昔は、世界の人々に対する受容と愛の慈悲の心があった。場の意識や自然な実感と言っても、それは全て、過去の自分の環境に居た、子供たちや、さまざまなつき合い方をした大人たちに対する、救いと学びの精神だった。人々のことを、「どんな相手であろうと、学べることはある」と考え、この世界全ての問題の原因を、自分の行動や行為に求めた。
最近は、無くなった世界のことを誰も覚えていない。パソコンと僕のおかげで、この世界にはさまざまなものがあったのが、無くなっている。だから、それを思い出せば治る。
最近、平成の時代も終わるということで、平成の名曲を聴いていて、浜崎あゆみにハマっている。今聴くと、とても印象的で素敵な音楽性をしている。浜崎を聴いていると、昔の時代が思い出せる。昔は力と愛があったし、正常な精神をしていた。
この世界における、「正しい世界のあるべき姿」を考えることを、僕の最後の宿題にしたい。そんなに自分と同じにしても、そんなに悪を信じても、この世界は良くならない。この世界のあるべき姿を考えること。それは、浜崎あゆみが歌っていた内容から、知ったことである。
また、可能性を考えること。昔の自分は、可能性から現実のさまざまな場所と時間のあり方を考えて、人生と発想のことを分かっていた。可能性を学校の数学のように積み重ねていくことで、全てが変えられるようになった。また、何が何から生まれるか、「発生の考え方」と「還元性(そこから始まったことが、さまざまなやりとりの上で、そこに戻っていくこと)」から、考え方を分かっていた。
自分が何もしなければ、この世界は自分と同じことができるようになる。また、自分が何もしなければ、この世界は自分と同じでないことが出来るようになる。必要なのは、何かをすることではなく、何もしないことである。
分からない方が良い。分かってしまうと、人間は何もしなくなる。子供が青春を経験するのは、分からないからである。そして、一度青春を経験した大人は、もう分かっているせいで、何もしなくなる。何かを知ったり、分かったりすることは、分からない人間にとっては良いことだが、本当は必要ない。何も知らず、何も分からなくても、人間は幸福な「自分だけの人生」を生きることはできる。
自分だけになった方が良い。多重人格になっているように見えて、本当は「みんなになってみんなが話している」だけである。自分をみんなにして、みんなを自分にする、というおかしなことをいつまでもやっている。それをやめて、自分だけになれば、たとえ狂っていても、人間は傷つかず、疲れず、平和で幸福になれる。
また、途中からひとつひとつ始めていけば良い。一気に最初から最後までを貫きとおそうとするから、辛く苦しい頭になっている。頭を休めるためには、一度、全てを消して、最初の「スタートライン」を作ることである。そのためには、最初からとか最後からではなく、ただ、途中から始めていけば良い。
自分は、学校と仕事しかない世界で、自由に生きただけであり、本当はパソコンに生きただけである。パソコンの他には、宗教や大学のようなものしかなかった。そもそも、何もない世界である。
本当は、大学、パソコン、宗教をやってしまうと、もう、そろそろ意味はない。この世界には、他には青春と数学者と子供と戦争と革命と王と子供の学校と学者博士ぐらいしかない。それらを、全部やっただけである。そう、僕はそれだけである。
良く考えると、自分は何も出来ない人間である。デザイナーの夢を諦めるよりも、本当にすべきことは、自分の道を信じて「きちんと人生を生きること」である。今からきちんと生きれば良い。それなら、諦めたことにはならないだろう。これが「未来」である。
今から、この世界を、「何も出来ない世界」ではない世界にする。それによって、僕でない人生もできるし、僕と同じことを同じようにやることもきっと可能になる。最高の世界よりも、「本来あるべき世界は何か」を、浜崎あゆみに教えてもらったように、人々にこの場所から僕が伝えていこう。