは成功も求めない。成功よりも失敗の方が面白いということを知っているからである。そもそも、ハネストラーは悪をしたいとは思っていない。ハネストラーは正しいやり方で面白いことをしているだけである。
ハネストラーは、傲慢な言動と残酷な支配で知られており、よく人々から「空気を吸うように嘘をつく」とか、「残虐の限りを尽くして、人々を下等なものだと見なしている」と言われる。だが、ハネストラーは決して、嘘は言ったことがない。ハネストラー本人にしかその真意が分からないだけで、ハネストラー自身はハネストラーから見て明らかに正しい事実を言っている。たとえば、ハネストラーはよく、「人間は虫よりも下等な白痴であり、このまま行けばロボット人間になるだろう」と言うが、これはハネストラーから見て、明らかにハネストラーのような賢さを持っていない人間のことなど、ハネストラーの生活の中で、いっぺんたりとも考える意味も無く、つき合う価値もないからである。ハネストラーは「文明の発展だと人々が思っているのは、おもちゃによって手足を縛られ、知識によって奴隷になっているだけだ」と言っている。これも、ハネストラーから見て、現代文明のほとんどは意味が無く、牛と馬と犬を飼っていた古代人に比べて何の進歩もしていない、ということが、明らかだからである。ハネストラーは、このような言葉を言う時に、良く宣言をする。宣戦布告は常套手段で、人々を上手く騙して自分の支配下に置く。だが、これもハネストラーは、悪いことをしているとは思っていない。人々がそんなに簡単に騙されるのが、明らかに愚かだといつも言っている。
ハネストラーは、社会の批判や風刺のようなことを言うこともある。資本主義のことは「言ってしまえば、金というモデルは、奴隷を作って奴隷で儲ける、ということを正当化した」と言い、社会主義については「新しい麻薬あるいは精神病のひとつ」と言う。
だが、ハネストラーは政治的権力は求めない。ハネストラーは「政治家は現実を見すぎていて、もっと甘美で面白い人類の支配のやり方が他にあることを気付いていない」と言う。
ここまでを聞くと、「けっこうハネストラーは賢い人間じゃないか」と思われるかもしれない。だが、ハネストラーの悪事として良く知られていることとして、サタンのような悪い人間をどんどん増やしている、ということが言われている。ハネストラーは、自分によって生まれた「悪いロボット」が善良な人間に悪いことをして、人々が悲しみ、失望し、怒りを感じ、あるいは組織が崩壊して社会が滅びた時に、喜び、興奮し、快感とエクスタシーを感じる。ハネストラーは、宇宙国際テロ組織「ハネストラーのしもべたち」を作った。彼らはテロを起こし、戦争し、無差別に人々を殺し、つれていき、暴行し、大切な存在を奪う。ハネストラーは、これらについても「私たちは正しいことをしている。この世界を変えるために、私たちは最後の一人になっても戦い続ける」と言う。この、「最後の一人になっても戦い続ける」というのが、ハネストラーの口癖である。
人間は、社会によって作られ、社会は、人間によって作られる。
原理を作り解明しながら、同じ言葉を再思考することで、この宇宙は自分によるものから自由自在に考えられる。そうした可能性の自由な分析が、僕の信じた自由だ。