新・日記2に戻る | 2019年1月の日記に戻る

=2019-01-29=

世界を自由にする上で必要なのは、僕は「価値観の創造」ではないかと思う。

もし、完全に世界を自由にしたとしたら、そこには無秩序なカオスと無政府主義の恐怖社会が待っている。

だが、自由にした上で、価値観と秩序をみんなで作れば、どうだろうか。逆に、全ては成熟した経験者が自然に取りまとめるようになり、それぞれは自分の意見を言って、平等な社会を築くことができる。

ある意味、それはソビエトの目指しているものとは、逆でありながら同じである。みんなを自由にし、価値観をそれぞれが作るようにすることで、平和なままで自由な社会を作ることができるだろう。それを「普遍的な価値観」と呼ぶなら、そこには支配だけではなく、平等と自由の理性が必要であり、それぞれを自由に許した上で、みんなの価値観を作り上げるかのような考え方で、社会を作る必要があるだろう。そこには、自然な許可と可能性から、潜在的な変革が行なわれ、「いままで考えても見なかったような発想」から、新しい社会秩序と社会の形・形態を見出すことができるだろう。本当に自分らしく生きたいのであれば、その自由な社会をみんなで作ることであり、それはひとりが勝手に決めるのではなく、全員の合意によって訪れるべきである。全員が合意するためには、それぞれが議論し、討論し、弁論する必要がある。

価値観と秩序をみんなで決めて、はじめて自由な社会である。僕は、社会を築くことに対しても、誰かが勝手に築くのではなく、みんなで「自由な中で社会を作る」ということを基本としたい。その意味とは、たとえば国家の主権や独立、会社の経営や人事・採用のように、誰が何をする上においても、その主体となる個人や社会やグループが「自らの意志で」決められる、ということである。誰かに支配されたり、影響や干渉をできるだけ減らして、自由な中で自由に決め、行うことができるようにする。この場合、誰が誰を自己とするか、という考え方が必要である。自分、というものは自分がコントロールできるべきである。その「自分」というものが何であるか、そこを考えれば、全てのものは自分と同じであり、自分たちの自由である、という「地球全体の自由」も、同様にみんなの自分の自由として、行使・決定できるようになる。それを、僕ははじめて、「自由な社会」であると呼ぶだろう。

ただし、ここで問題がある。それが自由である、と知り、それを自由に行使する前に、それがどうやったらどうなるか、という「法則性」と「経験的理性」を知っておく必要があるからである。知らない状態では、自由を行使することができない。自由に考えることもできない。経験し、知り、自分でやったことがあることによって、はじめて自由を行使できる。僕は、これを「Empowering」と呼びたい。Empoweringは、日本語で言えば「能力を与えること」である。能力の自由を与えることで、人々は自分で主体的に考えて、この世界において何をすべきかを、はじめて共通理解として前提に置くことができる。そうでなければ、たとえばアマチュアプログラマがいきなりC++のプログラミングをするのと同じで、そんなことになってしまえば会社が倒産するように社会は崩壊し、国としての文明は滅びる。絶対に滅びなくするためには、良く分かった人間が「能力を与える自由」をみなに教えなければならないだろう。そう、ソ連はそこが間違っていた。何も分からない、革命家が独裁したから、ソ連は遅れ、人々のものや豊かさは無くなった。きちんとEmpoweringを行えば、ソ連でも、進歩し、豊かで楽な生活が送れるように、国全体の「何がどのように必要で、何をどのように成り立たせなければならないか」ということを、幹部の秘密主義で考えるのではなく、全員の秩序と価値観の合意の下で、みんなで考え、どのようにすべきかを議論することができるだろう。

そもそも論として、「何をすべきか」よりも、「どのようにそれをするか」のような「方法」や「やり方」の方が重要なことはある。ソ連は、階層を無くし、平等なみんなの国にする、という理想は間違っていなかった。だが、そのために「どのようなやり方で実現するか」ということが間違っていた。だが、セカオワが言うように、本当は方法だけを考えていては、見えてこない部分もある。きちんと、「何が目的か」を明確にして考えなければならない。逆に、何が目的かを考えれば考えるほど、それをどのようなやり方でやっていくかが重要であるか、ということが良く分かる。ソ連には、そういう発想がなかった。平等にするために、敵を殺し、どのような手段で自分たちが力を持ち、その力に人民を従え、権力を維持できるか、という「革命的なやり方」しか分からなかった。それでは、目的が理想であっても、決して結果は良いものにならない。目的よりも、方法ややり方の方が重要であることはあるのである。民主主義は、最初から間違った方法を取らず、金銭的な市場原理にするが、その市場原理は善良で、社会主義よりも公平なやり方であった。結果、社会も善良で公平な社会になった。そのように、やり方さえ変えてしまえば、革命後の社会も上手くいくのである。目的や理想は権力や変革の「原動力」となるが、その結果である社会を体現するのは、むしろ「やり方」である。

理想や目的は心を決めるが、やり方や手段は現実の社会を決める。それは、やっている、という状態そのものが人間であり、その目的は単なる心が作り出した幻想、もっと言えば洗脳のようなものだからである。

そもそも、平等や社会主義だけが理想ではない。民主主義や自由主義には、「機会を与える」とか「手段は自由に売買される」という良い点がある。だが、ここで問題なのは、そうした国民的な普通だけが資本主義ではない、ということである。資本主義は、もっと上のレベルの人間たちを見ると、金が既にあるから金が儲けられるだけであって、そこには機会もなければ、意味や価値もない。だから、国民の平等な資産や豊かさが重要だからと言って、資本家までもが正しいわけではない。今の資本主義は、少数の資本家の資産だけで、世界の多くの富を独占している。また、国民の間でも、成功者と失敗者に分かれて、格差がどんどん広がっている。また、豊かさがあったとしても、疎外のようなものでアイデンティティを失っている。儲けている会社は、努力などせず、生産手段を独占しながら搾取だけで儲けている。

だが、だからといって、平等や社会主義だけが理想ではない。機会、手段、豊かさ、平等、自由、権利、全ての点で、自由主義は社会主義を上回っている。これは、単純に社会主義が劣っているだけではなく、ソ連とアメリカの「やり方の違い」が鮮明に出ている。アメリカの方が良いやり方をしているから、アメリカが勝っている。そして、自由主義は社会主義よりも、良いやり方をやりやすい環境にある。だから資本主義が勝っている、というだけなのである。

最近の日本を見て分かるのは、「国として団結する」というものが、少し古びた考え方になっているということである。安倍首相が成功しているのは、みんなに「これをやれ」と言われたことを、ただそのままやっているだけで、案を考えているのは自民党という政党と役所という行政である。やるべきことをただやるだけの機関が国であるとするなら、国はただ役所の言いなりになれば良いだけであって、国の体制としてまとまる必要はない。最近は、逆に、国というものを「権力」や「体制」ではなく、「よりどころ」と考える国民が増えてきた。日本だけではなく、アメリカも同じである。いつもの国、輝いていた時代、偉大だった時代に戻ろうとしているだけであって、国としての政治権力はどうでも良いものになってきている。これも、ITやインターネット社会が作った、新しい時代の問題である。国は古いが、よりどころは必要である。それが、最近の「急速な保守化」に繋がっているのだと思う。よりどころを無くした資本主義の国民は、社会主義を受け入れることは出来ないが、保守の政治家に昔の時代を重ね合わせ、国の体制を保守で変えようとする。これは、決して悪でもなければ、滅びでもないのである。

本当は、国を変えたりソビエトにしたりする必要は全くない。全員に、やりがいとアイデンティティのある仕事を与えれば良いのである。そして、そのためには、良い仕事を与えるよりも、色んなことが出来る「余裕とゆとり」を与えれば良い。そして、仕事量を少なくし、みんなで負担を分かち合い、空いた時間でアイデンティティの満たされることが出来れば、それで満たされる。そういう意味でも、ソビエトは間違っている。強制労働で平等になっても、それは何のアイデンティティもない。革命思想を強制されるのは、やりがいやいきがいとは違う。僕は、そういう意味で、「本当の自由」を与えるためには、それぞれが何をすれば良いのかを見出す必要があると思う。それは「目覚め」であって、決して「革命」ではない。体制の変革などは必要なく、実生活の中での目覚めと悟りへの驚きが必要なのである。そう、必要なのは左翼や右翼の危険思想よりも、哲学や宗教であると言えるだろう。

僕は、今のネット社会の問題は、「リアリティの欠如」だと思う。ネットとリアルが融和し、ネットの仮想現実の世界に飲みこまれ、ごちゃ混ぜにされていく中で、昔から日本という国や社会にあった、リアリティがなくなっている。中島みゆきが言うように、見るべきは空ではなく地上である。

自分に欠けているのは、「自尊心」ではないかと思う。自分を尊ぶ気持ちが足りない。横文字で言えば、「プライド」である。プライドとリアリティを取り戻せば、この世界は正常になるだろう。

ただし、自分は何もせず批判しているだけであるわけではない。自分は、戦いを賛美するのもおかしいかもしれないが、勇敢に戦い、最後まで諦めずにやりきったところがある。勇敢に、最後まで戦ったのである。これは哲学者や文学者や聖職者に見えて、本当は兵士である。

そして、世界は今、死ぬ。僕は、本当は全体主義や独裁者が嫌いである。自由とは言うが、帝国のような自由は好まない。絶対的支配者は、批判されるべきだと信じている。絶対に、批判や民主主義的な民意の反映がなければ、政治や社会は正常化しないと信じている。民主主義的な民意を示して批判すること。それが出来ない自民党のような政党に、未来はないだろう。

僕が思うに、もう、「国」というものをかかえて生きる社会は止めるべきである。国などというものは、もう必要ない。金も、儲けて景気を良くすることを、株価のアップダウンだけで判断する馬鹿な経済は止めるべきである。必要なのは、対話、オープン、そして純真な心である。それがあった上で、初めて共同体の平等が生まれる。国も、金も、株価もない世界で、平等な世界を作ってみれば良い。

ネットの次は、顔の見えるネットワークではないかと思う。今、Facebookでは、実名の友達と遊ぶことは出来ても、それは多くが文字とリンクによるコミュニケーションである。顔を出すコミュニケーションが出来れば良い。

今から、日本を僕が滅ぼす。日本は、一度、「絶対に全体主義にならない国」になる。憲法で定めるわけでも、革命を起こすわけでもない。僕が勝手に、心理学と教え導くことを行うことで、この世界は「絶対に全体主義にならない」ものになる。全体主義を否定し、民主主義、特に個人の自由をもっと引き延ばす自由を与えることで、この世界は新しい世界になるだろう。その王は僕である。

だからといって、左翼にするわけではないことを言っておきたい。ソビエトのような悪い国や思想は、一度白紙にしてゼロから考えるべきである。僕は、この世界がどうであるか、何が出来るか、ということを、「今までの自分が生きてきた人生」から全て知っている。救世主も戦争も全てを経験した僕の力で、何が出来るかを考えよう。それは、「機械的な便利さよりも、体験的な人生の構築」を取ることで生まれるものであるかもしれない。機械がいくら賢くなっても、それは単なる道具に過ぎない。必要なのは、その機械でどのような「実現」が生まれるか、という「目的」であると僕は思う。それこそ、それはそのまま、宗教にはなるだろう。神を信じて戦えば、偉大な経験はできるだろう。だが、神を信じて終わりでは、この現実世界が存在する意味がない。この現実世界で何が出来るかを考えた時に、ワルキューレのような天使がこの星の全てを創り変えていくという幻想は、つまらないちっぽけな妄想に過ぎないだろう。

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この世界に本当にあるべきものを知りなさい。知りたいと望みなさい。

この世界で、本当にあるべきものは何か、考えなさい。

この世界で、本当に考えるべきものは何かを考えなさい。どのように考えるべきかを考えなさい。

他人の言うことに縛られるな。他人の全ては参考情報に過ぎない。

在るだけでなく、どのように在るかを考えなさい。

やりたくないことは、しない方ができるようになることもある。

やりたい理由だけでなく、やりたくない理由も併せて考えなさい。そして、やりたくないことはやりたいことではないことに気付きなさい。