新・日記2に戻る | 2019年3月の日記に戻る

=2019-03-02=

信じるな。僕は、信じて欲しいわけではない。過度に信じすぎず、盲信せず、洗脳や調教をされなければ、この世界は平和になる。あなたのことを、僕は大切にする。

互いの自由を許した上で、自発的な意志と自由な行為から、協力し、助け合い、作り出すこと。昔は、それを「自由な社会」と言っていた。

協力という概念を信じなさい。創造性と協力を信じれば、自ずと何が善で何が悪かは見えてくる。Linuxのようなものが悪であり、ソ連のようなものが善であり、それらは逆になることもある。

この世界のことを、システムであると見なしなさい。システムであると捉えながら、「弱者を救済するようなシステム」を築きなさい。

平等に、誰もが豊かな生活を享受できるように、この世界のシステムそのものを平等にしなさい。勝ち組が成功への道を歩む代わり不自由を迫られ、自由を選ぶと負け組になる社会を、壊し、滅ぼしなさい。全員が平等に自由であり、全員が過度なリスクと責任を負わずに、平等な権利と豊かさを得られるようにしなさい。そう、これはソ連への道である。

愛を信じなさい。そして、愛以外のもの全てを否定しなさい。新しいものを信じなさい。子供になったような気持ちで、世代を超えて、あるいは新しい世代として生きなさい。パソコンやITは既に古い。新しいのは、社会秩序と新技術である。新しい社会とサービスを信じなさい。ここから先、資本主義や金のような価値観は、意味を失って、本当に実際に良いものが生まれることに価値を見い出すようになるだろう。

僕は、天国でも、この文章を書いている。僕はあなたの妹のような女である。僕の人生は、全て晒した。あなたも、僕に全てをさらけ出してほしい。

本当の「数学的な考え方」とは、決められた「決まり」から、そういうことが「言える」ということである。これは、理由とか、状況とか、条件とか、目的とか、そういうものである。何かが何かで「ある」と言われた時、そのあることから別の何かが「あるかもしれない」あるいは「必ずあるはずである」と考えること。そこから、記号的な「このような条件と成立が言える」ということが言える。よって、数学が分からない人間は、そうした「決まり」のことを考えていない。決まりとは、何でも良くて、何かが何かであることから何かが言えることであったとしたら、何でも良い。そして、その決まり自体がどこから生まれるのか、どのような成立から生まれるのかを考えていけば、経験や行動や学習を、認識の起源から根源的・芋づる式に考えることができるだろう。それを、人は「哲学する」ことだと言う。

決まりを考えるのであれば、全部の決まりを自分で作ってしまいなさい。そして、この世界の社会や起源的なことを、自分だけで全て説明することができるようになりなさい。人がそれを正しいと言っても、自分がそれを正しいと言う義務は無い。自分が嫌いなものや信じたくないものは、全て信じなくて良い。自分の信じたいことだけを信じるならば、それはあくまで、厳密に、科学的に考えなさい。自分が信じられる、信じても良い、自分の意見としてそれを支持しても良いと思った時にだけ、それに賛成しなさい。

数学やプログラミングを学ぶ上で必要なのは、「関数」の考え方である。何かのマクロ的な記述が、別の記述に展開されて、対応するように記述され、原因と結果の意味を持つ。数学とは、仮定と結論を「if」で考える上での、原因と結果である。そして、たとえば、利便性とか技術などの先にあるのは、原理的な「解明」である。宇宙の全てを解明するために必要なのは、「経験と行動を数学的に考えること」であり、「経済学や心理学を実際の現場の場面を見て、数学的な定理と証明にすること」である。定理は、証明するだけではなく、原因と結果、仮定と結論から、別の定理に応用することができる。この応用は、逆にすれば解明になる。既に使われている、経験的に分かっている定理を証明することで、その経験は正しく解明でき、「結果から原因を考える」ことができる。あらゆる結果から正しい原因を考える時、それを、人は科学者と呼ぶだろう。

正しい原因を解明することから根拠と起源を導き出し、正しく作られた基礎と定理を応用して使うことで、この世界全ては「ひとつの統一数学」として全貌を理解出来る。そこでは、人間の人生や倫理すら数学的論理の対象である。また、何かから何かが生まれる、ということ全てを証明することで、知覚や認識は経験に過ぎないことが分かる。それを、新しい「世界数学」と名付けよう。

そして、共通性と普遍性から、「ひとつの正しいことは、いついかなる時にも正しい」と知りなさい。その時だけ正しいことは、証明すれば常にいつでも正しいことになる。そこから、物理的な「法則を導き出す」ことができるだろう。これぞ、正しい「神の物理学」である。

まず、この世界には、ありのままの世界しかない。

反抗したり、人を疑って騙したりしても、そういうことには意味がないことを、自分の経験から知りなさい。

苦しい中で、人々と関わり合う中で、確かな優しさと、平等な受け入れる大らかな心を知り、他人に対して自分もそのようでありたいと知りなさい。

自ら大人として立ち、自らの力で考え、行動し、実現しようとする、「基礎の志」を持ちなさい。

平等、愛、自由、一体感から、「機会と理性的信念」を持ち、逃げ出したくても逃げ出せなくなる前に、必要な精神的なマスターへの段階を知っておきなさい。

自分がやることが、思い通りに行かないかもしれない。それでも、その対象を愛する気持ちを忘れてはならない。そして、何もできなくなった代わり、自由な多様性と解放を望む心を信じて、別のことに興味を向けなさい。

信頼から愛を知り、「世界を変えたいのだ」とする「志の信念」を持ちなさい。世界と関わる中で、「自分が信じていることが本当に正しいか」を疑い、「本当の信念とは何か」を知る中で、啓蒙、道徳心、神、批判哲学の思想を知りなさい。

最後に、ありのまま生きたとして、「環境をそのままで愛する気持ち」を知り、「共通の感情から機会を実現する」ことを知りなさい。そこで、「創造性と本当の共有」から、所有を否定し、ボトムアップ的な共有を信じて、世界を本当に変えればそこで終わりである。

戦いが続きそうなら、最後まで戦いなさい。勝てる時に、自分から積極的に戦い、負けないように理性を使って作戦を立てれば、戦争には必ず勝てる。愛の罠を仕掛けたことに、気付かれないようにしなさい。それだけで、未来栄光、あなたはこの世界の王として最後まで、世界を理想的な秩序の実現した、自由な社会に変え続けることができるだろう。

この宇宙には、自由な世界が3つあり、運命の国が1つある。

神と呼ばれるものは、最後に死んだ地点での自分自身に他ならない。

神は、乗り越えられない試練は与えない。

全ての責任は自分にあると言える人間だけが、王者になる。

自分が最初に出会ったものが、自分が人生の中で出会うべきものである。そして、自分が最初に知ったものが、自分が本当に人生をかけて知るべきものである。

家族は未来の自分である。今、70歳の父親が居るのであれば、彼は自分が70歳になった時に知るべきものごとを教えてくれる。今のあなたが70歳の父親に思うことを覚えておけば、自分が70歳になった時にそれが役に立つだろう。

昔は、自由というよりは、形而上学を書いただけである。形而上学とは、根拠や理由を明らかにする学問のことである。全ての自由な根拠を書いて、それがどのように展開していくかを、聖書のように書いただけである。誰でも、自分の分かったことをきちんと書けば、自由な形而上学にしかならない。その形而上学のことが、今でも忘れられないだけが、自分である。形而上学に恋をしているだけである。

社会とは、自由な価値観の実現と形成であり、歴史とは、自由な社会が自由へと向かって発展し、できることが経験的に増えていくことであり、そこではそれぞれの合意と協力による自由な成熟と秩序が生み出されるべきであり、そのために、心理学的な環境創造から、それぞれの場と視点を平等に築いていくことが、教育と社会の目的である。昔は、そのような根拠と理由を自由に求める、歴史の形而上学を記述しただけに他ならない。

どのような社会を築くべきか、どのように社会を導いていけば良いか、考えなさい。自由な社会の根拠や根源を考えていくと、ルソーのように自由な契約や合意から社会が生まれたと考えたくなるが、それは間違っている。社会は自由からは生まれない。社会は、協力と支配から生まれるのである。よって、そうした協力や支配のような「義務」を全て捨ててしまえば、この社会には何も残らない。義務が生まれなければ意味が無いのである。だが、義務を義務でないと考えることはできる。自由なモチベーションと助け合いから、社会の義務を「それぞれの心で」守ることはできるだろう。それを、僕は新しい「自然状態」と呼ぶ。あくまで義務を否定せず、義務を義務だと考えないことで、それぞれは円滑に社会を築くことができる。義務を当たり前のこと、当然のことだと考えれば良い。

慣習と価値観は、自らの人生における偉大なガイドになってくれる。価値観とは、相対的な「それを好きだと思う気持ち」であり、それぞれに異なった価値観がある。心の中にあるだけではなく、外界のさまざまな視点や場所に、さまざまな価値観が存在する。この世界の全ての環境を価値観として、価値観を肯定し、吸収しなさい。そこから、精神的なマスターが生まれると同時に、「正しい価値観とは何か」を肯定と否定の繰り返しから考えることができる。そして、価値観は集団における「帰属意識」となり、それが歴史となって「アイデンティティ」や「誇り」に繋がっていく。このアイデンティティは、人工的に形成することも可能である。リアリズム(現実主義)を追究することで、アイデンティティは環境において実現できる「機会(チャンス)」へと変貌し、この世界で自由自在に「環境のアイデンティティを構築する」ことができるようになる。そこまで理解した段階で、はじめてこの世界の「システム(形態)」を考えられるだろう。そして、システムは社会主義と民主主義を融和させ、「自由なソ連」を築くことができる。それは、民衆の合意と協力によって、平和的に為される「ユートピアの実現」である。だがそれは一様ではなく、自由から平等まで、さまざまな「価値観集団」を生み出す。だからこそ、それらは「独立した自由な共同体」でなければならないのである。それを行うも止めるも、「構成員の勝手」である。自由は全員に許されると同時に、きちんとした「ガイド(案内役)」が居なければならない。そのガイドは「経験」である。そして、この社会は「経験を写し取った鏡」なのである。

昔は、環境と実感を想定しただけである。実感や価値観と、環境や実際の場を想定して、比較したり肯定・否定したり、環境における適応や歴史における実存、人生の中で環境として信じていることを考えただけである。数学の定理と証明を考えるように、実感や価値観と環境や実際の場を想定した。それらは自然に生まれ、この世界に在るものであると考えた。

国民に対して、「自分が社会に参加できているという実感」を与えなさい。この世界は、あまりに人口が増えすぎて、大きな組織になりすぎてしまい、逆に小さな個人の権利や声がどんどん置き去りになって踏みにじられている。もっと、個人として、世界において力や能力を発揮できている、という実感が欲しいから、トランプのような「アンチ権力者」を支持するのである。よって、もっとそれぞれの声が反映されるように、国としての独立性を高め、共同体にした方が良い。統一される場合であっても、さまざまな人からの意見を聞くことで、この世界はボトムアップに変えられる。それは、ソ連の目指す世界政府と一致しないものではないだろう。

トランプのような人間が他人をいじめるのは、それしか勝つ方法を知らないからである。トランプは、いじめて批判することでしか、相手に勝つことが出来ない。だから、もっとさまざまな良いやり方を教えてやれば、トランプのような人間でも、いじめをやめて正しい方法で人間関係を築くことができる。ユダヤ人だけに悪の原因を求めるのは、悪を別の方法で解決した経験が無いからである。

スターリンも同じである。不自由な革命の反動体制を敷いたのは、強制的に従えることでしか、みんなをまとめる方法を知らないからである。もっと、やり方があったはずなのに、できなかったのは、一度もそうしたことをやったことが無いからである。結果、幹部を殺しすぎたため、誰のことも信頼できなくなった。信頼すべきは幹部だったのである。革命を成功させるために志の実現を強く信じるのは必要かもしれないが、手段をきちんと選ばないと、あとで取り返しのつかないことになる。独裁者で政府を支配するのは、左翼から見ても間違っていると言えるだろう。きちんとオープンに議論し、相手のことを信頼しなければ、たとえ不自由にやった方が上手くように見えても、それは絶対に上手く行かないのである。オープンソースの第一の理念は、「やったことを全て包み隠さず、オープンにすること」である。それだけは守らなければならない、というのが、僕の青春時代の教訓なのである。

僕は、この世界は、「自由の使い方を間違えている」と思う。そして、「みんなは自由の使い方が間違っていることに気が付いていない」のである。

自由や国民主権と言って騙されているだけで、核兵器がそれぞれの国に何百・何千発とある、今の世界の国家組織は間違っている。

世界全員を、ソ連に統一してしまえば良いのである。

だが、個人崇拝をする必要はない。ソ連だからといって、革命家をいつまでも崇拝し続けるのはおかしい。評議会にみんなが参加して、みんなが国の一員として自由活発に意見できるような、そういう何らかの政治システムが作れないか、考えなければならない。

池上彰の番組でやっているように、インドとパキスタンで核戦争が起きれば、もう世界は終わりである。僕は、今後、どんどん核兵器を作る国が増えるだろうと危惧している。そして、核戦争を「持っておきながら使わない」という、「綱渡りのような戦争」が今からたくさん起きる。すぐに、いつ滅びても仕方ない世界になる。これは、日本が自衛隊を持つべきだとか持たないべきだとか、それをはるかに越えた「レッドライン」である。

そう、民主主義のままでどのようにすれば良いか考えなければならない。子供たちをどのように救うべきかも考えなければならない。この世界の何が正しくて、何が間違っていて、どういう国を実現すべきで、現実的には何が出来るのか、昔の僕のように考えてほしい。マルクスのように、資本主義を分析してほしい。また、考えるだけではなく、実現してほしい。人々を鼓舞し、全員を導いて欲しい。それも、あなたならば必ずできるだろう。あなたは、神になる人間だ。

本当の問題点がどこにあるのか、良く考えてほしい。それも、誰かを悪いことにするだけではなく、本質的な何が悪いのかを洞察してほしい。自由が悪いのか、それともやり方が悪いのか、選択肢が悪いのか、今やっている何が間違っているのか、自分の力で考えてほしい。この世界は必ず変えられる。あなたが変えれば、全て変わる。そのあなたが居ないから、この世界は変わらなかったのだ。

昔は、自由が大切だと考える人間の方が多かった。この世界から自由がなくなれば、その方が終わりに見える人間が多かった。それは、昔は、「戦争か、平和か」ということが、そのまま「支配か、自由か」と同じ意味での問題だったからである。戦争=支配で、平和=自由だった。今の世界の現状を見て、それは明らかに間違っている。自由に任せるから、各国は好き勝手に核兵器を作り、好き放題のことを言って批判し、互いの意見を聞かずに戦争に至る。いまや、戦争は自由であると同時に支配であり、平和という概念はどこかに行ってしまった。今こそ、「国際協調」を言わなければならないのに、ネットの右翼の自由のせいで、そういう意見が消されてしまう。むしろ、自由に自由など存在しない。本当の自由は、ただの最悪だった。いつもの幻の自由を追い求め続けるせいで、最悪の自由から見て見ぬフリをするしかない、それが今のインターネットを中心としたIT・通信社会である。通信技術を廃棄することでしか、直らない問題である。悪いのは全てIT社会である。そう、まさにLinuxが勝つしかないのである。大爆笑だ。