人間は、視点を変えれば違うように見えるが、本当は同じである。人間のする行動は、その人の生きている必然的な過程を考えれば、全て必然的な行動であり、その過程と理由は自然に生まれたものである。この世界に間違っている人間は居ない。
過去の自分を許し、裏側にあった憎しみや後悔を棄てることができた時、心は初めて解放され、自由になれる。
社会がこうなっていることに、絶対的な理由は無い。ひとつひとつの出来事とその時その時の対処が制度になっているだけであり、よってこの世界は合意によって変えられる。
その人の立場になって考えながら、自然な過程と必然的な理由を考えれば、この世界や人間は誰のことも理解出来る。そして、そうであるべきである。
神は居るかもしれないし、居ないかもしれない。だが、宗教的な思い込みやドグマを排することで、正しく考えることはできる。ものごとの原因や法則を神だと考えると、それ以上考えられなくなる。
実際の社会を見る経験と、さまざまな仕事と同様の経験や体験をすることで、この世界がどう在るのかを知れる。そこから、過去の自分が何を思い間違えていたのか、その時他人は何を思っていたのかを知れる。同時に、相手も自分と同じ立場だったということ、相手の行動や発言にも意味はあったのだということを知れる。そこから、過去の自分を許し、ありのまま未来指向で生きていくことができる。
人々の哀しみや怒りを知ることで、この世界において人は何を考えて行動し、この世界の課題や問題はどこにあるのかを知れる。そこから、「この世界を救える」ようになる。
裏側にある怒りや悲しみ、そして後悔と憎しみを消しなさい。そして、何も変わらず、辛いことを拒否し続けるのではなく、辛いことを受け入れて、一喜一憂でも良いからたくさん、小さなスパンで考えなさい。だが、焦る必要はない。焦らず、自分のペースでゆっくり考えなさい。そこから、否定をするだけではなく、肯定することがどういうことであるか、ということを学べるはずである。
自分が社会を作る方法を知って、「人々は何に悩んでいたのか」ということに対する真実を知りなさい。社会は誰でも作ることができる、それは制度や物理的だけではなく哲学や心理的であるということに行き着いた時、はじめて正しく、先入観なく人間のことを考えられる。ブッダは四諦と言ったが、人々は何に苦しんでいて、それはなぜかを考え、それを滅するとはどういうことか、そのための方法を考えなさい。人々のことを先入観なく考えられるようになった時点で、「一つ目の段階」はクリアできている。その次は、どんなに相手に批判されても、自分はその人間を愛するということ。それを「二つ目の段階」としよう。最後に、あなたは神のように全てを知って、どんなに辛くても、今までの自分よりは楽だと言えるだろう。それを「最終段階」として、あなたは菩薩道を極められるだろう。
社会のことを実地的に考えなさい。ただし、世界のことを見ることよりも、自分が何を考えているか、自分の心が何を言おうとしているのかから、分かろうとしていきなさい。
先入観が無くなった時点で、ありのまま、この世界のことを考えられる。この世界の全てはありのまま起きていて、自分の力ではどうすることもできないことも、受け入れられるのだと知れる。そして、嘘の中にも真実があることを知り、何が正しいのか正しくないのか、から「仮象の世界」が生まれる。ある意味、全ては正しくて、全てはどうすることも自由であり、自由こそ正しいのだ、という「有用性」の概念は、次第に社会の構築の方法を知る中で「自分でも社会を築けるのだ」という野心になり、そのまま愛の真実を知ることで、人々のことを本当に考えた上で行う「正しい救国の王」になれる。その時点で、既に自由に意味は無い。自由は成熟へと変わり、ヘーゲルの言う徳の騎士は理神論から道徳心となって、神の精神を知ることこそ、批判哲学の意味である、ということを知る。そこまでの段階で、「青春」とされる体験は終わりである。そこから、「王」が始まるだろう。
自由は善へと変わり、「自由な中でも善をしなければならない」とする考え方は、やがて普遍的な宇宙の真理へと昇華する。この世界を変えられる自由が、それぞれにあると同時に、社会秩序のようなものでさえ、自由な中で行われることを「要請」する。そこから、共有と多様性の「自由の社会主義」が始まる。それは、革命を過ぎて「絶対的善」となり、そのまま世界を「導き手として創造する」ようになる。それを、神とすれば、神の精神がそこに「仮想的な聖なる世界」を生み出す。それがこの世界と溶け合って、やがて「宇宙における全ての意識の高み」へと「絶対理性」は昇華するだろう。
経験的に言えば、まず、「夢見る子供」がそこにあり、それは「一般的な大人」となる。そして、「あらゆる職業」と「革新的政治家」がそこに生まれる。それは、そのままさまざまな経験をして、「経験豊かな王子さま」となる。そのまま、「ひとりの哲学者」は「心理学者」となり、「全ての科学を作る物理学者」となって、「帰納的に全てを理解した天才」となり、それが「助け合いの道を歩む狂った戦いの修道士」となり、最後に、「全ての苦しみを経験し、毒と薬を調和する、最高の菩薩」となるだろう。
人々の実際の姿を知っていた心理学は、やがて人々の行動の理由全てを把握し、掌握するようになる。この世界の人々の営みを全て知り、自分の経験から神のような高みに立って世界を理解する。また、経験は帰納的に発展し、進歩しながら「自らの見た経験から人生を開拓する」ようになり、しだいに数学や物理のような一般的学問の原理を作り出す。帰納的には、これを「特殊から一般に」と言う。そして、全てのスラムを経験しながら、別にIT業界のさまざまな経験を知り、王としての「環境をどのように変えれば良いのか」という問題から、「環境の発生」を知る。そこでは、多様性が目標であり、人間性が善であり、創造性が情熱である。そして、最後に人々に愛を教え、この世界を変える。だが、それは本当は、救いたかったわけではない。滅亡を望むアンビバレントな葛藤は、「ひとり、この世界の上に立ってこの世界を変え続ける」という「邪悪な王」を生み出すが、その邪悪な王は決して悪いことをしない。最後まで滅びた後に、最高のユートピアが待っている。そこでは、あらゆる一切のものに、自分が作り上げたものでないものは存在しない。星を作り変える知性のない病気は、そのまま、生まれ変わるまで神に人生を託し続ける、「天才キリスト教徒」を生み出す。そして、馬鹿は全て、大学の知識を理解し、芸術的素養を「才能」に昇華させる中で、治り続ける。そこには、純粋な探究心と哲学的好奇心だけがあり、金や資本主義は一切、ひとつも存在しない。
主観と客観を、ありのままの経験から考えなさい。そこに社会があるということが、自由論から見て何を意味しているのかを考えなさい。自分の人生経験から、価値観の転換と多様性を考えなさい。この世界がここにあるということが、何を意味しているのか、何がこの世界の様相なのか、見做すこと、比喩することから分かりなさい。絶対善の在り方について考えなさい。この世界を変えるとはどういうことなのか、どのようにすればみんなでこの世界を変えられるようになるのかを考えなさい。自ら、構造主義を再構築しなさい。最後に、現象学を自ら作った科学だけで捉えなさい。心の現象をありのままに捉えなさい。それで、あなたは、もう哲学者を超えている。哲学とは、そこまでの学問に過ぎない。
サルトルは、「実存は本質に先立つ」と言った。そのように、この世界に落とされたことが何を意味しているのか、子供たちはどのような試練に直面しているのかを考えながら、アイデンティティとリアリティの両立からこの世界における人々の人生の可能性と、社会の未来について知性から考えなさい。
終わりに、最後まで戦えば、必ず勝利する。負けない戦いだけを常にしていれば、数年の地獄など短く、容易いことだろう。恐怖を乗り越えられたら、自分なりの創作活動をすれば、必ずあなたは成功し、才能は花開くだろう。
経験的な帰納のみから、この世界の社会、心、環境、知性を全て理解しなさい。全てを悟った人間になるために、成長し、成長から哲学を知りなさい。邪悪な精神の全てを吸収したら、そこから必要なもの以外の全てを壊し、消し去りなさい。辛さを乗り越えられるなら、同じことをすれば心が清められる。常に悟った人間であり続ければ、必ず未来の道は開ける。