ある意味、人間が思う全ての意見は正しい。その人間の前提条件と認識を正しく捉えると、その人間が見て、誰もが、正しいことしか言っていない。必然的に出てくる発想しか、言っていない。
「一般から特殊へ」が数学だとすれば、「特殊から一般へ」が帰納的経験論である。僕は帰納が好きである。社会を見て、自ら具体例と環境から考えることで、原理を発見する。
ネットワークサービスが儲かるのは、自動化するからである。自動的に実行される、というネットワークのやり方は、コピーや再配布されるフリーソフトウェアとはまた別の考え方であるが、これにもフリーを適用することができるだろう。
昔は、ダイナミックだった「IT黄金期」のような世界の中で、ニュースを積極的に見ながら、積極的にIT社会の動静のことを知っていた。梅田望夫のブログを読んだり、ネットでさまざまな情報を吸収していた。
自分の経験から、世界を知ることで、ギリシャやローマのように、「湧き上がってくる発想と、世界をじかに見る経験」で分かっていた。
自発的な行動、自由、経験、そして共有が好きだった。誰かに言われてするのではなく、自らの意志で自らのものを共有する。その上で、友愛や感受性で分かっていた。
子供たちのための平等を信じていた。相手の気持ちになって考えながら、「そのページを一目見ただけで、何も知らない子供でも出来るようになる」ようなホームページを作りたかった。子供たちに、平等に力を与え、自らの力で世界を変えられるように、「必要なものは全て与えたい」という理想を持っていた。ものだけではなく、自由や能力や理性すら、与えたかった。
この世界は、IT技術のせいで、「世界人間」になっている。世界人間は、世界を知るだけで、他に何もせず、単純なことをして満足する。複雑で高度なことをしなくなって、世界全体を単純な悪に統一して反抗する。みんなが何もできないようにする。
僕は、この世界人間を治したい。そのためには、まず、IT技術を棄てること。次に、「世界人間としての理性」を全て書き換えること。そうすれば、この世界は必ず良い世界に変わる。