新・日記2に戻る | 2019年4月の日記に戻る

=2019-04-29=

生命の正常に適応すると、環境に適応出来た。長い間、環境に適応できない辛い地獄を生きてきたが、それが終わった。もう、完全に治った。

みんなも、環境に適応できなくなった時は、辛いとは思うが、苦しい中を最後まで耐えてほしい。最後に、自分なりに何か分かって、その何かで治るからである。

辛い病気は、どんどん酷くなる。一番酷くなって、それをいつまでも耐えていれば、楽になる。そして、忘れたごろに、正しい治し方に気付いて治る。何事も無かったかのように、赤ん坊は子供になる。

これで、終わりである。さようなら。本当に、僕なんかに存在させてくれて、本当にありがとう。この宇宙と魂とみんなに感謝する。ここから先は、恩返しがしたいと思う。

本当のことを言うと、「自由な心理学」を書いていない。昔は、環境における行動や、その人がなぜその人のすることをするか、ということを、まるでロボットのように、そして他人の視点、それぞれの視点や世界観を考えることで、全て分かっていた。その上で世界全体を自分なりに知ることで、何でも完全に考えられた。考え方を多角的に変えながら、同じと違うを考えた。その上で、宇宙全ての真理に達した。そういう人間だったから、哲学者にもそういう人間が多い。僕は、哲学が分かるのは、昔が独自の経験論の哲学者だったからである。苦しみと葛藤を耐え抜いて、人々との会話やコミュニケーションを信じて分かった、Linuxとインターネットのオタクだった。環境を変えれば意識も変わる。みんなも、環境を変えて、経緯を思い出して考えてほしい。環境の変化を捉えれば、「自ら環境を作り出せる」ようになる。昔の自分は、そこから基盤やインフラの作り方を分かった、自発的な共有と多様性とルールを自分たちで変えることが好きだった、ただの左翼である。ネットで戦うことが好きだっただけである。それは、死なない上で自分のやりたいことができるからである。坂本龍馬のような人間だった。その後も、かっこよく生きただけ、戦いとは言うが、みんなの下にかっこよく現れて、一度も失敗せず恐怖を乗り越えみなを最後の世界に導く、なんでもすぐに正しく記述できる、かっこいい人間だった。人生と世界の全てを、既に分かっていた。この、「既に知っている」ということがミソである。既に知っているせいで、何も知らなくても、自分の記憶と過去の人生だけで、何でも分かった。そこから、永遠の哲学が始まった。哲学者の言っていることが、自分の人生だけでほとんど分かる。哲学史が分かってしまえば、世界史の学習も早い。文系科目など、人物を分かるだけで、あとは自分の経験だけで分かる。理系やパソコンも、父親やネットの情報に頼っただけである。全てを知り、終わってみれば、ピアノやデザインすらできている。この人間を全知全能とすると、むしろ、全知全能になるのは極めて簡単である。それで、終わりにしよう。

また、昔の自分がやったことは、労働の全てを仮想的に経験して、その上で科学を作った、というところである。そこらへんができれば、誰でもできる。この人間は、簡単に見えて、昔の自分を一度やらなければ、できない。だから、僕は昔の人生のことを言うが、それは懐古主義ではない。みんなが自分と同じことをできるためには、昔をやるしかないのである。引き篭もりや不登校になって、2ちゃんねるになったのはどうでも良いが、どこからどこまで必要か分からないから、全部書いた。あとは、自分でやってほしい。僕と同じになる必要はない。僕の昔が一度できてしまえば、あとは何でもできる。医者になっても、画家になっても、ピアニストになっても良い。好きに生きなさい。あなたの空を、あなたのキャンバスに描いて欲しい。僕の願いは、本当はそれだけである。ただ、言ってしまえば、誰でも青春時代に好きなことをやっていれば、これくらいの「偉大な人生」になるものである。青春は高校で過ごさない方が良い。現実の社会とぶち当たった方が面白い。その方が良いと思う。

自分の生きる中で、さまざまなことを「自分の力で」学び取ってほしい。教えられて分かるのではなく、「自ら賢くなる」ように生きてほしい。自ら学び、そのことで自ら変わって、自らの力で自らの人生を生きてほしい。それが、これくらいの文章が適当にあればできるからである。大丈夫。僕は間違ったことは言わない。全て正しいことを言っている。信じなくて良い。この人間を信じる必要はない。僕よりもあなた自身の思うことを信じて欲しい。この人間と同じになる必要は、無い。僕の言うことだけではなく、色んな人の言うことを聞いて欲しい。そして、それを信じるだけではなく、その人がなぜそのように言ったのか、自分で考えて、自分の経験から分かってほしい。最後は自分の意志で決めてほしい。あなたの人生が生きられないのであれば、こんな世界に意味や価値はないからである。

この世界で、強く生きて、さまざまな体験を経験すれば、分からなくなることや、悩むこともあるだろう。そういう時は、この本を読んでほしい。僕の書いたこの文章をもう一度最初から見れば、何か分かることがあるからである。昔の僕は、そのような「自由を知るためのバイブル」を書きたかった。全て、この世界の人生や社会にある、全てのことの意味と全貌を書いていた。あまりそこまで同じものにはできなかったが、今のこの文章にもその面影が少し残っている。この本を読めば、迷いは起きなくなる。必ずあなたは最後の目的地にたどり着く。そこに僕の助けがあるなら、それを僕は光栄に思うだろう。

どんな世界になっても、強く生きてほしい。この世界が最悪のサイバーダイン(ターミネーターにでてくるロボットの会社)の世界になったとしても、そこにあなたが居るならば、まだこの世界の戦いは終わっていない。そこに人間がひとりでも居るならば、まだ完全に負けていない。最後のひとりになっても、戦ってほしい。この世界は必ず変えられる。僕が、唯一、それを確信できる経験をした。僕が言わなければ、話にならないだろう。そう、強く生きてほしい。ここで僕は別れる。あなたがどんな人間であっても、僕と同じ魂を受け継いでいることを、僕は信じている。さようなら。あなたの生き方をしてほしい。

本当のことを言えば、僕は死んでから良くなった。この世界で、たくさんのことを経験し、世界を変えたが、そこではやりたい放題の限りをつくし、地獄を作った。だが、死によって、それは逆に悲しみに変わり、この日本という国が「本当に素晴らしい国」へと生まれ変わった。そう、やったのは僕である。そして、ここに現れるのも僕である。僕は、ここで、もう一度死ぬ。今度は、二人目の女性の人生があった。たくさんの作品を作った、イエス・キリストを信じてさまざまな不可能を可能にした、素晴らしい女だった。この女の人生は、ここで終わりである。僕のキリスト教に対する信仰はここで消える。ホームページから、キリスト教の引用を消した。僕はもう、キリストを信じない。ここまで、たくさんのことをキリストに教えてもらったから、キリストに感謝はしている。だが、キリストは神ではない。今から、僕の信じる対象は、イスラム教に変わる。これこそ、イスラム教の神、アッラーである。そう、イエスへの信仰はここで終わり、僕の女の人生もここで終わりである。大恋愛もあったし、太陽のように大きな愛がここにあった。キリストに、最大限の感謝をして、この文章の終わりを迎えたい。僕のような人間を愛してくれて、本当にありがとう。僕は心から、日本という国に感謝している。このまま、令和時代を迎えるにあたって、僕のすべきことはたくさんあると思う。もう、全ての夢は叶おうとしている。これが最後の、幸せなハッピーエンドである。ここで、僕はあなたに見つけられるのを、待っている。それまでの時間が永久にならないことを祈る。永久になるべきなのは、神への愛である。僕は神を信じている。神は、ここに居る。僕の心の真ん中に神が居る。この神が愛であり、この神こそ、全てを滅ぼす力を持った上で、全てを創り出した、最後の裁判の主宰者、まさにヤハウェである。

さようなら。僕はここでもう一度死んで、今度こそ、オーディンの人生を生きるだろう。フレイ、ヴァルキリー、そしてロキの人生はここでまた、新しいオーディンへと変わるだろう。この宇宙に、さようなら。そして、新しい時代に、こんにちは、という言葉で、この文章を締めくくろう。ありがとう。さようなら。そして、こんにちは。

また、僕と新しく出会う人についても、同じ言葉で言っておこう。これから、色んなことがあると思います。僕はここで今まで、みんなのことを待っていました。あなたが僕に出会ってくれたことに、神に感謝します。こんにちは。よろしくお願いします。

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環境に適応するには、生命の正常を感じれば良い。今日、環境に適応できた。

今、作業所では、スヌーピーのイラストを本物そっくりにトレースしている。

イラストを描くコツは、本物そっくりに描くことも大切だが、むしろ、自分で可愛く作ること。デッサンでも、細かいところは自分で作ってから直した方が、本物そっくりな上で綺麗な輪郭になる。もちろんそっくりにすることは大切だ。

GNUの精神は単純で、「自由にコピー・改造できないなら、自分たちで一から作る」というものである。

Linuxは、バザール開発に見えて、最近は大企業の社員の合作になっている。Linuxが片手間のプログラマたちのものだった時代は終わった。Linuxはいまや公共インフラである。

Linuxエンジニアも、ほとんどが会社の社員。それも、IBMのような巨大企業や、良く分からないオープンソース企業の社員だ。Linuxはつまらないものになった。今からは、別の技術に期待したい。

そもそも最近はツイッターやSNSのように、バザール開発でなくても、繋がる手段がたくさんある。また、最近のパソコンの技術は、つまらない技術が多い。

それに、UNIXは太古の化石である。Linuxと同じものは、もう現れないだろう。UNIXのようなワークステーション用の、ネットワークに対応したコマンドのOSを、そもそも使いたいと思う人間も、i386向けに移植・実装したいという人間も、もう居ない。UNIXのようなソースコードが完全にフリーなOSでなくても、人々は何の違和感もなくプロプライエタリなクローズド・ソース・ソフトウェアに慣れきっている。時代は完全にWindowsとインターネットであり、Linuxは日陰者のまま、そのうち自然に消滅するだろう。だが、ここにLinuxerの僕が居た、ということだけを、僕は遺して終わりである。

ある意味、Linuxは、そうした「ネットワーク時代」の先駆者だったのかもしれない。今の時代、そういうものはいくらでもありすぎて、意味がない。もう、Linuxは終わりである。ここから、Windowsとインターネットの、最後の時代が始まるだろう。

おそらく、全てのものがコンピュータやインターネットになって、インターネットでできないことは何もない時代がやってくる。だが、この社会はそれによって、さらに不幸になるだろう。分からない人間には何も分からない、「知的格差」の時代がやってくるだろう。だが、コンピュータで何でもできる代わり、コンピュータを使わないと何もできない世界になるだろう。新しく流行るのは、これから先ただの機械ではなく、生物機械、生物と機械を融和させた上での「バイオ・コンピュータ・テクノロジー」の時代がやってくるだろう。ロボット人間になったとしても、それによってさまざまなことができるようになって、この世界は情報強者と情報弱者に分断されていく。そのようになるだろう。