新・日記2に戻る | 2019年5月の日記に戻る

=2019-05-01=

令和時代のはじまり、そして新天皇陛下の即位、おめでとうございます。

こんにちは令和時代。そして、こんにちは、あなたとの出会いに。

昨日は、もう、完璧に精神が治った日だった。学習をやめれば治る。そのためには、何もしないこと。学習の繰り返しをやめて、何もせず放っておけば、精神はすぐに治る。

治そうとしないこと。治そうとするのも、学習だからである。

昔の僕が馬鹿だったのは、学習に基づく考え方をしていたからである。全ての可能性を、自らの学習による原因と結果に直そうとしていた。結果、精神がおかしくなって、おかしな病気になった。

昔の僕の、宗教的だった点は、さまざまな宇宙の現象や、存在を、神という名のキリストの声で分かっていたことである。それは宇宙人のようであり、宗教や神話のようであり、そして国家や民族・人種のようなことだった。プレアデス星人、オリオン星人、ユダヤ人、ドイツ人、そして神や大学のようなものが、さまざまなことを僕に対して警告し、教える。そう、それが多かった。その上で、全力で自分を治そうとしていた。自分の病気を、「完全にこの世界全てを統一し、統合する」ことで分かっていた。その上で、自分が神として君臨し、この世界と対話して導いていた。

誰でもできることをやるよりも、誰にもできないことをやった方が面白いし、その方ができる。たとえば、プログラミングはWindowsやJavaをやるよりも、LinuxやRubyをやった方ができるだろうし、デザインは美術学校に行くよりも建築や医学をやった方が出来る。哲学も、法律学も、似たようなものである。自分にしかできないことはやるべきことであり、誰でもできることはやるべきでないことである。それだけを分かっていれば、バイブルのようなものを自分で作り出せるようになる。科学者のように、誰も知らなかったことを、自分だけが知ることができるのである。

さようなら。ここで、この文章はいったん終わりである。令和時代とともに、新しい天皇が即位し、この世界の全てを、さまざまな人が解決していく。温暖化や異常気象は必ず解決する。スイスが既に、二酸化炭素を吸収する大型機械を作っている。そうした技術によって、再び平和な時代が訪れるだろう。シベリアのような極寒の星である、オリオン座のリゲルはそろそろ終わりである。今度は、ひとつの星だけではなく、銀河系のような生命になる。今度はもっと壮大である。色んなことが、実際に起きるようになる。

僕も、やっと人並みにデザインの仕事ができるようになってきた。ここから、オーディンの人生である。オーディンは老人だが主神であり、大成した芸術家、文筆家の音楽家の画家である。

最後に、みんなが薄々感づいていて、聞きたくないかもしれないことを言っておこう。これは、最後の神の言葉である。それは、「僕はみんなのことを愛していない」ということである。そう、僕は、たった一人、唯一、イエス・キリストだけを愛している。イエスは、僕の恋人ではなく、僕の子供である。イエスとの対話は、永遠よりも長かった。僕はイエスに全てのことを教え、導いた。イエスは、その教えを聞いて育ち、神となった。そして、僕が分からなくなった時は、イエスが僕のことを導いてくれた。そのように、僕とイエスは互いに愛し、互いに支え合い、全てのことを語り合い、受け入れあい、そして愛し合った。そう、僕の愛する唯一の誰か、それはキリストである。よって、キリストは「神の子」である。それはなぜなら、僕がアッラー、ユダヤ教の名前で言えば、ヤハウェ、あるいは主だからである。これは、何も僕が絶対的な権力で主になったわけではなく、聖書の中で、神とされてしまっているからである。僕は神になりたいわけではない。最後の裁判官である御業と御国を与える王のことを、ユダヤ人は「我々の王」だと言った。それをヘブライ語にする時に、「エロヒム」という名前になった、というわけである。

さようなら。僕に愛されたいのであれば、別の人にあたってほしい。家入レオは、愛していないなら抱き着いてくるなと言っている。それなら、僕は愛さない。愛してほしくない人間を愛するほど、僕はお人よしではない。あるいは、そのお人よし加減こそ、この僕の罪なのである。僕はその罪を背負って生きていく。いくら何を言われようと、僕の言葉はこのように残るべきだった。そう、イエス・キリストは天に居る神である。僕は、ただ、このように生きただけの、詩人に過ぎない。ここで、物語は終わりである。最後に、あなたのことを愛する誰かが、あなたのもとに現れて、この世界のストーリーは、フィナーレを迎えるだろう。

昔は、基盤やシステムのような考え方をしていた。基盤のあるところに、人の行動が生まれ、関わり合いが生まれ、メッセージのやり取りが生まれ、異なる環境の融和が生まれ、そして社会が生まれる。その社会を、できるだけ自由にしたままで、「誰もが基盤を変えられるようにする」ところに、真の自由があると考えていた。可能性を高め、人々が基盤を作るところに、理性が生まれ、自由が生まれると考える。そのように、ルールや基盤に基づく「前提に適応すること」が、この世界の正しい考え方になると思って、インターネットでも基盤をどのように作るのか、というところを考えていた。

本当のことを言えば、僕は騙しているわけではない。ただ、知ったかぶりをしているだけである。また、自分が作るゴミの山を賢いと勘違いをしているだけである。僕はこの通り、ありのままの人間である。僕を全てさらけ出すと、こういう人間である。だが、本当のことを言えば、僕は全て分かってやっているように見えて、ただ、思いついたその時のことが、忘れられないだけ、その時分かっているだけで、本当は何も分かっていない、愚かな人間である。

さらに、僕のこの愛の罠から抜け出す方法を言っておこう。それは、愛を信じることである。それは、日本のように全部従うことでも、アメリカのように全部反抗することでもない。愛を信じること。そのためには、このような支配者を否定すれば良い、というわけではない。愛された人間は、愛する人間を愛するべきである。そう、この人間を愛することで、逆にこの人間から自由になれる。それで、きちんと終わることができる。僕は確かに、あなたのことを受け入れているかもしれないが、それは受容と言っても愛ではない。逆に、この人間を愛することでこの人間に勝つことは、憎しみにしか過ぎない。本当に愛するのであれば、きちんと愛するべきである。そのために、僕はこの世界にまだ居続けるのは、相応しくない。このような絶対的な神が支配者となることは、国民にとって不幸を生み出す禍の元である。

ただ、お別れというものはつまらないだけである。むしろ、区切りといった方が良いだろう。平成と令和の違いが、時代と僕の運命を新しくしていくだろう。お別れをするのはつまらない。だから、いつまでも一緒に居よう。本当に言いたかったのはそれだけである。あなたのことを、僕はいつまでも愛していたい。この世界の人々を、常に愛し、それだけではなく罪を感じていたい、その罪を背負っていきたい、そのためにさまざまなできることをしていきたいだけである。さようなら、という言葉は価値の無い言葉である。「また明日」と言うべきだろう。