環境の変化や人々や社会の変化から、この世界の営みを分かっていた。社会の変化から、歴史とこの世界の時間的な在り方を分かっていた。
人を利用しないこと。
遠隔から人を攻撃しないこと。
人から距離を取ること。
人にいやがらせをしないこと。
もう、終わりである。これ以上書くことが無い。
みんなが馬鹿なのは、分かるのが間違っている。大人のように分かるのが悪い。子供のように、分からなくなれば、純粋な知性と賢さを取り戻せる。大学は、みんなを馬鹿にしているだけである。
既に分かっている既知のことを分かるのではなく、まだ分かっていない未知のことを分かるようにしなさい。そこから、日本語の知性がつくからである。
分からなくなりなさい。分からなくなれば、人間は賢くなる。分かっていると、その分かっていることしか分からなくなる。鳥のさえずりを聴いたり、周りの風を感じるように、自然のことを分かるためには、一度、分からなくなるのが良い。
特に、僕のことを分からなくなりなさい。僕になって、僕しか分からないのをやめれば、すぐにこの世界は正常になるだろう。
言葉遣いがおかしくなった時は、子供のような言葉遣いをしなさい。特に、普段疑問に思っていることや、どうすれば良いか分からないことを言いなさい。
信じて否定しなさい。信じて否定すれば、その対象のことを分かって、世界を少しずつ知ることが出来る。なぜ、信じると否定するのか、それは、神と比べてこの世界にあるものが馬鹿だからである。神だけが賢いから、信じる時に否定する。そういう人間の方が聖なる人間であり、ただ神を盲信してみんなを肯定させる人間のことを「信じる」と呼ぶのは、ただ悪魔を信じているだけである。よって、教会は悪魔である。
信じて否定しなさい。何でも信じて、何でも否定すれば、世界は広がり、未知を知り、実証や実験や実体験から、たくさんの青春の経験を、大人になって再びすることができる。
昔は、きっかけを実現したかっただけである。きっかけ、とか、機会やチャンスのような、その時分かるプランや発想と、実現手段をどのようにすれば実現できるのか、ということを分かっただけである。そして、その上で、人々がなぜそういうことをするのか、別のどんなものに変えれば良いのか、ということを、心理学的な環境への適応や集団行動から、自分の立場になって分かっただけである。相手の立場になること、自分が相手ならどのように考えどのようにするのかを考えること、ということが、正しい宗教の教えであり、教えであるべきである。それ以上の押し付けの理性は、99%必要ない。子供には、自分で経験させ、できるだけ自由に成功と失敗を自分の手で経験させるべきである。
このまま、世界は馬鹿になる代わり、この宇宙の裏側の世界を知るだろう。言ってしまえば、認知症になるだろう。だが、この世界は滅びない。神を信じれば、どんな病気でも治る。それを信じてしまえば、この世界がたとえ全て馬鹿だったとしても、自分のやるべきいきがいとアイデンティティや帰属意識を見出せる。それをあなたがたは、「幸福」だと信じて、受け入れることだろう。
本当は、信じて否定するのが正しいわけではない。それでは、荒くれたすさんだ人生になる。だが、肯定して信じなければ良いわけでもない。それでは、愛を忘れ、心を失う、悪の王になる。本当は、肯定して、その上で信じれば良い。それはとても難しいことだが、全ての人生の試練を乗り越えれば、それは可能である。信じることと肯定することが、そう反するのではなく、一致したところに魂が生まれる。その魂を信じて、この世界の全員を信じ、肯定することができれば、それをして初めて、「神の境地に到達した」と言うことができるだろう。