この世界は復活する。今日復活する。奇跡の夏、最高の愛がここに復活する。
僕は、2006年に僕がこの世界に与えた、「愛」を復活させる。これは、正しい愛である。
人々が憎しみ合い、哀しみ合い、自分に対して攻撃しても、それに反撃してはならない。彼らは、愛を知らない。
愛とは、許すこと、そして攻撃の原因や抑圧の原因が何であるかを考えることである。
そもそも、人々が苦しんでいるのは、分からないからである。分からなくて、不安になり、他人のことを攻撃するようになると、もっと分からなくなって、この世界が嫌いになる。
いじめ、嘘をつき、怒り、泣き、ふざけるなと憤って社会に反抗するのは、自尊心と社会全体の不安や抑圧が原因である。
その原因を解決するためにどうすれば良いか。それは、その人が「自分だけでも生きられる」ぐらい、「自立できるような経験」を与えて、その上で、社会全体を「愛の下に」秩序を作って、「自尊心を尊ぶ」必要がある。
要するに、「人を攻撃するものであっても、同じ人間であり、愛してあげなければならない」のである。
そして、その人が自分に対して攻撃するのであっても、その人のことを「もっと高い立場で受け入れ、相手の自由を許した上で、もっと高い立場で相手のことを変えてやる」必要がある。それを、人は「自由の導き手」と呼ぶ。
相手や自分だけが、ここでその対象ではない。対象は社会全体、そして世界全体へと及ぶ。この世界は、抑圧と心の傷のせいで、「本当のこの世界が見えなくなっている」状況になっている。
そう、この世界全体を愛する、究極の救世主になるためには、経験し、自分がこの世界の全員の経験を吸収するようにしなければならない。
ここでひとつの問題は、「では、どうすればそのように生きられるのか」ということである。それは、経験である。それも、青春の時代において、人々と絆と苦しみを共有する「真実の経験」をしなければならない。それは2ちゃんねるでも高校でも良い。本当の「真実の経験」をしなければ、そうした「正義のヒーロー」になることはできない。
そして、信念を持つだけではない。心から、「可能性」を信じなければならない。人々が、誰もが自分と同じようにこの世界を救える可能性を持っていて、その可能性を上手く導き、人々を諭してやることで、この世界は「全員の力で変えられる」ようになる。それが、僕の発見した唯一の、世界を自然に救う方法である。「誰もが救うことができ、導くことで可能性が生まれる」。それが、僕の言う「機会の平等」である。
昔は、僕は、世界全体を独りで変えてしまったため、その上でさまざまな「愛の支配による破壊」を行ったが、それも間違っていない。自分のためになった。愛を破壊して何も分からなくなったら、神を信じなさい。神は正しいものを生かし、信じるものを救ってくれる。この世界全体を、「抑圧のない、傷つくことの無い世界」へと変えてくれる。この世界は、神によってバラ色の世界になる。
ヒーローになることを決めたら、子供たちを救いなさい。子供たちこそ未来であり、子供たちに与えれば未来において子供たちがそれを膨らませて、社会へと還元してくれる。子供たちを救いたいのであれば、「心がいつどのようになるか」を考えなさい。それを子供たちの環境と結びつけて、子供たちの堕落し腐敗した社会を変えてあげなさい。子供は純粋であるべきでは必ずしもなく、さまざまな自由な経験を積むべきだが、一度の失敗を責め立てるのではなく、大人の愛によって失敗を許してあげることで、はじめて子供たちは学習できる。だから、子供たちをインターネットから遠ざけるべきではない。
最後に、男は苦しみを求める生きものであり、女は恐怖を求める生きものである。二つが融和すると、そこに愛が生まれる。だが、汚れた愛は要らない。汚れた愛は、「死にたい気持ち」にさせられる。愛など、本当はそんなに必要ではない。本当に必要なのは、愛よりも運命、すなわち人生である。ここに、愛の復活が完成する。この愛を信じることで、人間はどこまででも自由な経験を開拓できる。知は無限であり、経験や作品やチャンスも無限である。必ず、奇跡の夏がここに復活する。この世界の苦しみと悲しみの全てを経験し、全ての人生経験を知った上で、全員のために見返りを求めずに考えた、最高の愛がここに復活し、奇跡の夏がもう一度起きる。そのためには、もう僕は居ない方が良い。同じことを繰り返して、また愛を破壊するからである。この世界に、もう僕は必要ない。さようなら、また逢う時に逢おう。
ただ、ひとつ言っておこう。理想だけを見て、現実を見ないのはとても危うい。この世界の現実を、地に足を着けて、自分の目で見て考えなさい。さまざまな経験を、たとえばアメリカのように行いなさい。そう、自由な経験全てを行って、その上でそこから世界を変える方法を見出し、その上で子供たちを愛すれば、必ずこの世界は変えられる。信じなさい。神は私たちを愛しているからである。機会をつかむこと。そして、ひとつの経緯としてさまざまな過程を考えること。多様性と愛という、生物界の真理を信じること。そこから、必ずあなたは全知全能のキリストになれるだろう。
そして、もうひとつの愛の真理として、「立場」を考えることができる。大人は、嫌だからしないのではなく、立場上できないことが多い。「しない」のではなく「できない」のである。そして、同時に、問題の焦点として、制度上できなくなっているのだとか、あるいは義務のような形でそれを強いられているわけではない。ただ、普通にそうなっていて、何も考えられず自然に任されているから、できないように見えるだけで、本当はやろうと思えば自分でもできるのである。
そう、この世界の多くの人々が気付いていない事実がこれである。みんなは、しないのではなくできない。そして、自分は、できないのではなく、できることに気付いていない。そして、この上で人々と同じ経験をすれば、世界は変えられる。だが、簡単に変えれば良い、というわけではない。本当は、なるべくしてそうなった、「歴史の必然」としてこの世界があるからである。全てのことには理由があるように見えて、必然的にそうなるというだけで、そこには意思や目的のようなものは無い。変えたいと思うなら、自分が変えるしかないのである。そして、自分が変えるのであれば、本当にこの世界の全ては、そして自分だけではなくあなたやほかの多くの人にとっても、「自由に任されている」のである。
自分が自由になると、自分だけではなく他人のことも自由にさせたくなる。だが、自由で発見する青春のような体験は、10代で終わる。20代になると、今度は世界を見るようになって、全てのことを10代のごろよりも単純に考えるようになる。ここには、少しばかりの「その時その時の自由」が存在する。だが、20代後半から30代になると、一通りのことが全て分かってしまって、逆に学校のような場所で教えてもらいたくなる。あるいは、それすら終わって、何もしたくなくなる。そう、ここにはもう、自由は必要ない。自由は子供にとって必要な概念だが、大人には自由など必要ない。本当は、子供時代は自由に生きるだけではなく、他の大人たちと一緒に過ごすことだ。馬鹿な大人たちは、今までの人生にあったこと全てを正しく教える。子供は大人と一緒に過ごした方が良いと、僕は思う。さまざまな意見を聞いて、大人とともに過ごすことで、子供は賢くなる。勉強するのは、もっと後でも十分間に合う。30代以降の人間なんか、もう人生が終わっている。大人は、何もせず、老いるために生きていくだけである。
あとは、本当は、そんなにこの世界を愛する必要はない。愛することが、そのまま「執着心」に繋がるからである。いっそのこと、こんな世界は愛する意味がないことにすれば良い。愛さなければ、誰からも愛されなくなる代わり、愛する必要も無くなって楽になる。キリストはユダヤ人の愛の概念に騙されている。執着心を無くし神を居ないと唱えるブッダの方が、賢いことを言っている。愛など、必要ない。だが、人生に一度、この世界でみんなのことを愛する経験をすることは、20代の青年にとって良い結果を生むだろう。
さようなら。もう、全て書いた。この世界のことなど愛さなくて良い。あなたの好きなように生きて、あなたの力で自由に輝いて欲しい。
もうひとつ、言っておくべき事実は、「自由になる」ということ。この世界のしがらみや立場上の制限、環境上の制約や義務から解放されて、あなたの自由にしなさい。学校や会社の制約から逃れなさい。自由になる、という事実を考えることで、哲学的な経験論の思索が可能になる。自由はヒュームとヘーゲルの言っていることと同じである。
ただし、その代り、自ら不自由な環境や仕事をどんどん増やしていきなさい。絶対に守るべきものを守るために、堕落したマスコミなどと戦いなさい。絶対にしなければならないことを、自分の責任でし続けなさい。そうすることで、必ず神が自分のことを助けてくれるからである。神は信じるものを救う。この世界を信じないもののことを、神は信じない。だが、神を信じるものであれば、神は救ってくれる。必ず才能に結びつく何かが、あなたの周りで起きるだろう。