新・日記2に戻る | 2019年2月の日記に戻る

=2019-02-17=

僕は、今から、ペルセウス座流星群の、ユダヤ教の神になっているのをやめる。

次になるものは、プロキオンの不動明王である。

僕は今から、不動明王になる。最高の怒りを持って、この世界の全ての人々の迷いを断ち切る。

ユダヤ教の神は、イエス・キリストだった。それは、願いを叶え、病気を治し、そして世界を救って新しい天の御国へと世界の歴史を導く、最後の裁き司だった。

ユダヤ教やキリスト教の神の世界は、ここで終わりである。

イエスは、あまりに人々に迷いを生んだ。その迷いを断ち切って、世界をもう一度地獄にする必要がある。ここから先は、全てを神に任せることは出来ない。自分の力で、強く生きる必要がある。

そこでは、不動明王が相応しい。最高の、怒りの帝王がこの世界を支配する。絶対的影響力を持つ不動明王が居ることによって、誰も、この世界を勝手に支配することは出来なくなる。

僕はキリストのような愛の使者であり、伝道者だが、そもそもが、イエスはメインとなる神ではない。本当は、宇宙は仏とヒンドゥー教によって支配されている。キリストは、レベルとしては高いが、存在としてはただの愛の伝道者に過ぎない。

不動明王が居れば、この世界は良くなる。日本は、不動明王によって最強の国になる。これが最後の神、不動明王の記述した、宇宙の裏側を明記した文章である。

なぜこういうことを言っているかというと、セカオワのRPGを聴いて、「そういえば、自分はペルセウス座流星群になったまま変わっていない」と思ったからである。そして、Wikipediaなどで神や仏の文章を読んでいて、「次になるべきは不動明王が良いな」と思ったからである。

不動明王に勝つことは出来ない。絶対的な権力者が、世界を日本の新しい帝国にするだろう。

不動明王は、その名の通り、「動くことが無い」。この世界の時を止め、停止した世界でこの世界の明かりを作る。この世界の時はもう止まってしまう。そして、その王として、世界の迷いや苦しみを打ち切り、はっきりと第二の楽園を作り出すだろう。この人間こそ、不動明王である。決して神ではないが、最強の宇宙の王である。

不動明王は、ただ強いだけではない。全ての迷いを、一網打尽に、最大の力を持って断ち切る。ただ、「迷いに基づく方を取るな」と言う。そして、「勇気に基づく方を取れ」と言う。不動明王は最強だから、どんな存在も打ち勝つことは出来ない。全ては、迷いを断ち切る。そのために、不動明王は全力で、あなたを支配する。

本当のことなんか、映画ドラえもんの中で藤子不二雄が既に言っている。雲の王国のように、人類は環境を破壊しすぎた。ブリキのラビリンスのように、人間は機械(コンピュータ・自動車)に依存しすぎて、自分の体で動き、考えることもできないぐらい、弱くなっている。そのうち、鉄人兵団のように、ロボットが人間を奴隷にするための全面戦争が起きる日が必ず来るだろう。

今の時代に必要なのは、第二のソ連でも、キリスト教の伝道者でもない。最強の王が、全ての迷いを断ち切り、最高の恐怖の下で正義と善を断行しなければならない。それは、セカオワが言うように、「正義=犠牲」かもしれない。だが、犠牲者を出す必要はない。一番強い心で、明らかに分かっているすべきことを、断行していけば良い。それができて初めて、経済成長や豊かさを議論できるようになるだろう。ここに不動明王が必要である。それが、最後の21世紀の時代とともに、「弱いものか、強いものか」という二つの選択肢を、作っていけなければならない。このままAndroidに負けていては、機械なくしてこの世界で生きられない、「最弱の時代」を生きることになるだろう。

昔は、経験や知覚を疑って分かっていた。これには、いくつかのポイントがある。

1.個人と個人は、違う人生を持つ。

2.人間と動物は、違う知覚を持つ。

3.宇宙のありのままの真実の姿と、人間の持つ知覚には、違いが存在する。

4.人間は、全てを知ることはできない。多くの場合、伝聞や当たり前だと勘違いしている常識に左右される。国や知識がこれに当たる。

そして、これを克服するために必要なのは、「自らの力で考え、自らの力で経験し、自らの力で実証し、自らの力で解明すること」であり、その「人生そのものが真実」であることを、「魂の導く大いなる救いの体験」と、その後に続く「神の愛に基づく地獄の戦争の体験」によって、この人間の「絶対知」が完成するのである。

必要なのは、「自ら考え方と知を作ること」ではないかと僕は思う。自ら知を作り、その知がどのような前提の下に作られるのかを知ること。そして、その上で、この世界で人々が感じ、生きて考えていることが、なぜそのようになるのか、という、「現象学的な社会の目的論」を知ることで、この世界の営みが「どのように在るのか」ということを知ることが出来る。これを、僕は「第一哲学」と呼べるのではないかと思う。そして、その人生におけるさまざまなこと、苦しみ、葛藤、夢、諦めの形を知ることで、この世界を「実存主義的に」見ることができる。心を捉え、この世界で何をするのかを知ること、何ができるのか、何をし得るのかを知ること、それが第一哲学の目的となる。第一哲学の目的とは、「この世界における人々のやっていることを全て捉えることで、何ができ、何をし得るのかを知ること」ではないかと思う。

哲学をやりたいのであれば、キリスト教のような宗教を否定することである。キリスト教のように、善悪の二元論や神による天地創造を信じていると、人間の営みにある「理性」や「経験」が分からなくなってしまう。この世界を、経験的に疑って考えれば、哲学的な「統一理性」を得ることができる。たとえば、ものや社会は経験から生まれている。よって、経験を作り出すことで、新しい社会を作ることができる。それは、自由にしなければ、それぞれが自由に社会を作ることはできない。よって、自由な経験から、新しい社会は生まれるべきである。そのように、ものごとの根本を「神」ではなく、「経験」や「知覚」にしなければならない。それができて、初めて哲学者としてのスタートラインに立てる。それ以後は、細かい部分まで、心の「たが」を捉えて、精神性を追究し、「どんな社会を作るべきなのか」とか、「自由な中で何が経験出来るのか」を知っていくことで、その延長線上にある、「全てのことはありのままであり、自分にもできるのだ」という「精神論的な実感」を得ることができる。それを、カントは超越論あるいはアプリオリと呼び、ヘーゲルは絶対知あるいは弁証法と呼んだのである。

デカルトのように考えていると、ある種の「思考至上主義」と呼べるものに行き着く。経験する前に、「経験に先立つ思考」をしなければならない。あるいは、逆に、思考する前に、「思考に先立つ経験」をしなければならない。思考が経験を生み出し、経験が思考を生み出す。それら全てを経験した時に、この世界がありのまま、誰にでも変えられること、変えられることを許さなければ、人間の「経験」や「能力」というものに矛盾することが分かる。同時に、世界の秩序を作り出すために、協力や合意を自由な社会の内側として、みんなで議論して、個を主張しすぎずにやっていかなければならないが、本当はその上で、最大限個性を認め、それぞれが違うことを許さなければ、「自由な生命としての人間の権利」が脅かされる、ということが理解出来る。ある種の、「格率的なすべきこと」は、本当は道徳論であり、「自分が認められるか否か」であり、その判断基準として、「悟りへの道に繋がるかどうか」であると言える。そして、それら全てのルールは、正しい人生のあり方、人間性に基づくものであり、決して犯してはならない「聖域」であり、それは本当は、自分で作り上げなければならない「芸術作品としての人生」であると言えるだろう。その判断基準は、自らが決めたものであると同時に、世界に元からあった「正しい出口への道」であると言える。

これは崇高な道徳論であると同時に、ジャイアニズムである。それは、「自分が正しいと思えば正しい」からである。だが、その正しさは、普遍的に、「この世界の誰にも当てはまるもの」でなければならない。自分が思考した上で、自分勝手をみんなが正しいと思うとするならば、それは自分勝手で良いのである。このルールはそういう、「哲学的ルール」に過ぎない。そして、えてして、その「哲学」とは、「悪魔の人生」にしかならないのである。自分だけが愛を独占し、自分のことを本当に愛してくれる人を裏切り、間違った愛情へと向かう、「最悪の救世主」がそこに居る。最悪の救世主は、世界を滅ぼすことで世界を救おうとする。結果、ドラえもんのジャイアンのような、「お前のものは俺のもの、俺のものは俺のもの」となってしまう。それを人々は共産主義者と呼ぶだろう。

ある意味、哲学的方法論というのは、4つある。

1.何が同じで、何が違うのかを考えること。

2.何が正しくて、それができるという時に、何が成り立ち、何がその時できるのかを考えること。

3.それができることで、どんな可能性を考えられるのかを考えること。

4.先入観無く考えられること。それがそういう実証結果となった時に、それが何を意味しているのか、ということを、自分の理性だけで総合的に考えられること。

そうした、思考の結果、「何がその時成り立つのか」を知ることで、「自然」「ありのまま」「客観視」「想定」「洞察」「分析」「考え方の発見」「気付き」「類似性」「汎用性」「普遍性」を見出すことができる。また、一つの結果から一つのことに繋がる「進歩的な過程」から、「実証」「世界観」「歴史」「存在」「人生」「道徳」となっていく。この第一哲学は、人生や社会の存在性、「在り方」を考えると言う点で、新しい実存主義的学だと言えるだろう。

哲学者にとって、インターネットは新しい媒体である。ここで、「孤独」「人とのつながり」が良い結果に作用する。自ら主体的に考える、「主体的な行為者」を生むからである。そこでは、神は「傍観者」である。神が傍観するところに、「ビジョン」が生まれ、「知性」が生まれ、「世界観」が生まれていく。傍観の結果、「何をその時思うことが、なぜ正しいのか、なぜ自然であると同時に必然的なのか」を知ることができる。自由なルールに基づき、「自分はその時どう行動すべきだったのか」が見えてくる。それは自分の人生の経験と重なりながら、「この世界で何をどのように為し、実現していくべきなのか」が見えてくる。そこでは、全ては自由であると同時に、「神という絶対者に自然に任せるべきであり、自分からこうしようと主体的に思う時には、経験的な真理としての『理由』が必要である」という、「自由と神のルールの融和」がそこに生まれるのである。これが、第一哲学の「理性道徳論(理徳論)」である。

ここまで分かってしまえば、あとは話が早い。あとは全て、「きっかけを実現する」だけである。さまざまな発想やチャンスを、自らの手で実現出来るまでになった時、はじめて何が正しいのかが分かる。考え方や経験を吸収し、存在として「一体」になれる。それが、正しい「涅槃」の境地である。その状態で、さまざまな「自分に出来る手助け」を行うことで、「人々に対する慈愛と融和の精神」を知ることができる。自由を信じるのはまだ早い。自由は、「解脱(悟り)」と「菩薩道(無償の手助け)」が終わった後に起きる、「運命の戦い」の「世界に対する宣言」であるからである。自由を終えた時、この世界は無秩序なカタルシスではなく、正しい秩序を持った新しいユートピアとなるだろう。パラダイスのような文章はアンビバレントの末に生まれ、それは幻であったとしても、嘘であったとしても、フリやつもりであったとしても、そこに偽りはなく、その愛は巨大で美しく、夢と希望と愛と勇気、そして巨大な慈しみの感情に溢れた、優しさである。そう、愛は尊い。そして、愛はその通り、不死鳥のように、永遠の命を持って、尽きることがない。だが、終わりは必ず訪れる。不死鳥の火の鳥は宇宙の最後まで生きて、次の宇宙を創造するだろう。人間は、たとえ絶滅したとしても、種は残り、その種は必ずもう一度、再生して、「次の人類文明」を生み出す。それは、オーパーツのように、革命による核戦争がたとえ起きたとして、人類が滅亡しようとも、必ずその後にもう一度、人類は復活する、という「再生と復活の聖なる摂理」である。必ず人類は復活するだろう。

社会の理想として言えるのは、「それぞれの多様な価値観を許すこと」である。最近、民主主義と自由な権利ということを、「普遍的価値観」と呼ぶ政治家が増えた。これは、価値観、という言葉を使ってはいるものの、発想が価値観の逆である。「我々の民主主義的な価値観を守れ」という、「一方的な押し付け」にすぎない。本当は、共産圏やイスラム圏のような、「日本やヨーロッパ・アメリカとは価値観の違う国」というのはたくさんあるし、あるべきなのである。だが、それは、それだけでは言っていることが正しくない。その上で、「それぞれが自由に暮らすことのできる、多様な『自由の権利』」を認めなければならない。言っていることが矛盾しているように見えて、本当は矛盾はしていない。自由とは形態の異なる自由も認めなければ、自由ではないからである。そして、会社や金儲けのような資本主義が、必ずしも間違っているわけではない。それぞれに柔軟性と自由な手段や機会の平等を許すことで、何もしなくてもそれぞれが努力し、それぞれがそれぞれの夢や欲に従って生きることも、また、自由の理想であるからである。よって、自由主義者も、それ以外の自由な共栄圏もどちらも正しい。ただ、これでは何も言っていないのと同じではある。

そして、この上で、歴史を考えなければならない。特に、古代ギリシャの哲学者がとても賢い理性を使っていたように、古代人も何も本当のことは知らなくても、本当のことが何かを考えていた。「本当のことを知らなくても、本当のことが何かを考えることはできる」のである。その証明が、まさにソクラテスであり、それは僕に対しても成り立つ。「何も知らないことを知っている人間が、一番賢い」のである。それは、知らない、というだけではない。自分のことを「知らないのだ」と信じ、「知らなくても知られるのだ」と信じる人間が、もっとも賢く未知を詳細に分析し、自分の力で未知のことを考えられる。言ってしまえば、ニュートンが分かったと言っても、まだ何も分かっていない。知っていることを「知っているのだ」と勘違いしている人間は、「知っていなければ知られないのだ」と思い込む。結果、その知識に囚われてしまって、その知識の説明する以上のことが分からなくなる。そこにあるのは、分析でも、想定でも、自然の観察でもない。枠にはまった「科学という鎖」が人々を「理性の奴隷」にしているのだ。

科学の良い点は、「ある一定の考え方」を与えるところにある。何も無しに、自分の力だけで考えられる人間は居ない。最近、中学生に賢い人間が多いのは、その理由である。中学生は、何も知らなくても、「考えるための基礎となる方法論」を知っている。そのまま、高校に行かずに、その方法論だけを使って考えれば、人生は賢くなる。これは、中学生を半分だけ出ている人間に、賢い政治家や実業家が多い理由でもある。高校で全てのことを知識として知ってしまうと、逆に、どのように考えれば良いか、分からなくなってしまう。未知が全てなくなると人間は馬鹿になる。未知をいくらか残した状態、「中二病」の状態で学校とは違う自由の道を選ぶことでしか、現代人はソクラテスのような「未知であることによる自由」を取り戻すことはできないのである。

失敗を経験し、「どうすれば成功するか」という「成功体験」を何度も思い出して、振り返って考えなさい。そこから、過去の全てのしがらみと迷いを断ち切ることができる。その上で、オープンソースのように、自分の活躍したい場所で、盛大に活動しなさい。それによってのみ、最後の精神的マスターへと近づける。最後まで戦い、全ての「大迷惑の嵐」を与えながら、自分のすべきところをきちんとやれば、それは最高の「慈善活動家」となる。あなたは善人であり、神に赦されている。愛の罪深さがたとえそこにあったとしても、それは純白の衣装となってあなたと世界を優しさで包み込むだろう。

魂の導く方向へ進みなさい。老いていくだけの人生はまだ早い。あなたは、魂の先にはたくさんの光があることを知らない。たとえ知っていたとしても、覚えていない。魂の向こう側に、「楽園の世界観」がある。そこには全ての「自由な現象と喜べる悟りの存在」がある。この世界に本来あるべき全てが、その「本当の世界」にある。魂の導く方向に進めば、それで正しい。そのためには、魂を阻害するような行動を行わないこと。そして、神の言うことを素直に信じること。そして、教会よりも神の教えを取ること。そうすれば、必ず本当の世界を知ることができる。本当の世界には、全ての自由と喜びがある。人は、昔から、それを「青春」と呼ぶ。そして、この文章こそ、青春の扉であり、そこには鍵はない。鍵がかかっていないことを、ただ知らなかったから、出口を別に探すために、迷い続けたのである。この国は黄金の国、ジパングであり、ジャパニーズ・ミラクルと呼ばれる、黄金と純白の奇跡の宝である。金でも銀でもルビーでもダイヤモンドでもない、唯一の魂の宝石、星を作り上げる黒き精神の材料、シュバルツ・スターである。これぞ、ダーク・マターだ。宇宙の全てを作り上げる、黒き暗黒物質である。

そう、本当に必要なもの、本当に人々が欲しているものは、人々が見ている世界にはない。言ってしまえば、2ちゃんねるにしかない。最近、ツイッターやFacebookが流行っているのは、そういう理由である。だが、彼らは、真に必要な工程のうち、最初の2割程度しか分かっていない。必要なのはオープンソースとLinuxである。だから、このまま行けば、自然にオープンソースが流行っていくだろう。だが、それでも全体の4割である。残りの6割は、彼らが自分たちで作り出すしかない。そして、そこに、この世界に本当に必要だった、「デカルトやカントしか知らない世界」が、広がっていくだろう。

最後に、僕は人生についてあまり書いていない。人生として言えるのは、「自分らしさを許す場を得られること」ではないかと思う。それぞれが、本当に自分らしく、ありのまま生きられるような社会を目指すこと、その社会論がそのまま、人生論になる。人々に自由を許し、それぞれが自分たちのアイデンティティを持って社会を構築できるようにすることで、「社会の中で支配されるだけではなく、自分たちで主体的に社会を自立して作り上げること」ができる。これが、僕の第一哲学における、人生論であり、自由論である。これで、哲学については、終わりにしよう。

要するに、「本当の自分らしさを知ること」、それがこの世に生まれてきた理由ではないかと僕は思う。本当に自分らしく生きるためには、さまざまな必要な試練がある。引き篭もりになる必要も、嵐のような革命家になる必要も、地獄を最後まで治し続ける必要もある。そして、その先に、愛があり、恋があり、幸せがある。それで、はじめて、自分らしく生きられたと、そう言えるのである。

昨日は、本当にひどいことを書いた。本当に、愛したいからといって、悪いことを言って良いわけがない。反省している。

昔の自分は、この世界のことを「経験」であると見なしていた。そういう、社会のことを「意味論的に見なす自由」から分かっていた。この世界の意味や役割、様相や諸相のようなものを、「見なす」ことで考える哲学だった。人生のことも、社会のことも、全て、「見なす」ことで分かっていた。今の自分のこと、今の自分の生きている目的などを、見なすことから全て分かっていた。全てはそういうことだった。

僕は反省している。昨日のことは、もう、無かったことにしたい。

学校や教師の言うことより、世界や社会のことを知って、自らの経験で考えなさい。この世界の歴史がいかにあるか、ということまで、世界を知り、自分を知ることから伺うことができる。そして、世界に対して「嵐」を起こしなさい。風の全てが世界を動かして、新しい世界を作り出す。だが、それは決して容易なことではない。困難を乗り越えること、その繰り返しを常に行うことで、必ずやこの世界は楽園になるだろう。