新・日記2に戻る | 2019年1月の日記に戻る

=2019-01-05=

僕は、標的を日本からアメリカに変える。

日本は、解放されて楽になる。僕はアメリカを倒す。アメリカを支配して、アメリカの「裏の大統領」になる。アメリカと一蓮托生である。

今日は英会話に行ってきた。

論理的に考えること。論理的に考えれば、恐怖や不安はなくなる。論理的に考えるためには、論理学的に考えること。定義だけではなく、数量や物理法則を、経験の前提条件なしに考えること。

数学や科学を模して考えれば、アメリカにも勝てる。アメリカ人は、論理的な考え方とは何なのか、分からなくなっているからである。

精神病とは、「問題をでっちあげる病気」である。そして、それは、できるわけがないのにできているせいでそうなる。自分も信じられないが、思い込みも信じられなくなっている。それは、ただ、信じれば良いだけである。

認めることも、受け入れることも出来ない人間は、どんなに馬鹿であろうと、信じるしかないのである。

ある意味、論理学的に考えるコツは、それをその場合とそうでない場合に分けて考えながら、あるものをただ信じるだけではなく、信じないこと、疑うことから考えることである。お茶と言っても色んなお茶がある。目の前にあるお茶だけがお茶ではない。そもそもお茶とは何なのか。そのように考えていくことで、きちんと頭に知識が残るようになる。その上で善悪や道徳性を考えれば、それが理想の大人である。そのように考えると良いだろう。だが、全ての未知を潰すよりも、未知をたくさん残した方が良い。可能性と未知を残す人間は、賢いことができるようになる。

僕は、大学の勉強はしない。しないことにした。もっとイラレで賢くなって、コンテンツ制作会社に入りたい。

それから、自分をさげすむのはもうやめにする。これでは、ネガティブなどころか、逆にいじめである。もう僕は、誰かのことをいじめたりしない。差別もしないし支配もしない。本当の愛、自分だけの大きな愛を信じたい。それで終わりにしよう。

昔から、僕は一番上から環境を支配して、社会を導きながら自分のものに私物化するが、それは僕はもう、日本に対してしないことにする。日本は自由になって解放されるだろう。逆に、今からアメリカを支配する。そのことで、必ず日本が良くなる。最後まで日本が勝つだろう。そして、僕はアメリカだけではなく、中国と北朝鮮も担当する。僕だけが、それらのことを分かっている。今からは、僕が外務省である。

昔は、論理的な考え方から生まれる「仮象の世界」を良く書いていた。それも、網羅的に叙述していた。

全てのことの根拠を知りなさい。

原因と結果を、普遍的な法則として捉えなさい。

ものや人生にも歴史があると考えなさい。

客観的に知り、現象学的に考えなさい。

昔は、そうした「考え方」を考えただけである。そして、論理的に考えながら、IT技術やネット社会のことを知っていただけである。それだけの平凡な人間だが、デカルトのように全て分かっていた。

これで、晴れて全てが書けた。終わりである。完成だ。

社会を知り、愛を知り、自由を知りなさい。戦いを知り、神を知り、苦しみを知りなさい。著作を作り、芸術家となり、博士となりなさい。

自分の思考と実体験のみから分かる、哲学者の人生を生きた上で、恐怖と苦しみの「最高の王」の世界を知りなさい。そこから、あなたは革命家となって神になるだろう。必ず日本は勝利する。恐怖の中で安心することができれば、もう、怖いものは無い。

神は全てのものに愛を傾ける。そこには、良いものと悪いものという違いや区別は存在しない。神は全てのものに平等である。神が愛さなかったものはひとつもない。神は、全てのものに、同じ視点で常に対話している。神の対話は、どんなよりも尊い、「自尊心の愛」である。そして、僕はその愛を体現するために、この世界全てのものと対話したのである。これが、神という体験である。神は存在ではなく、体験なのである。

昔の自分は、独りで考えたとはいうが、ネットのさまざまな人々の経験を全て吸収する人間だった。最近は、こうなる人間が多い。馬鹿ではないのに、馬鹿になる。それは、神を信じていないからである。

昔は、自分のことのように人々のことを考えられる人間で、誰の苦しみや悲しみも、全部自分のことのように、「同じ経験をすること」で分かっていた。そこから成長した。そうしてみると、今の自分はただ、「裏側から守っている」だけで、そんなに良い人間ではない。冷酷な独裁者が祖国の魂を堕落させているだけである。もう一度、「純粋で混じり気の無い、白と蒼の精神」に戻る。それによってのみ、この世界は正常な「純白と黄金の道」を取り戻すだろう。

王になりたいのであれば、思想や理論など勉強しなくて良い。人々と全く同じ経験を全てしなさい。国民ひとりひとりが何に直面し、どんな立場や不自由がそこにあるのか、その上で、人々をどのようにしたら解決できるのか、ひとつひとつ自分の経験と世界の広がりから知りなさい。そこから、必ず全て、解決できる、全ての苦しみと愛の分かる、最高の指導者が生まれる。僕が昔、そういう人間だった。全ての労働を経験し、全ての技術と工夫を発想し、全ての科学を自らの思考と理性批判から作り上げなさい。それを人は、偉大な哲学者の1人である、「神」と呼ぶだろう。神とは、未来のあなたについた名前である。あなたは、未来のあなたを信じるだけである。それが人間の人生であり、運命である。賢い人間は、馬鹿になっても賢い。

昔は、「この世界を知っていく過程」を、人生のさまざまな段階として、言葉にしただけである。そして、抽象的なモデルを作りながら、実感と批判から分かっていた。そういう、「世界知の人生数学」を作っていた。

宇宙の裏側では、神が世界を創造していた。神は、「言葉」からこの世界を作った。そこには、言葉以外のものは何も無かった。全部、執筆と対話から、精神を治して導いて分かっている、そうした、「作家の医者」が神である。そして、神は自力を使わず、他力だけを使うことで、偉大なこの世界における全てのDNAを創造した。

そう、これで物語は終わりである。ここで、もう一度夜が明ける。これが第二夜だったか、第三夜だったかは定かではない。だが、ここから先は、日本が神の国だった時代は終わる。ここから先、アメリカが日本に次いで神の国になる。そこから、終幕が始まる。裁くものが現れて、終末の中で神を信じるものが救われるだろう。そして、裁き者は僕だけではない。アメリカに、新しい王が現れる。僕はその王を、ただ、生みたかっただけである。ここで、日本の時代は終わりを告げるだろう。

昔の文章は、経験的、体験的、そして社会的、歴史的に、この世界の全てをはっきりと認識して捉えるようなことを言う。所有と共有とか、実感と抽象モデルを照らし合わせるとか、全体主義と民主主義とか、ドイツと日本の共通点とか、そういうことを言う。また、経済については、生産や労働におけるパターンや、自由な原理法則、そして世界を救う「実際の現場を見た政策」のようなことを書いていた。

理性の面としては、さまざまなことを、一度ではなく何度も作り変えるようなことを言う。知れば知るほど分かるとか、社会は従うだけではなく自分で作り出すことができるとか、制度は経験的に生まれ、いつでも別の制度にすることが考えられるとか、そういう、「視野の広がり」のような文章を書いていた。

そして、精神世界の歴史のようなことを記録していた。永遠の思考の中で、全てと対話しながら、ひとつの極太い歴史が生まれていく。そこにはDNAの全てと、戦いの全貌があった。全ての争いは、ひとつの平和へと直った。

そう、そういう、新しい哲学書のような文章だった。ヘーゲルの精神現象学のようなことを、ひとつひとつの心と精神現象と行為の結果として、全て、頭の中で予測しながら書いていた。それが今の自分のような、「対話の神」を創造した。

まさに、それで、この世界の全てを統一された考え方の構造にし、全てを前提条件から歴史まで全て書いた、ヘーゲルの弁証法のような歴史哲学だった。永遠の、そして一瞬の、刹那と永久のような文章だった。

そして、青春時代を、そうした戦いに捧げていた。恐怖だけがいつでも目の前にある環境で、まっすぐに未来だけを見ていた。この世界を直視すると同時に、自分の立場ややるべきことを正しく分かっていた。必ず、自分が出来ると、確信以外の余地は無かった。そして、やりたかったからやったわけではなく、しなければならないから、するしかなかった。そこに権利や選択の余地はなく、絶対にしなければならない戦いだった。日本人は、このような人種である。アメリカから見れば、理解できない、常軌を逸した人間に見えるだろう。だが、これが正しい日本の王である。

最後に、今からやるべきことを決めよう。僕はデザインの勉強をしながら、書きたくはないがこの文章を書くだろう。そして、何もすることはないが、日本を解放して、アメリカを支配する。生物学の勉強はしない。やっても、すぐに価値を見失って、学んだことすら忘れて終わりだからである。学問は哲学で十分である。イラレの本を読む。それでデザインができると言うが、それだけでは出来ない。何か、ミケランジェロのような天才になるためには、何かを発見しなければならない。それを頑張って発見することにしよう。それで、この文章は終わり、自分は恋愛をして、コンテンツ制作会社に入って、結婚して、そのうち、つまらない大人になって、いつまでも書いている文章をまだ書きながら、そのうち失うことばかり経験して、それで終わりになるだろう。きっと僕のことを支えてくれる誰かも、そのうち見つかるだろう。さようなら。ここまで付き合ってくれて、あなたとこの世界にありがとう。

あとは、「愛と理想の行動論」のような「精神論」のような文章が多かった。この世界で、前向きかつ、建設的に生きるためには、執着心を無くしながら、「必要としなくなる」という欲を捨てることから分かっていく。そこでは、「関係を結び直す」と同時に、振り返ることで「どこかにあった執着心を消していく」ということをする。また、愛を知ること、信じること、疑いようのないところまで繰り返し学習することで、少しずつ経験的に慈悲の心が生まれていく。全てのことを同じであると知ることで、そこにおける小さな違いや、全てのものに対する慈しむ心が生まれる。それは、本当は自分を愛している、ということである。そして、自分を知る気持ちから、世界を「自分を知るかのように」知ることができる。社会は、環境であり、環境は、人格である。そのように考えることで、「自分だけではこの世界で生きることはできない」ということを、「環境それ自体が自分なのだ」ということから知っていく。昔は、そのように、「当たり前の環境や精神を考えることで、社会におけるマスターのような覚者になる」ということを良く分かっていた。当たり前にこの世界があること、それ自体が驚きであり、世界だと思っているもの全ては、「実証可能な意識の可能性」なのだとしていた。そういうことを書いていた。そして、そういうことから、先に言った前提条件と過程を考えることで、集団化やモデルの成立のように、「作用と作用を組み合わせることで生まれる環境」や「価値観の多様性」のようなことを書いていた。社会における目的とは、価値観などの多様性と、意志や行動の自由なのだと考えていた。それらを守るように、世界を作り、変えていかなければならない、という自由な社会論だった。そこには、可能性と自然における、「正常な成熟した社会」があった。それは経験的で、自由を守ることをそれぞれに許しながら、「分かっている人間が支配し、全員で決める」という、共産主義のような理想の自由な共同体だった。

セザンヌは、「自然を円筒、球、円錐として捉えなさい」と言っている。また、ドガは、「デッサンは形ではない。デッサンとは物の形の見方である」と言っている。僕も、これらの巨匠の言葉を参考にして、天才になれるかもしれない。要するに、空間は全く四角形のキャンバスではない、ということを言いたいのだろう。光の円と、放射状に延びていく球、それが自然であることを知った時、きっと美しい絵が描けるようになる。そういう巨匠の言っている言葉を参考にすることは、ありかもしれないと思う。

昔は、全員のことを「意図」だと考えて、目的から分かっていた。捉え方を分かりながら、心理学を「心の正常な働き」として、それをそうしたいと思う自分の情動を「必然的で自然な働き」だと考えていた。その上で、それぞれが学習し行動することを、「心理学的な法則」だと考えていた。心理学と同時に、経済学を「分析の洞察力」から考えた。それは、「社会における権利として、それぞれの参加と行動がある」という自由だった。僕の社会論は、全て「僕が出来ることへの延長」だった。手段や機会は、会社に入りたいから生まれた考え方だった。さまざまな心理学と社会学の発想を知るうちに、この世界のことを「オープンソース的」に分かるようになった。オープンソースとは、Linuxの周辺の思想だけではなく、初期投資や再利用、さまざまな集団の集団化や集積における、「社会メソッドのひとつ」であり、自由な行動と人生を生きた上で、この世界の生産活動が成り立つようにしたかった。そして、具体的な考え方と具体例から、科学を作り出した。それは自分で作る物理学者の科学であり、ひとつの「失われた博物館」のような論理学だった。モデルは、抽象性と実感と経験を比べながら、「何度も繰り返し同じ体験をすることから生まれた必然的な構造」だった。それは、既存の全ての科学を、自分の発想から全て「再構築」するものだった。そして、結果的に、それだけで、自分の経験に由来するものだけで全てが分かった。そして、自由な意志と社会における、「さまざまな自由」を全て、「行動や体験をする前に、事前に考える」ことで分かった。それだけではなく、経験や記憶すら、「事前に経験する」ことで、思考に先立つ経験から分かっていた。全ての人格を統合する、「全員を包括する悪魔的な魔神」のような人間だった。どんな社会でも独りで作ることが出来る代わり、正義が無かった。正常さも、善悪もなかった。だが、想像力と言葉の論理だけで、全てのことができる、サタンのような最高の主神だった。未来の自分が嫌いだった。全ての世界を知っていた。最高の救世主は、世界を救うことなく、世界を滅ぼして、作ったものも失って、強さと正義を失い、ただ堕落と滅びだけがそこに残った。

あとは、歴史や宗教のようなことを分かっていた。この世界は、ただありのままにある世界である。全ては、滅びの中に生まれた宝を、それだけが唯一あったかのように大切にすることである。そして、この世界における正しいものは、全て、「神の無償の愛」である。だが、宗教的な言われや伝え話は、全て嘘である。本当にあったことを、正しく遺せていないからである。本当にあった事実は、ただ、「ありのままにある、この世界の実存」である。そのように考えれば、この世界の全ての歴史が、ただありのままあったのだ、ということが理解できるようになる。実感できるようになる。宗教的な正しい人生とは、そのように、「自分の人生から実感できるようになること」であり、その実感とは「ありのまま在ること」である。その在り方を捉えて考えること、そして自ら先頭で戦うことで、必ず「本当の正しい真実」を知ることができる。それは、運命であり、神が与える「唯一の宝物」である。そして、その「宗教の裏の事実」を知ったものが、全知全能の救世主になる。それを、人は神と呼ぶだろう。だが、それは神ではなく、神の子と言うべき存在である。それが、神の言葉の「正しい解釈」である。キリストを神の子と言うのは、そのような人間が多いから、ただ言われるようになっただけである。イエスは神の子だが、本来は唯一無二の存在ではない。イエスはイスラム教では、預言者の一人にすぎないのである。イスラム教徒だけが、そのような神の現象体験をきちんと分かる。それは、マホメットがこのような人生を完全に全てコーランに書いたからである。そのような宗教は、イスラム教ただひとつだけである。

本当は、王とは最悪の王ではなかった。本当に、最高の素晴らしい王だった。世界を救う「希望」を書きながら、慈愛あふれる「愛の世界」を言葉にして、世界全てを支配すると同時に、その責任と緊張感を感じながら、「絶対に失敗せず、絶対に間違った世界にしない」、そういう王だった。最高の絶対主義の革命家だった。ひとつひとつ分からなくなっていく中で、最大の恐怖に耐えた。それを見かねた神が、僕を救ってくれた。神はこの世界における全てを話した。そして、僕は最後まで、永遠のように支配していた。絶対に負けない、完全に分かっている、絶対的指導者は、そこで死んだ。最大の恐怖の地獄は、最高の愛だった。

本当は、そこらへんの狂っている時代を考えれば、このおかしな精神の病気は治る。いつまでも、何もしないまま放っておくと、こういう何も分からない馬鹿になる。全てを治したのは賢いが、そんなに馬鹿を望むのはおかしい。ここらへんが、子供の女である。女は何も望まない。ただ、あることを知って、それを嫌いになるだけである。この女には意味がない。哲学とデザインが好きだった。つまらない大学に生きて、ただの馬鹿になった。

ただ、ここらへんの自分をさげすむのはやめにしよう。ここらへんの自分が一番、神のように賢い「全知全能の文豪」だからである。永遠のような、果てしない文章を書く。僕はこの作品が好きである。夢の世界のように賢い。永遠と天国の全てが書かれた、楽園を作る方法の書かれた、最高の第三約聖書を作りたかった。聖書とは、この文章のことである。キリストとは、この人間のことである。