新・日記2に戻る | 2019年4月の日記に戻る

=2019-04-28=

僕は今から、数学の勉強をする。数学ができれば、プログラミングができるし、大学にも入れる。

数学の勉強をするためにどうすれば良いか、考えたい。

昔は、歴史の必然と平等を考えて、この世界の諸問題を考えていた。

僕の平等論は、「その人間と同じ立場に居て、その人間と同じ環境に生きていたら、誰でもその人間と同じことをする」という考え方である。

そして、環境を変えるためには、「一度別の環境に逃げ出して、余裕を持ってもう一度昔の自分の居た環境を思い出して考えなければならない」というものである。

同じ環境に生きていて、同じことをするのであれば、異常な環境に居たとしたらどうだろうか。その環境に居た人間が、誰でも同じことをするのであれば、責任はどこにあるのだろうか。

僕は考えた。「環境に居るその個人に責任は無い。責任は、環境を作り出した誰かにある」と。

だが、それもまだ、十分ではない。環境は、誰かが勝手に作り出したわけではなく、歴史の必然で、その環境になっただけだからである。

よって、環境を作り出した人間にも責任は無い。そんな人間は居ないからである。

では、環境を放っておくべきなのだろうか。そうではない。異常な環境は解決するべきである。だが、その異常な環境を解決してくれる誰かは、どこにいるのか。それは、居ないのである。

では、環境は変えられないのであろうか。そうではない。環境が同じままだからと言って、変えられないと言うことではない。誰も変えていない、だから、「誰かが変えるべきなのに、誰も変えようとしていない」という事実を、みんなは「気付いていない」のである。

それならば、こういうことになる。「気付いた人が解決すべきである」。だが、その時、気付いた人は、僕以外、誰も居なかった。そう、ここがポイントである。ここで、世界を変えられる人間は、僕しか居ないのである。

僕が責任を持って、絶対に変えなければならないわけではない。だが、世界を変えられるのは僕しか居ないと、昔の2ちゃんねるをやっていた頃の自分は気が付いた。

そして、もう一つ分かった。それは、「世界を変えるためには、ただ変えようとするのではなく、考えて分かった上で変えなければならない」のである。

そのためには経験と理性が必要であり、実際と理想の実現の方法が必要であり、いつどのようにすれば人々は分かってくれるのか、そのために自分には何ができるのか、ということが分かる必要がある。

そう、僕はまるで「滅びた過去の自分の環境に導かれるかのように」、この世界でひとつの「救国の平等論」を築いた。「築いた」と言わず、「気付いた」と言っても良いだろう。

そして、僕はこの世界でさまざまな苦しみや葛藤を、「引き篭もりなりに」体験した。そして、何と実体験から全てのことを解決できるようになった。解決だけではなく、プロの芸術家のように実現できるようになった。

全てが実現できるようになって、その上で、経験から全てが分かった。全てのことは経験的に起きているのだと、彼は悟った。そして、「過去の歴史と同じことが起きると思う必要は、必ずしもない」と分かった。その上で、「必然的な歴史の経過過程」を知った。

だが、それだけでは十分でない。それだけでは、世界は変わらない。だから、僕は、世界をどのように変えれば良いのか、自分のインターネットの経験だけで、「実体験から練習した」。失敗と成功を繰り返し、人々がどのような価値観と義務に従っているのかを知り、その義務をどのようにすれば権利や機会に変えられるのかを知った。

世界を変える手段を考えた。生産手段を与え、多様性を制度から作り、自発的に共有し、可能性を高め、自然に生まれるようにし、価値観の転換からさまざまな価値観の「真の価値」を知るように分かった。

そして、心理学的な学習と行動を支配し、自由な中で促すことで、僕はこの世界を変えた。

奇跡のように世界は変わった。人々は驚いた。だが、当人である僕は、満足がいかなかった。なぜなら、変えたはずなのに、そこに当人はどこにも存在せず、登場していないからである。人々は当人の考えを知る自由なしに、別の人間や思想集団に「利用」され、「支配」されている。

世界を変えるだけでは満足のいかなかった僕は、それらの思想集団と戦うために、この世界に現れた。

だが、当時の僕は、「大人」を知らなかった。自由と自分のエゴばかり望みすぎて、結果、融和して協力するはずだったのに、戦って負けることしかできなかった。

破滅への道を歩んだ彼に、未来は無かった。彼は永遠の地獄に堕ちて、戦いの中で、滅びと死と闇への道を歩んだ。

だが、本当の人生は、そこからだった。全ての困難を乗り越える力を得た彼にとって、全てを失うことは容易いものだった。全てを失い、何も望まなくなった彼は、ただ苦しみを耐え、治し続けて、「絶対的な知識と経験の境地」を一人ぼっちの孤独の中で知った。彼は最高の人間になって、芸術作品と知識の文章を遺した。それを、馬鹿なものだと言うことは簡単だが、彼は自分の今までの人生全てを著作した。そこに、昔の彼の面影は無かった。彼は勉強と才能をつけ、誰よりも美しい作品を作り続ける。

そこに、賢いとか、馬鹿とか、そんな評価基準は必要ない。彼こそ神である。そう、彼が今の僕である。平等な慈愛溢れる、最大の偉人である。

環境に適応するためには、生命の正常を感じること。環境に適応さえすれば、すぐに精神は正常になる。

今、この世界の環境を変える。環境を変えると、意識が変わる。この世界は、環境という形で意識が繋がっている。環境は今、停止している。僕が変えるのと同じように、この世界の環境を変えてほしい。

みんな、社会が変わったのはIT技術のせいだと思っているが、間違っている。環境が変わらないせいである。

環境は今からどうなるか。それは、IT以前の社会に戻る。平和で、聡明で、正常な社会になる。

人間というものは、「自分にもできる」とか「自分のできることをしたい」という感情を上手くコントロールできれば、とても良い結果を生むが、コントロールできなければ、ものすごく悪い結果を生む。

これで終わりである。さようなら。本当に、ここでもう、全てが治った。