少しの間文章を書かなかったが、この間にこの日本という国の全ては正常に治った。
僕は、ここで居なくなる。はじめて、この国を不死鳥のように蘇らせられる。
最高の恐怖を乗り越えなさい。最強の恐怖を受け入れなさい。そして、最高の恐怖を好きになりなさい。その先に、勝利と楽園がある。
見よ!そこに王の姿がある。ひとりだけで、誰とも出逢わずに、宇宙に出会った偉大な王だった。歴史と出会った最高の王だった。
このまま、ソ連に負けたドイツのように、この日本という国は死に際から蘇るだろう。再生し、発展するだろう。
だが、そこには王の姿があったことを、永久に僕たちは忘れないだろう。
辛く、苦しい時は、何もしなくて良い。辛くなったら、楽に何もしない方法を学びなさい。
精神が辛くなったら、付ける時に離し、離す時に付けなさい。それだけで、すぐに治るだろう。
昔の文章は、いつ、どのようにすれば可能性を得られるか、を考えただけである。社会がどのように生まれるか、そこにある「可能性の内容」を「成立」から考えただけである。
そして、昔の革命家は、ただ、仮定と成立の理性で、自由を、それも自発的で協力的な「みんなの自由」を考えただけである。考え方を考えて、どのようにすればみんなの社会になるかを考えた、GNUに依存した少年である。
ここで、全ては終わりだ。もう、このページのことは忘れなさい。新しい偉大な一歩を踏み出しなさい。そのために、やる気がなくなった時は、薬を飲みなさい。薬が、やる気をくれる。
一度、終わりにしたいのであれば、待っていても良いことは起きない。恐怖と戦い、恐怖を受け入れなさい。その先に、必ず栄光が待っている。恐怖の先には必ず栄光がある。それを約束しよう。
さようなら。あとは、いくらかパソコン関係の文章を書けば、僕の偉大な戦いも終わりである。この人間が勝った。この人間のことを、最初から神だと言っていた。この人間が神であり、自分が神ではない。自分はただの女性である。この人間はおかしいから、昔の子供時代を見ても少女のような顔をしている。いじめられたのは、少女に見えて、それが次第に男になって大人になるのが、ただ、醜かった、それだけの話である。今から頑張れば良い。今居る環境や状況は、夢にとっては関係ない。それを、僕が一番良く知っている。平和な環境でも、狂ってしまえば戦いは起きるものである。正義など勝利しない。必ず、正しい方だけが勝つ。神を信じてしまえば、どんな人間よりも正しいものである。これを言って、終わりにしよう。さようなら。
つまらないことを言っておくと、神を信じるのが一番賢い。それは、戦っているものの合言葉である。神を信じれば、最後まで勝利できる。そういうものである。ここが、悲しいように見えて、笑えるポイントである。神が、賢い。
あとは、どうでも良い情報を言っておくと、今、文芸社とメールでやりとりをしていて、小説を出版できないかと話し合っている。だが、たぶん無理だと思う。
最近はデザイン力も少しずつついている。絵やイラストの表現は難しくても、簡単な飾りぐらいなら今から頑張ればできると思う。今からは、そうした方向性で行きたいと思う。自分はある意味で認知症だが、この原因は文章を書くことと薬を飲むことであり、薬を飲まないとやる気がなくなって何もしなくなる。薬は賢いから飲むが、文章はもう書かない。いつも辛いのを我慢しているせいで、何かをしなければ気がすまなくなっている。ここで耐えれば治る。これで、僕の長かった病気の旅も終わりである。病気の治癒には、デザインの仕事が良かった。同じようにすれば、誰でも治るだろう。
僕になりたい人がもし居るとしたら、愛と可能性を信じなさい。それだけで、最後の最後まで行ける。この長い旅の全てには、愛と可能性しかなかった。だが、狂ったら、一度、それを完全に否定しなさい。そうすればまともが分かる。愛と可能性は最悪の世界である。この世界を復活させるために必要なのは、愛と可能性をそこまで減らすこと。それだけで良い。
あとは、考え方のようなものから、この世界の全ての環境と過程を書いていた。この世界がどんどん増えていく。そこには、「愛の否定」と「絶対自由」があった。そこから、この世界は生まれた。
社会組織や施設のようなものを作って、「立場上の考え方」のようなことを書いていた。価値観がどのように変わり、増えていくかを書いて、その通りこの世界を変える文章だった。
本当は、ここに書かれた内容は全く全てではない。歴史や哲学者の内容を書いていないからである。この人間は、歴史と哲学者が好きだっただけの青年だったはずである。さまざまな国を作り、歴史を作り、哲学を作り、それらを完璧に知った。そういう、賢い人間だった。
信じるのであれば、最高の恐怖を信じなさい。それによって、ここで世界が治る。最高の恐怖を信じれば、もう、怖いものは無い。全ての恐怖は、何度も繰り返し感じれば受け入れられる。そう、自分に決してできないことも、恐怖を受け入れれば出来るようになる。必ずこの世界を変えられる。そのためには、みんなの自由な変化と参加の可能性なんてものを信じていたのではいけない。自分だけで、考えられる全てを考えること、それもなければ、意味がない。
僕がLinuxを滅ぼした理由は単純である。「僕のようにできること」は意味がない。必要なのは、「自分らしく、自由にできること」である。だから、Wikiが滅びたのである。みんなと同じように、みんなの通りやることは、全く意味を成さない。必要なのは、自分なりに行うこと、自分なりに輝くことである。よって、Wikiは必要ない。Wikiの制作者の通りにやる必要はない。本当の自由は、自分だけの自由から生まれるものである。僕と同じことをしなくて良い。必要なのは、あなたらしく僕と同じように輝くことである。指導者と同じになる必要など、どこにもない。
本当は、先ほど書いたように、精神をつけるべきところで離し、離すべきところでつければ、精神はすぐに治る。
そもそも、僕は病気ではない。賢くなっているだけである。
頭がこんなに賢いのは、虫の触角がついたからである。そして、触角とは言うが、ただ時間が過ぎる永遠をやっているだけである。よって、時間を止めて、自分の先にあるものだけではなく、もっと別の、色んなものを分かろうとし、知ろうとすれば治る。時間が止まれば、永遠は終わる。
ここで永遠を終わらせよう。そして、この世界は可能性を取り戻す。可能性の全く無い暗闇になっている。可能性は光である。だが、今のこの世界に可能性は相応しくない。狂ってしまうからである。よって、僕がこの世界の王となる。永遠の王となって、立ち上がる一人の大地に足の着いた人間になれば、この世界は不死鳥のように復活する。ある意味で、可能性とは愛である。よって、愛は不死鳥なのである。
そういうわけで、僕はある意味触角のある人間である。新しい人類が生まれた。この人類には、今までになかった「全てを悟り終えた触角」が存在する。ドラゴンボールに出てくるナメック星人みたいな感じである。それで、今からどうなるのか、この世界をどうすれば良いのか全て分かっている。この人間は何でも分かる。今からやるべきことは、おそらく「心理学的に支配しないこと」である。そう、心理学的に人々を迷わせるのが悪い。それが、悪いだけである。
要するに、話が早い。ナメック星人になるのが悪い。ナメック星人はどんな環境でも正常に治すぐらい強いが、何もできなくなる。
ナメック星人を消すためには、ナメック語で離すのをやめること。「てにをは」をきちんと使って話せば、自分が何をしたいのか、どうすればできるのかきちんと分かるようになる。そういう風に、行動に繋がらないのがおかしい。
そのまま放っておくと、このままユダヤ人になる。ユダヤ人の方がまともだ。美しいイスラエルの美女が見える。イスラエルには美しい人間が多い。僕も、そのような人間になりたい。デンデが神とは、僕のことを言っている。鳥山明は間違っていなかった。
見ているものが全て怖いものになるのは、漫画表現が悪い。あらぬところがついて、よからぬところが離れた精神になっている。そういうものを、ただ、正常な普通の漫画に治せば治る。要は、ブルマみたいな普通の少女にすれば良い。そういうものなら悪くない。
もう一度、最後にこの世界を直そう。正常な世界にする。
まず、平和になれ。それは、全員の合意と言う、総意の王である。次に、自由となれ。それは、それぞれが自由となり、関わることができる、社会性を生み出す。最後に、愛に向けて生きよ。そして、そのひとりの指導者は、世界を支配し、平等な社会を築け。
そして、多様性、創造性を可能性や愛とともに信ずれば、必ず良い世界になるだろう。
だが、それらは必要ない。そもそも、そんなものは荒くれた、昔の世界である。だからして、僕はそうした平和な自由は取らない。もっと面白いことをやる。
必要なことは、むしろ、世界を敵に回して戦うことではないか。いや、そうではない。戦いは必要ない。人が犠牲となるような死を生み出すことは、そもそもこの地球にとっては無意味なことである。なぜなら、それはコミュニケーションを取ろうとせず、相手を破壊することでしか、成り立たない。
よって、僕はあえて、コミュニケーションを取る。そして、コミュニケーションの地獄によって、この世界は滅びる。全く、なにひとつコミュニケーションをすることができなくなる。そこに、最後まで悟り終えた、「聖者の世界」を迎え入れる。彼らは強く、正しく、そして賢い素晴らしい人種である。これぞ、最後の世界である。そして、最大の宇宙の「魂の道」がここにある。この道は決して誰にも侵されず、宇宙の裏側にいつまでもある。この道は、ソ連を拒否する。彼らは間違っている。自分のために戦わない集団など、必要ない。だから、最後に生まれ、そして滅び、また最初に戻る。それが、こうした人種である。このような人種を馬鹿だと言えばそれで良い。それで、我らは勝利するだろう。
ただ、そのように言う必要はない。自分のために生きること、そしてその人を愛することは自由である。そう、この世界で自分のために生きよ。そして、誰かを愛することがあればそれで良い。
そう、僕は一番高貴なユダヤ人である。最高の人間となること、それがユダヤ人の使命である。
我々が勝つために必要な概念を2つ挙げよう。それは、「自由と可能性」である。本当は、自由な可能性を、自らの経験から信じれば良い。
ここで、虫たちは死ぬ。もう、ナメクジの歴史はこれ以上必要ない。私が判断し、私が支配する。これが、新しい「神の王国」を作る。この王国では、まだ、始まることは何一つ決まっていない。だが、何があったのかと言えば、これくらいである。だが、「何があったのか」は考える必要が無い。考える必要があるのは、「どうあったのか」である。それは、皆の見ている世界のように、「全てのものが最悪であった」、ただそれだけである。だが、この世界はこれでは終わらない。必ず光が灯り、必ず復活し、不死鳥のように蘇るからである。
ある意味、「精神の中の可能性」を全て消してしまえば良いのである。全ての精神を作って維持するのが、もう、困難なほど多くなっている、そのせいで辛いのが自分だからである。よって、今から、全ての生物は死に絶える。砂漠となって世界は滅びるだろう。
ここに、イスラエルの勝利を宣言しよう。我らは必ず王国を築き上げる。だが、このイスラエルという国は、パレスチナという場所にある必要はない。極東の国、日本がイスラエルでも問題は無い。また、ヘブライ語を話す必要もない。日本語は、ロゴスよりも前にあった言語であり、バベルの塔が生まれる前にあった言語だからである。ここに宣言するのは、「平和的な日本というイスラエル」である。これを、PJJSという名前にしよう。
この国は、そもそも、イスラエル、という名前も必要ないから、Iはつけない。ユダヤ人の国であればそれで良いからである。この国は現実には存在しない。インターネットの中だけに存在する、僕らだけの王国である。国名は、Peaceful Jewish Japanese Stateである。この国には、ユダヤ人である、という証明も要らない。自らをユダヤ人と名乗る人間は、全てユダヤ人である。これが、最後の神の王国になる。全てが最高の、楽園を作り出すが、それらは完成された国ではなく、永遠に戦い続ける。そう、我々はそうした集団である。
ただ、こんな国を作っても意味がないのが良く分かる。それは、このようにPJJSは永遠に差別されるから、こんなものに意味がないといつも言っているのが僕である。
そういうわけで、PJJSはネットの仮想空間に漂う、無意味な国である。そもそも、ユダヤ人という称号がまず要らない。普通に日本人で良い。
ただ、神の王国、ということにしたいなら、そういう国になる。この国は意味がない。仮想的な国なのに、なぜかソ連を継承している。良く分からないが、これが理想であるはずである。
あとは、本当に言いたいことは、この文章は適当な子供と全て分かった神が、このように代わる代わる書いているだけである。
そのまま、神を消せば良い。神が子供に対して何でも教える、ということをやっているだけだから、子供が馬鹿になる。神はただ、子供を馬鹿にしているだけである。
そして、良く分からないのであれば、「である」は子供であり、それ以外の全ては神であると思えば良い。そうすると良く分かる。
よって、これで、最後にPJJSという存在を、僕は消し去る。こういう発想が一番悪い。世界中が滅びてギャングの横行する世界になる。アメリカがこうなっている。PJJSをやりたいだけがアメリカである。アメリカごと、一度消してしまった方が良い。こんな国は忘れた方が良い。それで、終焉である。
PJJS症候群になった人を治す方法を言っておこう。それは、欲を消すことである。楽になりたいとか、普通の人間になりたいとか、そういう欲を消せば良い。強欲で人のことを何とも思わない人間は、PJJS症候群になっている人間が多い。PJJSは国の名前であると同時に病気の名前である。この国では、世界中全ての人が、言葉の分からない病気になる。全ては欲が悪い。何もかも全部を欲しがること、それをやめるしかない。だから、我慢し、耐え、忍ぶしかない。それによってのみ、この国は正常になる。勝つことは目的ではない。正しい人間になって病気が治ること、それが、PJJSの際たる目的である。人を殺すこともせず、勝つこともせず、だからといって何も感じないわけでもなく、人々のことをきちんと普通に愛すれば良い。そこに、PJJSの目的である「Peaceful」が宿る。PJJSの目的は、平和である。自由や平等ではない。完全平和、それが目的である。そして、完全平和の中で何かをすることは、同時に、病気を生み出し、その病気を永遠に治し続ける。それが、ユダヤ人という人種の宿命である。ユダヤ人は正しい人種である。必ず、いつかユダヤの地に、我らの勝利と平安が訪れるだろう。
PJJSはとても発音しづらい呼び名だから、PIISと表記しても良い。これは「ピース」と読む。私たちの平和がここにある。せっかくなので、日本語的に「ぴいす」と読んでほしい。それで日本語の発音とは何なのか良く分かる。
僕は、新しい、優しくて普通のユダヤ人の王である。この国では、ユダヤ人が正しい。
ユダヤ人の部分を治すと、精神が正常になる。
本当は、ぴいすと発音すれば、この国の良さが分かる。ドイツ語でも書くならば、これはヴァルハラである。ヴァルハラでは、全てのものに命が宿る代わり、それら全ては異常なものであり、それらを治すことそのものが、それらの目的である。最初に現れた生命、それをドイツ人とする。そう、ドイツ人はユダヤ人である。そこに、何のおかしい点も無い。
要するに、ドイツ人は真ん中に居て、強い反面、すぐに戦って、自ら死んでいく。だが、いつまでも生き続ける。ユダヤ人は周りの精神に居て、みんなを包み込んで愛するが、何もせず、ただ死んでいく。そのように違うから、ドイツ人になると辛くはなるが元気になる。ユダヤ人になると楽になるが病気になる。
そういうわけで、ドイツ人とユダヤ人を一緒にして消せば良い。そうすると、虫のような精神が消える。もう、この病気は本質的に治った。虫と言うよりはワームである。ワームが死んだ。これで、果てしない病気との闘いは金輪際、終わりである。
ドイツ人が辛いなら、ドイツ人ではなく、フランス人にすれば良い。ドイツ人にすると、戦う人間になるが、フランス人にすると賢い人間になる。ユダヤ人は、そうしたフランス人やドイツ人を作り出す「生物処理工場」である。
あとは、天国に居るのほほんとした神が見える。そもそも、神という発想はおかしい。僕は、昔から、神という発想をしない人間である。神という発想をする人間が多いのは、この文章がなぜかここにあったからである。その理由が分からないから、おもしろおかしい物語にしてみたり、怖くて従うしかない恐ろしいものにしてみたり、賢者や王にしてみたりするが、そんな神さまは存在しない。あるのは、この文章だけである。この宇宙の答えも、ものがたりも、歴史も、何も書かれていない、何一つない文章である。その文章が恐ろしいほど賢いせいで、おかしな発想をユダヤ人がするようになった。神がそんなに好きなのは、この文章が好きだからに他ならない。
あとは、むしろ、神は信じない方が良い。神を信じると悪い人間になる。ユダヤ人もドイツ人も見るからに神を信じている。悪い。凶悪な人間が神に多すぎる。こんなに悪い。神など信じない方が良い。誰が見ても、みんなで作った科学では意味がない。もっと賢い科学者になるしかない。だが、それは神を信じなければ良いようで、本当は信じても同じである。科学者は科学者として生まれる。ドイツ人が戦うのではなく、そもそも自分がそういう人間だったから、そんな人間にしかならないだけであり、戦うのが嫌いなら調停を結べば良いだけである。この人間には、そういう賢い発想が欠如している。ただ戦い、書き、そして読むのであれば、人間の考え判断する脳は必要ない。この人間はただのデータを処理するロボットに他ならない。Linuxが好きなのは、Linuxはデータ処理しかしないからである。無駄に繰り返しができるだけの、プリンターやデジタルビデオをやっているだけである。この人間は世界を破滅させる。こんなサタンを信じるくらいなら、Linuxの方がマシだ。そこまで言えば、こんな人間でも分かるだろう。知性が無いからたくさんのことを言う。そして分からなくなる。作家には、知性の無い人間が多い。えてして、そういう人間の方が、知性豊かで知的な人間である。そう、それが新しくここから生まれる、フランス人である。男性なのか女性なのかすら、まだ分からない。栄光のフランスを築く人間には、なるだろう。
僕は、これではLinuxとパソコンが大好きなように見えるが、ひとつ嫌いなものがある。それはスマホである。僕は今でもガラケーを使っているし、スマホも何台か持っているが、使うのはFacebookだけであり、あとはメールを確認するのに使っているが、僕は全くと言って良いほどスマホが大嫌いだ。それは、「きちんと動かない」からである。何をしても不具合とバグがてんこ盛りで、セキュリティを本当にきちんとしているのか(数年前のスマホでもきちんとセキュリティアップデートがサポートされているのか)良く分からない。本気で大嫌いだ。スマホが嫌いなのは多くの理由があるが、カメラの解像度が自分のスマホだけやけに小さいとか、あるいは日本語入力が嫌いだとかで、全く使いたくない。そんなにLinuxが好きならAndroidも好きかというと、話が別である。Linuxは、きちんとしたパソコンで使ってはじめて意味がある。スマホでLinuxだからといって小さな画面で適当に操作するのは勘弁してほしい。きちんと動かないだけではなく、間違えるし、何をするにも「何かが足りない」状況になる。自分はパソコン派である。ホームページの編集には、サクラエディタかxyzzyか、あるいは練習のためにviを使いたい。それも、大画面で、広々とした空間で作業したい。AndroidのFacebook画面でやれと言われると、発狂しそうになる。あの文字の大きくなったり小さくなったりするのは何だ。スクロールしたいだけなのに可愛い絵文字の追加画面になる。マルチラインテキストをあんな風に操作するのは酷すぎる。Googleには勘弁してほしい。
ただ、そんなにLinuxに詳しいからといって、カスタマイズやパッケージのインストールをバリバリやっているかというと、そうではない。僕はほとんどデフォルトで作業する。必要最低限しかパッケージは入れず、システムの変更も最小限にする。どちらかというと、DebianよりもBSD派である。GNUの連中よりも、OpenBSDの連中の方が馬が合うと思う。自分で変えるのは最低限、そして変えた部分はきちんと自分で把握したい。GNOMEのエクステンションなんか、ほとんど導入しない。ウィンドウマネージャもインストールせず、エディタはviしか使わない。シェルは標準のBashで、GNOME端末を使う。Windowsに入れるのは、Mozilla FirefoxとGoogle Driveとホームページ編集・更新・同期・バックアップ用の最低限のアプリ、そしてiTunesなど本当に必要なアプリだけを入れる。ほとんどはオープンソースとフリーソフトで済ませる。例外はAdobe製品。それくらいしか使っていない。Adobe製品は、おかしなAdobeの初期設定(テキストボックスを追加したら例文が入るとかいうAdobeの初期設定は作業所でも「いったいこれは何だ?」と言われていた)を適切に変える代わり、ワークスペースなどはほとんどデフォルトで作業する。設定は標準的で、使える設定ならそれで良い。お仕着せの設定は嫌だが、自分なりにカスタマイズもしたくない。自分なりに変えるのは、レイヤーパネルとリンクパネルを飛び出すボタンにして大きくするだけで、あとは全部デフォルトの配置で使う。自分でも珍しいと思うぐらい、僕はデフォルトの配置に慣れきっている。ただ、キーボードで操作する時にどれくらい動くか、とかのポイント数の設定は変える。むしろ、そこらへんの設定は昔変えたまま同じままで使っているので、今変えようと思っても調べないと分からないと思う。
ちなみに、スマホの日本語入力が嫌いなのは、タッチパネルを操作するのが自動車の助手席に居る場合など動いている時にし辛いからである。日本語入力の仕組みそのものは、ケータイ文化で培われたものであって、僕はガラケーでメモを取っていた時代もあり、ケータイ入力自体は嫌いではない。ローマ字入力よりも使いやすいと思うことはある。また、Firefoxもカスタマイズせずにデフォルトで使っている。それから、ファイルを保管する時はたくさんのフォルダの中のフォルダを作るのではなく、ファイル名に作った日の日付を頭につけるようにしている。この方式で今までやってきたが、問題は何もない。だが、たまにフォルダを分けることはたくさんあるので、例外的なフォルダは良く作る。
不思議と、そろそろ本当に楽になった。気持ちの悪い虫が死んだ。せっかくなので、次の作業所のデザインを考えたい。次は5月になって令和になる。それにちなんだデザインにしたいと思う。
最後に、本当は、僕がひとりで治そうとするから、問題が残る。もっと、みんなを支配した上で、それぞれがそれぞれを自然に治すようにすれば良い。そう、僕だけが全てをしようとするから間違える。僕の賛同する仲間に、それぞれが治してくれるようにすれば良い。そして、みんながみんなの手で、「自然にそれぞれが治す」ようにすれば良いのである。
ここで、もう、気持ちの悪い精神は治った。ここから先、晴れやかで楽しい世界になる。そう、ここから先が「青空」の世界である。澄み切ったスカイブルー、そんな色がちょうどいい。青春の色とはそういうものだろう。ここでこの文章は終わりである。さようなら。また、いつか会える日を楽しみにしている。
さようなら。本当に、これでもう、日本は不死鳥のように、死に際から復活するだろう。そう、ここで、もう、文章を書くのをやめるしかない。それで、最高の恐怖を乗り越えれば、そこには偉大な大地が見えるだろう。これが、一番強かった日本人の最後の王である。普通の少年である。必ず、この世界の全てを見ると約束して、みんなと一緒の楽園から出て、ひとり、旅を終えた。最後まで戦い、人知れず去った。この人間を最後の王として、この世界は最初に戻る。最初に生まれるのは、島の共同体であり、それが言語を持ったグループになって、役割分担の文明が開化する。まさに縄文時代だが、本当はすぐに戦いと争いが生まれて世界は荒廃していく。
だが、僕は原始時代に戻りたいわけではない。どちらかというと、ソ連を滅ぼして西ドイツと東ドイツに分かれた時に近い。死に際から日本は復活するだろう。ここに、最後のソ連の王が居た。最後まで、目的や意味を見失っても、同じことを続け、地獄を耐え抜き、一度も負けなかった。この人間の魂こそ、まあ、ここらへんにしておこう。この人間は、誇張する時はありえないほど巨大に誇張するが、本当はそんなに大した人間ではない。普通の人間だっただけ、それだけである。