新・日記2に戻る | 2019年3月の日記に戻る

=2019-03-06=

昔の僕は、フロイトのように、「心の裏にある心」を考えることが多かった。

さまざまな環境を学校やインターネットで知った結果、「全ての人間の行動は、ある程度の正しい理由がある」と考えた。前提となる環境や経験の条件を考えれば、全ての人間は正しい行動しかとっていない。

そして、だからこそ、正しい行動とは何なのか、どのようにすれば正しい生き方や正しい環境を作れるのか、ということを、「心の奥底の無意識との関連性」から考えていた。

また、学習の応用的な行動や人間の心の原理については、具体例を見て考えた。自らの教育体験や発達心理を、インターネットと併せて考えていた。

僕は、フロイトについて学びたいと強く思った。フロイトは、Wikipediaを読む限り、僕ととても良く似ていると思う。難しいことを平易に書き表す美文家で、若い頃は脳性麻痺や失語症について考えている。また、ユダヤ人の子供として生まれている。彼はきっと、これ以上先を全部自分の力で分かっている。自分の研究対象として、とても相応しい相手だと思う。

そもそも、社会のことなんか、役所と金である。役所の定める法律や税金と、銀行や金の貯蓄と収益の方法を知って、さまざまな社会の問題と政策を考える。目的もたくさんある。だが、それらはとても、ものすごくつまらない学問である。心理学の方が、よっぽど面白い。

あとは、パソコンはつまらなかった。Windowsの仕組みは、タスクバーだけでは分からない。良く考えると、WindowsはAPIに応じて機能を実行するだけの、ただのOSである。コンポーネントをどのように作るのかという問題であり、APIに応じて動くようにするだけである。スケジューラやメモリアロケータは、Linuxの方が賢い。本当にパソコンはつまらない。

英語の勉強も、同じようにつまらない。海外に行く仕事は、やめた方が良い。ドイツ語など、意味がない。それから、機械技術や医療も、つまらない仕事である。そうしたつまらない仕事は、もう、無視した方が良い。仕事をされている方が嫌いなわけではなく、逆に、つまらない仕事を頑張っていてとても敬意を表すが、その代わり、自分でやりたいのはやめた方が良いだろう。賢いのは数学・物理である。そして、微積分も、父親が言うように「分かっても面白くない」。だから、数学は分からなくて良い。昔の自分が、きちんと心理学的に数学を「決まりと条件の意味」から分かっている。

心理学は面白い学問であると同時に、精神病が治る良い学問である。自分にとっての唯一の薬ではないかと思う。また、デザインの仕事にも活かせる。あるいは、作業所の精神障害の人々を理解し、接するための助けとなるだろう。だが、僕はフロイトが面白そうだと思っただけであり、そこまでは考えていない。

フロイトのように考えると、僕の無意識は「怖い」と言っている。何が怖いかと言うと、「怖いと思うこと自体が怖い」。それは、さまざまな抑圧の結果である。怖くないと思えば一歩次へと進めるが、その一歩も進めなくなっている。それは、進むことも怖いからである。何もせず、前にも後ろにも進めなくなっている。治すのはとても難しい。だが、やりたいことをやること自体は怖くないはずである。そもそも、書かなければ満足できないのも病気である。そして、それは病気だと思わなければ、才能でもある。その才能を作りたいから、病気になっている。よって、この病気はマイナスではない。

もっと考えると、むしろ、やりたいことを増やせば良い。1つのことを見る、視野が狭くなっている。PHPの文法を学んで、それで終わりである。自信がないから、アプリケーションを作ろうとしない。それも、精神分析的に考えると、やったことがないことが出来なくなっている。それは、単純に学習の問題だが、学習すること自体が怖くなっている。

何が本当の問題なのかは良く分からないが、心は正常に働いているだけである。そんなにたくさんのことを出来るようには、なりたくない。それが結果、知性を奪うと心は考えているのである。

本当は、これは心の病気ではなく、自己対話を神だと思う勘違いである。こんな対話が、神だと思うのがおかしい。ただ、客観的に考えるために、自己対話を神だと思い込ませているだけが、自分の頭の問題である。よって、神など居ない。神は、完全に狂った統合失調症の作り出した幻想である。そして、そういう狂人は、えてして、ネットやスラムのような場所で、悲惨なものばかり見ている。フロイトはそういうことを性的抑圧とかトラウマと言っているだけである。よって、忘れるしかないし、何も見ずに自分で文章を書いていると治るから、文章を書いて忘れて、自分の人生すら忘れ去る。そもそもが、宗教とはこういうものである。決して良いものではない。宗教でしか、心の病気が治らないから、神を信じているとこういう風になる。フロイトを学べば、まともな人間になれる。なぜか、フロイトをやっているだけで、勉強なんかしなくても精神がまともになる。

昔の自分の心の病は、子供なりに自由が欲しかった、子供なりに世界を変えたかっただけである。参加、議論、手段などは、その最たる例であり、子供のことを大切に思うだけではなく、能力や経験を与えて、啓蒙したかった。全て、子供だったから学校に行かず、子供だったからパソコンをしていた。

よって、この病気は、子供の心理学を考えれば治る。子供がおかしいだけである。もっと大人になって考えれば、そういうものの全てが間違っているのが分かる。学習と行動なんか、完全に間違った理論を作って分かっているから、今の自分では理解できないだろう。そもそも、人間の人格を意識と体験から吸収出来るのがおかしい。そういうところが、ありえないし、意味がない。

昔は、世界全体の因果性のようなことを考えていた。人々が何を考え、何を感じて、どういう考え方で社会を作っているのか、社会とはどのような考え方や前提から生まれるのか、のようなことを考える。その上で、学習と経験から、社会がどのように変えられるのかを考えていた。