新・日記2に戻る | 2019年2月の日記に戻る

=2019-02-26=

僕は、もうパソコンやプログラミングやIT技術のことは終わりにしたいと思う。

それは、工業大学に通っていた姉の教科書を読んで、多くの本はとても難しくて分からないと感じたことと、ひとつ、「計算機アーキテクチャ」という教科書を読んで、この内容は大まかに既に分かっているなと感じたからである。

ピアノも、英会話も、きちんとそれなりに出来た。デザインも少しずつできてきている。

病気は、意図や目的を排除して、その上で治せば治る。意図や目的がおかしいから、自然に治るはずなのに治らないのである。

そもそも、大学なんか、難しいだけで何も分からない。大学は嫌いになった方が良い。その方が、はるかに哲学的になれる。大学が嫌いな人間の方が、哲学者として強い信じる心とともに、この世界を冷静に見つめられる。大学なんか、僕には要らない。

パソコンや大学のことは、もうやめようと思っている。本も読みたくないし、テレビやネットも見たくない。パソコン、大学や学校、宗教、哲学のようなことは、もう十分分かっている。これ以上、やる意味がない。

それこそ、勉強をしても、経験を記述しても、何も賢くはならない。そろそろ、そういう「賢くなる努力」は必要ない。そもそも、努力したからといって、賢くはならない。学校は全部間違っている。

やることがないなら、何もしなければ良い。そもそも、作り出す側や教える側をやるよりも、使う側や教わる側をやった方が面白い。作りたいとは思わないし、教えたいとも思わない。

それこそ、パソコンのことなんか、本や書籍の方が分かっていない。自分の方が分かっている。Rubyのプログラマが賢いわけがない。Rubyなんか、したくないし、C++についてはコードすら見たくない。

もっと普通のことをやって、普通のことを楽しんで、普通に生きられたら良い。

今日は、足の疲労骨折の件で病院に行ったため、作業所には通えなかった。装具をつけて、足が痛いのは少し楽になった。

なぜか、常識なんか知っていても、中身が無ければ意味がない。パソコンのことが分かっても、ただ賢いと思い込んでいるものが分かって馬鹿なものに見えるだけである。そもそも、元の状態が賢いのに、馬鹿になる意味がない。馬鹿になってしまうと、何も分からず、何もできなくなってしまう。そういうプログラマが自分のように多い。

そういうわけで、もうパソコンや大学には関わりたくないし、本や書籍も読みたくない。ネットのコミュニケーションなど、一切したくない。情報も知識も経験も欲しくない。

要は、ここで全てに満足すれば良い。もう、辛く哀しい仕事は終わったからである。あとは、普通に生きて、普通に暮らして、普通に年老いて、普通に死ねば良い。それが理想である。

病気については、「治らなくても何も不便なことはない」と考えれば良い。治そうとするから、逆に辛くなる。治そうとしなければ、それで既に終わりである。何も、考える必要も、心配する必要はない。病気は治らなくて良いことにして、それでお終いである。それで、満足して、全てを終われるだろう。日本が消滅するだけではなく、僕の中にあった全てが消滅して、ここで終わりである。

自分がエロいものに見えるのは、エロいものが好きだからである。なぜか、エロいものと恋愛しか見なかった。他のものは、テレビすら見ていない。文章にも、そもそもそういうものをいくらでも書いているだけである。

本当のことを言えば、そんなものは絶対に嫌いである。そう、この世界はそのように滅びていくだろう。自由とはそういうことである。カタルシスの上の腐敗した堕落表現が、世界を崩壊させる。ただし、僕はそうなる前に、そうしたもの全てを日本と一緒に消滅させるだろう。

残ったのは、巨大なIT企業であるGAFAと、このおかしな何もないIT社会である。そして、そのIT社会はそのうち、新しい技術を何も作れなくなるだろう。これ以上、技術は発展しない。そもそも、最近のIT技術は、ただホームページの運営と管理を発展させて、バックエンドの開発方法やフロントエンドの記述方法をいくらか変えているにすぎない。言ってしまえば、PerlやPHPから何も進歩していない。Windowsの方も、Windows 2000から何も進歩していない。Linuxも、UNIXやX11、そしてTeXが使えるだけであり、GNOME 3は何も進歩していないどころか、MATEに比べて完全に退歩している。この、パソコンと呼ばれる技術は、ここで進歩が止まって終わりである。本当に勝つのは、Amazonのような、パソコンの技術を「使うだけ」で、それを使って商売をする、「IT企業ではないIT関連企業」だけである。そして、その結果、そのうちそうした「使うだけの技術」は、チープ化して「ジェネリック的オープンソース」になる。それが最後のパソコンの形態であり、そのうち「プログラミングなんか子供でも出来る」ようになるだろう。Windowsの操作を子供の方がすぐに慣れるのと同じで、プログラミングやコードを書くのは、ただPHPやRubyを使う方法を知るだけで作れるようになる。それが、最後の、「何もない世界」の全貌である。ただ、人工知能(AI)だけは進歩して、ファームボットのように、工場だけではなく農場や酪農までも、全てロボットが自動でこなすようになる。IoTは、ただの機械製品にネットを繋いで、スマートなことはできる、とは謳っているものの、地デジと同じように、どうでもいいインフラに組み込み用途で使われるだけであり、何も期待するほどの技術革新は起きない。自動運転も、ただの自動接着型のバスや列車のように、ただの普通の技術として溶け込むだけで、大した革新は生み出さない。ボーカロイドなどは、アニメの延長線上であって、アニメの衰退とともにすぐに消え去る。そのうち、Googleは何らかの問題を起こしてユーザーが離れ、IBMやMicrosoftがGoogleを買収して、Googleは消滅するだろう。

本当に賢いものは、パソコンのようにすぐ生まれてすぐ消え去るものではない。賢いのは、生活に必要な日用品とインフラである。シャンプーやせっけん、ひげそりのようなものが必要であり、ガス、水道、電気などは絶対に必要である。こうしたものは、安易に商業化すると、貧困層が最低限の生活すらできなくなる。だから、必要なものは全員に均等に与えるべきである。逆に、IT機器のような、必要ないものは、どんどん商業化してもらって構わない。その方が、競争によって技術が進歩し、社会が発展するからである。基本的に、そういうことにしておこう。だが、理想と現実の壁は厚く、必要なものを得られない人が居る一方で、金持ちはたくさんの無駄な富をひとりで独占しているのである。そのまま放っておくことは、金持ちにとっても良くないことである。