新・日記2に戻る | 2019年1月の日記に戻る

=2019-01-20=

昔、2000年代のWindows XPの時代、世界は初めてインターネットの世界を知って、ダイナミックな大変革を体験していた。

Web 2.0と盛んに言われ、梅田望夫が言うように、「本当の大変化はこれから始まる」と、皆、信じていた。オープンソースは、その1つの例だった。

だが、僕が愛を与え、自ら愛を奪ってこの世界を支配したことで、そうした世界は無くなった。僕の出現とともに、この世界は滅びた。

もう一度、世界をWeb 2.0の頃に戻そう。それが出来るのは僕しか居ない。梅田望夫が言っていた、「一億総表現社会」は、既に実現している。Facebookから、中世のソ連を変えていこう。

昔の自分が賢かったのは、そうしたダイナミックな世界の変化の中で、この世界を救うことを目指して社会を知っていたからである。誰よりも、そうしたダイナミックな世界の変化を知っていた。それを知っている僕にしか、この世界を本当にダイナミックな社会にすることはできない。

僕は、IT技術のビジネスモデルとして、「基盤的な技術は公開するが、応用的なアプリケーション技術は公開しない」というのが、一番誰からも好かれてかつ儲かると思う。

たとえば、Microsoftは.NET Coreとして.NET Frameworkの基本部分は公開したが、Visual Studioまでは公開しない。それは、.NETを公開したとしても、標準的に使われるようになった場合の「標準を握る可能性」を考えれば、元は取れると考えたからである。

AppleやGoogleも、同様の考え方をしている。DarwinやWebKitは公開するものの、Mac OS XやYouTubeなどの応用的アプリケーションやサービスまでは公開しない。

たとえば、Adobeなども、もっと「Adobe形式のファイルに対する基盤的なグラフィックス操作技術」は公開して、応用的であるPhotoshopやIllustratorは今まで通り高い金で製品を売れば良いのである。そうすれば、さまざまな会社が互換製品を作って、競合はしても技術の標準的地位を得ることができる。

だが、こうすると、Oracleが悲惨である。Oracle DBはなかなか公開できない。だから、Oracleはオープンソースが嫌いなのだと思う。Javaについても、基本となるJavaはオープンソースにして、応用的なアプリケーション技術を非公開にして売れば良い。オープンなJavaが流行れば流行るほど、Java製品が売れるようになる。だが、Javaは既にオープン技術だけでほとんどが利用できるため、このモデルは成功しないかもしれない。だが、基盤を公開すれば標準になるのは、IBMの得意な戦略である。よって、IBMがRed Hatを買収した結果、右に転ぶか左に転ぶかは、まだ分からない。

僕は、高校に行かなかった関係から、学校教育の枠にはまった数学は知らない。だが、数学的に考えないか、数学をまったくしなかったか、というと、そんなことはない。本当は、自分は世界も知らず、学問も知らず、経験や能力も無かったため、「日本語で自分で考えること」しか出来なかった。だが、そこから、数学的な積み重ねを行い、心や環境の原理原則を解明し、この宇宙の全てを「自分独自の数学」で知った。そして、文章に書く内容も、定理や法則のような内容を全部書いて、「自由な歴史における全ての数学的定理」を証明して作っていた。

自分が、もっとも一番数学が出来た人間である。

自分は、言葉遣いを増やせば過去が思い出せるのが分かった。言葉遣いが、異常に少なくなっている。英語圏の人間にこういう人間が多い。言葉遣いを増やすことで、楽になって思い出せるようになる。

自分は、学校に行かず、受験勉強もしなかったせいで、教科書の内容を何も知らない。だが、その結果、大学の枠にはまって教育そのものを見ず、会社に入るために仕方なく努力する「今の学校教育」から外れて、「純粋に科学として」「自分だけの力で」教育を極めることが出来たと思う。今の大学は、何を目的にそんなに努力しなければならないのか、良く分かっていない。そんなものから外れて、自分なりの学校と学問を作ったのが、僕である。そして、その結果、哲学者全員を包括した後に、自分しか通れない「極めて狭い道」から、全ての知識と経験を得ることが出来た。成功は無くても、これは賢かった。神とキリストを信じる人間は、このように天使のように賢くなるのである。三位一体とは言うが、天使はいくらでも、たくさん居る。僕も天使の一人である。僕のたくらみがもし成功すれば、日本には天使しか居ない国になるだろう。僕は自分を増やすだけ、自分の分かったことを残すだけ、自分のできたことが誰にでも同じようにできるようにするだけの、詩人である。

昔は哲学者だった。自分なりの数学を作って、心を解明し、自分で考えたことだけでこの世界にある全てのことが分かった。全ての経験を持ち、全ての思考をしていた。そして、いつもの文章は、全てを悟った上で、この宇宙に存在する全ての現象、定理、歴史、法則、そして環境と人生を包括した、「宇宙全ての文章」だった。最近は、全てを失ってから思い出しただけである。それが、美しい博識の芸術家になった。悪いことは何もしていない。自分のために頑張り、自分のできたことを与え、自分を残し、世界を次なる時代と新しい星の秩序に作り変えただけである。これが在導万創、またの名をガブリエルである。

数学とは言うが、本当は中学数学の理性にITの世界観を付け足したのが賢かっただけである。高校よりも、UNIXやPerlに惹かれて引き篭もりになったのは、人生を棄てたわけではない。強くLinuxに惹かれたのも、全て、自分の数学でこの星を変えられる、そうした「ベストマッチング」がパソコンの技術にあることを、誰よりも強く自分が知っていた、それだけの人生である。結果、やくざのように全てを知りながら、世界の全てを滅ぼしても、悔いはない。あるいは、後悔さえも自分の力に変えていく。それが、このような「地獄を経験した幸福な大人」である。一度地獄を経験すると、何でもできるようになる。

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さあ、明日からも仕事が始まる。

今日は英会話の英会話教室に行って、ラーメンを食べて、それで家に帰って、日記とホームページを書いていた。

もっと、人物画の構図の勉強をしたい。構図が分かれば、僕でもきちんとしたイラストが描けるような気がする。

これ以上、何も望んでいない。それでも、新しいことはたくさんやりたい。

あとは、頑張って練習と勉強と仕事を重ねるだけである。

ただし、僕は英会話についても、徐々に上達している気がする。外国人の講師の言っていることが、少しずつ分かるようになってきている。話すのは適当だが、それでも伝わるように話せるようになってきた。

そして、僕はパソコンやプログラミングに関することはもうしたくない。パソコンは賢くなかった。やるのであれば、もっと純粋な数学のようなことをやりたいと思っている。父親が「三角関数」について自分に教えたがっている。下手な本を読むよりも、元科学館学芸員の父親の考えた数学について習った方が有用だろう。

ただ、僕はもう大学のことは、特に文系科目についてはしたくないと思っている。特に、歴史に関することはもう、十分である。やるのであれば、理系の科目について学びたい。

自分は、全く賢くない人間である。センター試験の問題を見ても、さっぱり分からない。高校にすら行かなかった僕だが、Linuxのことは適当に知っている。だから、もう少し趣向を変えて、パソコン以外のことで、Linuxのような存在を作れたら良いと思う。音楽についてでもいいし、美術についてでも良い。だが、文学は嫌だ。これ以上、本を読みたくない。言葉で知るよりも、自分で実際に何かをやりたい。そう思う。