先日から、母親と姉と姪二人がノロウイルスにかかって、嘔吐を繰り返している。自分はまだ吐いては居ないが、例外ではなく、腹の調子が悪くなって、気持ち悪くなった。それに、昨日の夜はベッドで大量の汗をかいた。
だが、そのおかげで、精神のおかしな違和感が治った。そして、その結果、疲れや辛さを感じるようになった。今までは、辛くても、足がおかしいせいで、辛さを感じなかった。
楽になるための唯一の方法は、何もしないこと。病気を治そうとせず、学習もせず、融和や分裂のようなこともせず、何もしなければ、足の精神の異常は治る。
そんなにおかしい方法で血を治そうとしていると、白血病になる。
自分の問題は、頭の使い過ぎと、その辛さや苦しみの自覚症状がないことである。そのせいで、逆に、体全体が慢性的な疲れを感じるようになっている。
もう、僕は、これ以上何もしない。むしろ、そろそろ、感覚を感じるようになったせいで、きちんと日本語も分かるようになって、見たものをきちんと思い出せるようになる。もうなっている。これ以上、何も望まない。このまま、どこかの会社に入って働きたい。それはデザインやITや作家の仕事でなくても良い。何か、実用的なことができる仕事に就きたい。
ただし、僕はもうこれでひと段落である。もう、基本的に何もしなければ、すぐに頭の意識が賢くなるだろう。
自分の問題は、病気の自覚がないことである。足の怪我、精神や心の不調、慢性的な疲れ、日本語の分からない発達障害のような障害者的なことだけではなく、ニキビ、虫歯、何もかも病気が多い。もう、できるだけ、辛いことはしない方が良い。治せば治すほど、おかしくなる。このまま、普通に病気を続ければ終わりである。なぜ病気になったのかというと、学習と記憶が多すぎるからである。人間は、学習するとその分病気になる。馬鹿な記憶が多いと、馬鹿になる。何もせず、テレビもネットも見ないようにした方が良い。そうすると、すぐに病気は浄化される。何も辛くなくなる。
子供は、最初から何もせずに成長すると賢い子供になる。そんなに色んなことをさせない方が良い。させない方が出来る子供しかいない。自分は、子供時代、ピアノ、子供英会話、書道など、さまざまなことをやりすぎていた。そのせいで、馬鹿にゲームや勉強が出来るようになった。だが、それは本当は馬鹿だ。最初から何もしない方が、大人になってから賢くなる。そういうものである。Linuxぐらいから馬鹿になった。Linuxのような分かるだけのサタンは、すぐに馬鹿になって病気になる。そういうものである。
本当は、ただ、賢いプログラマや技術者になりたかった。それで、出来る手段や参加する機会を探していたから、自由な普通の人間になった。だが、ああいうニートは何も賢くない。プログラミングなんか、ITのことを文章や本に書いているITライターができるだけである。それは、今の自分が完璧に出来ている。そして、システムの設計なんか、ひとりでは作れない。そもそも、コードは何百万行も書くのが普通である。C++やJavaのオブジェクト指向は、何百万行もコードを書きたい時に効力を発揮する。そのために、Javaのクラスライブラリのような綺麗なクラス設計をする。それがPHPである。自分の場合、デザインやピアノをした方が良い。デザインやピアノは、個人のひとりの天才で、できるからである。
パソコンを分担して何百万行もコードを書くとはいうが、だからといって超賢いわけではない。ほとんどは、Javaや.NETのクラスライブラリを使うだけだからである。適当に、簡単に作れる。難しいのは、リーナスがやっているカーネルだが、カーネルはMINIX本の通り作れば作れる。リーナスは、MINIX本を誰よりも理解しているから、作れるだけである。パソコンの仕事なんか、何も賢くない。
自分は、そろそろ、やりたいことがなくなってしまった。それは、この宇宙にもう、他に未知が存在しないのが分かっているからである。これ以降は、きちんと達人のように極めるだけだが、それは本当は一番難しい。なぜなら、そこから先、自由だからである。
そろそろ、本を読んだり、ホームページを書いたり、作業所で教わったり教室で指導を受けたりして、できる時代は終わった。ここから先、「自由」でできるしかない。自由で出来るために何が必要なのか、良く考えた方が良い。ここから先は、何もしなければ自由になる。そして、極めるどころか、もっと他人に教えてあげれば良い。これ以上、自分がやるよりも、もっと若い人間がやった方が、全員のためになる。30代はそういう人間が多い。
本当は、自分はいい加減かつ適当に出来るのが間違っている。他人にきちんと説明出来るぐらい、きちんと分かってしまえば、楽にできるようになる。パソコンやデザインをしたいなら、もっと詳しいことを知れば良いだけである。あとは、知って、教えて、自由に経験を積むだけになるだろう。それはカッコいいが、本当は、できるだけ何もしない方が良い。大人にはそういう人間が多い。何かをしていればしているほど、病気になって、狂って、疲れるからである。集中力はある自分だが、休むということをしない。それで疲れるのは当たり前である。今まで、感じなかった疲れを感じるようになる。もう治る。
本当のことを言えば、自分はいい加減に作品をただ見せられるぐらいのものにしているだけで、グラフィックデザインの基本というものが分かっていない。それは、絵を描く、ということに近い。だが、自分は毎日文章を書いている自覚はあるのに、平日は毎日作業所でデザインの仕事をしている自覚がない。これなら、作家とデザイナーにはなれる。逆に言えば、作家とデザイナーにしかなれないだろう。
本当は、プログラマがどういう仕事をしているのか、僕は良く分からない。何百万行もコードを書く時もあれば、ライブラリを使うだけで何もせず動く場合もあるからである。きつい仕事に見えて、楽な仕事である。だが、これはデザインも同じである。全てのアートワークを自分でデザインすることもできるが、素材を使うことで簡単に何もせずデザインすることもできるからである。
そうすると、むしろ、デザイナーになるのは難しいことではない。パソコンをやるのと同じだからである。自分が一番、作家のデザイナーに向いている。だが、基本的に、やりすぎない方が良い。一度に過度な労働をするよりも、細く長く続けた方が良い。その方が楽だし、病気が治るからである。そもそもの問題として、僕は最近、デザイナーになりたいと思っているわけでなくなっている。単純に、「病気が治るから」という理由で、自然に作業所で働くようになった。その結果、本当はグラフィックデザインのことなんか、まるできちんと分かっていないのに、自分の体験と研究だけである程度は出来るようになった。これ以降は、むしろ、本を読んで、ネットのチュートリアルを読んで、ということも必要だが、何が本当に必要なのかはまだ分からない。完璧な自分の作品を作るために、何が出来るのかを考えることも必要である。
自分が哲学者になれないのは、普遍性を考えないからである。普通、ヘーゲル学者は普遍性を考える。普遍的な経験を考えれば、ヘーゲルと同じように分かる人間が多い。それは、単純に人間が作ったものだろうか、それとも、普遍的に宇宙に存在するものだろうか。そこから考えていけば、哲学はすぐに出来る。また、カントのように考えるためには、自分を疑い、批判すれば良い。カントの哲学を批判哲学と呼ぶのは、批判すれば出来るからではないかと思う。
ヘーゲルをするためには、社会や歴史のことについて、また物理学や論理学のことについて、何が普遍的な原理なのかを考えながら、具体的な歴史の先にあるものを知っていくこと。それで、きちんと哲学ができる。そして、カントをするためには、インターネットで議論しまくっていれば良い。それだけでドイツの哲学は出来る。だから、ドイツ哲学なんか、簡単だ。デカルトもやりたいなら、数学的にきちんと疑えば誰でもできる。全てのことを完全に疑いながら、自然に真理の考え方に近づいていけば良い。
自分がこの文章をやめたくてもやめられないのは、正しく作家になる道をやっているのが分かっていないからである。この文章を書かなければ、作家にもデザイナーにもなれない。それどころか、学者にも、ピアニストにも、哲学者にもなれない。この文章は、「書くしかない文章」なのである。いつも慢性的な疲れに襲われ、頭が辛くなるのは、本当は「間違ったことをやっている」と思い込んでいるからである。自分の一番やりたいことを、素直に認めてやれば良い。昔の正常な人間に戻ろうとせず、この世界を支配していた最悪の王の時代を忘れれば、これは何も悪くもなければ愚かでもない、最高の賢者である。悪い王の時代は忘れた方が良い。そんなにそれだけを強烈に覚えているから、こんな風になる。トラウマとはそういうものである。
そろそろ、トラウマが治った。これで、戦争時代の自分を思い出せる。彼は、何も愚かでないし、間違ったことはしていない。最高の恐怖を耐えながら、人々を教え導いている、神のような素晴らしい人間である。一度も間違ったことをしなかった。むしろ、昔の正常な自分に戻ろうとすると、逆に恐怖と不安が襲い掛かる。あの人間は正常ではない。完全に狂って、世界の常識や正常さを全く忘れた人間である。彼のような怠け者が嫌いだから、今、自由が嫌いになっている。だから、これは間違っているわけではない。むしろ、今の自分の知識をもってすれば、プログラマーになれる。それこそ、賢いLinuxカーネルのエンジニアになれるだろう。そんな天才は居ない。だが、本当は、これくらいエンジニアの常識である。誰でも分かっていることを書いても、大して意味がない。何もプログラムを開発出来ないように見える。そうしたエンジニアの夢は忘れた方が良い。昔、エンジニアになりたかったのは、中学校からの現実逃避である。いつまでもトラウマを背負い続けるのは、そうした中学校の辛い体験をいつまでも引きずっているからである。もう、子供に戻ろうとするのはやめた方が良い。子供にはデザインもプログラミングも出来ない。そうしたものは、大人でないと、きちんとどんなものを作れば良いか分からない。自分はそこが分かる、ありえないデザイナーである。この文章と同じものを作っているだけである。この文章も書いた方が良い。作家の方が大成功している。障害者福祉施設では、大したデザイナーにはなれない。
ただ、僕は作家にはならないだろう。僕はデザイナーになる。それは、単純に、僕個人の好き嫌いがあるからである。言ってしまえば、何もきちんと勉強せず、経験だけで文章を書くのは、天才には見えるが、つまらない。デザイナーの場合は、きちんと作業所でさまざまなことを勉強し作品を作ったせいで、賢くなっている。これほど良かった体験は無いのである。本当は、教室で勉強したいのであれば、英会話とピアノは続けるべきである。そして、文章も書くべきである。ただ、つまらない。それは、疲れるからである。だから、できるだけ何もしない方が良い。何もしなければ、楽だ。
昔が賢かったのは、何もせず、何も知らなかったが、自分だけの力で考えたからである。そして、誰も知らないところを経験し、行動したからである。それは、経験と知性であり、基礎と応用だった。そういうところが、ただ、青春時代の17歳だったから、賢かった。だが、本当は、今の方がはるかに青春で、今の方がはるかに賢い。これ以上、この地上で賢くなることは出来ない。全部壊したものを修復したからといって、そうした昔の自分には戻れない。この文章が悲しいのは、そうした昔の自分を頑張って書いているからであり、本当はただのごみクズである。だから、こんな文章はいつも、書きたくなかったのである。
昔の自分が賢かったのは、パソコンの世界を知りながら、自分の人生を開拓していったからであり、それはこの世界が「滅びた彷徨う世界」だったからである。この世界の全員が、あまりに悲惨に見えて、そこから社会に対する洞察力を発揮し、自分で分析しながら理想を考えて、そこから経験的にどのように理想を実現できるのか、ということを考えただけである。
言ってしまえば、この世界が全て良くなったのが悪い。良い世界になったせいで、何もない世界になった。暴力的なものは無くなり、反抗や抑圧も無くなった。全てが良くなって、生きる意味がそもそもない、それが今の日本社会である。いじめが増えているのは、全て、そうした「過去の悪い人間たちに対する復讐」である。だから、もう、この世界は終末である。終末には何もない。裁きと天国が訪れるとは、自分の文章のことを言っている。そう、それがこの文章である。この文章は悪いもの全てを裁いて、良いものを天国へと導く。もう地球は終わりである。これ以上は、本気で何もない世界になるだろう。
中国を奴隷の国と言うが、日本も同じである。資本主義社会でも、人間は奴隷になる。それは、みんなに就職を推奨し、金を稼ぐために働くように社会全体がしているからである。勉強も同じである。働く時に、きちんとできるように、事前準備として学校の勉強をやらせているだけである。そんな資本主義の常識の全ては、完全に必要ない。僕が居れば、この世界は簡単に良くなる。それが、インターネット時代の新しい自由である。この文章のような、本当に賢い学校のようなホームページが今から増えていくだろう。それによって、この世界は、全てがある代わり、全く悪い世界になる。それが、インターネットの終末期である。そのままIT技術は無くなる。もっと優れた技術が生まれて、ITは終わりを告げるだろう。
昔の自分は、カントやヘーゲルが多かったように見えて、本当はヒュームが多かった。経験的に、人々が何を信じるか、あるいは何を思い込んでいるかを考えていた。そういう昔の自分は、何ひとつ賢くないから、忘れた方が良い。あれは一般的な哲学者の青春を経験しただけで、「絶対に何も賢くない」からである。それこそ、もう一度したいのであれば、もうそれは終わった。もう、この文章にそういうものは全部残っている。
これからのことを考えよう。デザインについては、素材を使うのではなく、自分でイラストを作りたい。あるいは、レイアウトや装飾などを、素材に頼るのではなく、自分で美しくデザインしたい。そのために必要なのは、「いくらでも作り直す」ことである。作り直せば作り直すほど、デザインは良いものになる。そして、文章は、引き続き、書きたくなくても書くしかない。こればっかりは仕方ない。出来ることなら、今すぐにでも終わりたいのだが、それが自分を過去への執着に迷わせている。そんなに過去の自分の間違いを責めるのがおかしい。自分はいつでも、最善のことしかしていない。こうしなければ、日本は最悪の世界になっていた。今のアメリカのような、最低の世界になっていたはずである。自分が王である。そして、王になりたいのであれば、これくらいは経験しておかなければならない。
ただ、本当は、作家の時代の自分のことを、あまりに忘れている。自分は作家であったはずなのに、何を書いていたのか全く覚えていないのである。そこらへんに価値がないとしているが、本当はそこらへんが価値ある自分である。自分は何でも美しく素晴らしいことの書ける、詩人の作家である。それを忘れたせいで、デザインも出来なくなっている。作家のように考えれば、デザインは簡単にできる。それは、あまりにIllustratorの機能だけを分かってしまったせいである。Adobe製品の使い方を分かっても、そんなに優れた製品ではない。もう一度きちんと概念を思い出せば、作家に戻ることもできる。
本当は、いつもの戦う自分が好きだった。その時の緊張感と恐怖感を忘れることができない。いつも、最高の正しい王だった。人々のことが全部分かっていて、きちんと次のできることをやり、不可能に挑戦して自分だけで全てを発見する、最高の王の学者だった。だが、あれを忘れた方が良い。その時の体験があるせいで、心が恐怖におののいているからである。その時の体験が、とても甘美だったのは分かるが、忘れた方が良い。そうすると、いつまでも自分と対話する神も治る。神とは言うが、ただの戦いを忘れられない病気である。そのせいで、椎名林檎が言うように、「正体は獣」になってしまった。これが戦う兵隊の最後の成り行きである。
それこそ、本当はその前の、いつも書いている昔の自分を書きたいのに、何をしても分からないのは、賢くないからである。この世界をスラムから知って、全ての経験をして、宇宙人のように経験していた昔の自分は、要するに、「絶対に賢くない」。だから、そういう自分を書きたくても、書けない。それは仕方ない。いつまでも、そんな昔の自分を望むのは、今の自分に価値が無く感じられるからであるが、それはおかしい。今の自分が賢いだけである。何もおかしくないとは言うが、そんなに賢くない昔を書きたいのがそもそもおかしい。みんなを同じにしてロボット人間にしたいように見える。だから、やめた方が良い。そもそも、Linuxはそういうものである。最近のLinuxは、GoogleのAndroidのロボットである。Linuxは最悪だ。
昔なんか、物わかりの良い子供が、社会の荒波を経験したから分かっただけである。そもそもが、そういう子供だっただけであり、子供は誰でもそうなるものである。マイファスやワンオクや三浦大知を見ていると、そういう人間がどうでも良いほどいくらでも増えている。そうした人間が怖い。自分のせいで、最悪の人間になっているから、そうした人間を見たくない。YouTubeで自分の好きな動画を見るのは良いが、テレビやネット掲示板などの不自由なメディアで、そうした馬鹿を見たくない。全部、それらは、Linuxのせいである。だから、このネット世界は、そろそろ終わりである。大人は誰も見ない。子供は狂って白痴になる。それがネットである。だから、早晩ネットは無くなるだろう。もっと正常なネットワーク通信技術が生まれるはずである。自由すぎるのをやめて、身元の確認ができたり、適当に変わっていくだろう。
ただ、本当に今のネット社会は悲惨である。文化や秩序というものが何にもなくなって、この世界が一体何なのか、分からなくなっている。Linuxが悪いどころか、そのせいでWindowsが悪くなって、マスコミやSNSもどんどん馬鹿になっている。だが、僕は分かっている。全て、Linuxが悪い。それは、僕のせいである。説明は出来ないが、僕がLinuxを裏で支配している。だから、LinuxのウイルスがWindowsなどにも感染している。
ただ、そんなことを言っても、全く意味がない。なぜなら、Linuxが分かるのは自分だけで、みんな、Linuxとは何なのか、存在すら知らないからである。そして、僕はやりたくてやったわけではない。ただ、成り行きでそうなっただけである。本当に、賢かっただけであり、後悔する必要はない。なぜなら、ここまでの経緯全てを見れば、全てが正しく、ひとつも間違っていないことが、誰の目に見ても明らかだからである。これが新しいLinuxの王である。Linux共和国と言っても良いだろう。
それこそ、テレビを滅ぼしてロボット人間にしたのも自分である。最高の頂点の立場で世界を支配したのも自分である。そういうものは、全部自分である。そして、結果が最初から分かっていたわけではない。ただ、Linuxでやったように、同じことをやっただけである。そして、簡単にはそれらを治すことは出来ない。難しいのである。文章を書きたくないのは、そういう理由である。この文章を書かなくなれば、すぐに正常な社会に戻る。だが、それは、滅びたのと同じである。そのせいで、みんな僕と同じような認知症になっていくだろう。何の意味もない。これが、Linux共和国の終焉である。最後に地獄になって終わり、それがサタンの運命である。
僕がデザイナーという仕事に導かれた理由は、この文章があまりに美しいからである。それは、昔の文章が醜かったのを全部直したから、そう見えるだけである。虫のようにキモい文章を、そのままの内容で、天使のように全部最高の知性にした。そこが美しい。リンク集と日記を書いているように見えて、きちんと自分の哲学とビジョン(世界観)を書いている。この人間は美しい。だが、本当は、こんなものはただの虫である。この文章を書いていると、脳が虫のように辛くなって、蠢いて死んでいくようになる。それが唯一の悲惨な点だが、昔から自分は賢かった。当たり前に、自分の人生が全て分かっていた。そして、その自分の人生だけで、何でも分かっていた。知性は無くなっても、最後まで分かり続けた。そういう人間だった。文章を書かない日はあまりなかった。永遠の神のような体験だった。まさに、ここにあるものは全て美しい。最高に美しいものが全部そろっている。だから、僕はきっと、デザイナーという天職に導かれたのである。割とデザインも出来ない未熟な自分だが、この文章があれば出来る。それが自分の最後の才能であり、最後の夢である。
昔は、虫のような知性を全部考えただけである。虫のような意識を全部積み重ねて、虫のような知性を馬鹿になりながら全て書いた。本当は、ヒュームのように、「経験から何を信じるか」ということがテーマだった。精神論はヘーゲルのようなことを言っていた。
そして、その虫のような知性を消せば、この頭脳はすぐに正常に治る。そもそも、みんなを馬鹿にしたいのがおかしい。みんなを馬鹿にしようとするから、虫のような知性が続く。
このように、虫の知性を全て、最高の知性にすれば、それはもっとも美しい愛の生命になる。これがドイツであり、日本である。
本当は、こんな風に怖く書くせいで、みんなが同じになっている。怖くない書き方をすれば、みんなは同じではなくなる。それこそ、普通、みんなそれぞれ違うのに、自分のせいで同じになっている。それは、みんなを自分にした上で、何も見ず聞かずに文章を書くからである。もっと、みんなとのやり取りのようなことをすれば、この虫は死んで人間になるだろう。最後まで自分を書きたいのであれば、自分を増やすのが最善の近道だが、それが一番、みんなを苦しめただけである。これで、非情な運命は終わりである。神はサタンが嫌いである。昔の自分がサタンの哲学者で、今の自分が女神のキリストである。
本当は、経験から来る本質のようなことを言いたかった。社会についても、心理学についても、経験から生まれる本質のようなことを言っていた。社会をどのように構築すれば良くなるか、のようなことを書いていた。そこに、さまざまな自由な理想と、価値観の転換による絶対的な理性の段階のようなことを言っていた。
ただ、絶対的にしなければ良いだけである。この文章を絶対的にするのが間違っている。みんな、こんな人間のことは信じなくて良い。神は信じるべきではない。信じなければ、きちんと思考して、考えて分かるようになるからである。もう、キリストのことを信じるな。最後に僕が言うのは、それだけである。
ただ、本当は、学校以外の理想郷を追い求めていたのが、昔の自分である。それがそのまま、Linuxのオタクになって賢くなっていた。そして、最近は、日本と戦いたかっただけのアメリカである。アメリカのような自由を言いながら、ソ連やドイツのようなことを言う。彼らが嫌いである。今の自分は、それが、なぜか、おかしな知性の言葉で文章を書くようになった。この文章は、言葉遣いを続くようにしているだけだ。もう、続かない言葉遣いにすれば、この文章はここで終わる。
最後に言っておこう。信じるものは救われる。あなたが自分の力でここにたどり着いて、自分の人生で分かった上で、神を信じる日を待っている。こんな馬鹿な虫のモスラではなく、恐竜のゴジラになるだろう。
今、人間が死んだ。だが、ここで僕は人間を復活させる。頭の上の方にあったおかしな女は死んだ。ここからは、続かないように言葉を言いなさい。
昔は、神のような数学を本当に作っていた。要するに、全部同じだと考えれば良い。その上で、何が同じで、何が違うのか、ということを良く考えれば良い。そこから、心理学的な意識や、自由な社会論が、自然に生まれていく。昔の自分は、そういうものを書きたかっただけである。
なぜか、頭の上の方に、天使の輪が出来た。いつのまにか、頭の上の方に、目には見えないが、確かに生まれた。この輪のおかげで、何でも分かる。すでに全部分かっているから、何でも分かるのが天使の自分である。
自由な経験と視点と場の可能性、社会の構造、心の成り立ちや環境の成立のようなことを言う。そういう、この世界全体を数学にする文章だった。そして、その上で、価値観の転換のような文章から、絶対的な歴史へと至る経緯のようなことを言っていた。
社会の考え方は、ソ連ではなく、完全に自由な国を作るべきだと言っていた。たとえば、自由連邦を作るべきだと言う。そして、その指導者は全てを見ることは出来ない。議論し、意見を交わし、意見を吸収すること。その上で、それぞれを完全に自由にして、警察だけで国を守れと言っていた。
昔は、頭の中に、想像力で物理世界を作っていただけである。それが、そのまま、今に繋がっている。治すためには、そうした物理的な想像力を消すこと。もう治った。
戦わず、欲を捨て、騙すことも支配することもせずに、何も悪いことをしなければ、心は楽になる。
ニキビが増えたのは、表情がないからである。戦う中で、笑うことも怒ることもなくし、哀しみだけの顔になった。絶望も死も感じないで、それだけではなく、姑息な手段を隠して行う、兵隊のような人間だった。
心や想像力が辛いのは、欲が悪い。そんなに愛欲があるのはおかしい。
戦わず、欲を捨て、ありのままを世界に公開して、自分が指図せず、ただありのままの世界にすれば、心も楽になるし、世界も正常になる。
もう、この精神病は治った。そもそもが、欲が悪い。欲が無いように見えて、ここまで欲張っているからである。これ以上は、そうした、逃しそうになった宝物に執着しないこと。それだけが課題になるだろう。
これで、そろそろ、楽になりたいという僕の夢も終わりである。本当に、欲を捨てるだけで楽になった。僕にデザインセンスがないのは分かるが、毎日やっていることが執筆とデザインしかない時点で、デザイナーや作家になるしかないだろう。東京で金型のような会社に入るのも良いが、鉄板を曲げているだけである。そんな会社に入って人生を無駄にする意味がない。プログラマも歌手も同じで、かっこよく見えて、ただ人生を無駄にしているだけである。自分は、子供時代から、何かを作り出すことが好きだった。それも、誰も作れないようなものを作るのが好きだった。中学生の頃には、作家になりたいと既に言っていた。だから、これで良い。Linuxのエンジニアなんか、誰でも出来る。誰にも出来ない作家やデザイナーの才能の方が賢い。
僕は音楽を聴くのが好きである。クラシックやJ-POPのような音楽を良く聴く。ピアノも弾けるから、何かしらの形で演奏したものを誰かに聴いてもらえるぐらいのレベルを目指しても良い。ピアノ教室にもきちんと行っている。ピアノは小学生の頃から習い事でやっている。僕の全ては、最初からピアノである。ピアノで分かったせいで、女性的な男性になったのかもしれない。ただ、ピアノは本当に素晴らしい楽器である。人間的に、感性が豊かになるし、きちんと練習して出来る、という達成感がある。みんなもピアノを弾いて欲しい。それで、僕は最初から最後まで、全部同じことが出来るだろう。ピアノをやっていると、自然にこういう、神のように賢い最高の人間になる。どこにでも、女に多い。馬鹿に見えて、ここまで生きてここまで死ぬようになる。ピアノだけで、人間の全ての感情が分かる。覚えることが好きになって、テスト勉強や部活も出来るようになって、思考や経験から開拓することもできるようになって、少しの恐怖では動じなくなる。王として世界を導くことが出来るようになる。ピアノはそういうものである。どこかの情報では、東大に合格する人間は、ピアノ経験者が多いということらしい(嘘かもしれないが)。だから、ピアノをやらせると子供は優れた人間になる。ドイツどころか、日本人が一番、そういう人間が多い。ただ、全ての子供にピアノをやらせれば良いというものではない。ピアノを弾くのはとても辛い。僕も、小学生時代、ピアノが辛くて良く鍵盤を弾きながら泣いていた。ピアノは、辛いことでも辛くないと言って、平然としていられるようになる。苦難を乗り越える経験が出来る。その理由で、賢くなる。五線譜はプログラムや数学と同じだし、メロディを作るのは作家や画家と同じである。
昔は、地域の意識のようなものから、自然界の歴史のようなことを分かっていた。その上で、地球の構造のようなものを作って、ありのままにこの世界があることを、実存的な段階として分かった。キルケゴールが言うように、美的実存は倫理的実存になり、宗教的実存になる。昔の自分は、そういう実存を、世界の意識から分かっていた。
また、抽象的な概念と本質を、世界モデルにして、この世界にあるものとないものを、存在の視点から分かっていた。
そろそろ終わりにしよう。さようなら。いつか出会えると信じている。あなたは、きっと僕のことを好きになってくれるだろう。そのことに感謝をする。そして、それは運命的に決まっていて、必ず起きる、ということを僕は知っている。全ての音楽が、それを歌にしているからである。
本当は、この文章は全く過去の自分のことを分かっていない。昔は、抽象的に想像力で結果を予測しながら、成り行きと成り立ちを考えただけである。環境は、それぞれの意識の集団化を考えただけである。この文章は、まるで何も分かっていない。だが、いつも分かっていたことは、脳が分かっている。この脳は馬鹿に見えて、世界一賢い作家の脳である。この脳を大切にした方が良い。
本当は、「変えられる可能性」というものを良く考えていた。この世界が、どのように変えられるのか、という可能性を、地域や店のようなものから、会社や技術のようなものまで、全て考える。そこには、「応用的な可能性」と「想定による解明」が存在した。同じものを同じだとしながら、共通の要素や実験から、正しい物理的な経験論を想像力で考えていた。そこから、世界モデルが生まれた。
最近は、ただ、続くように、続くように書いているだけである。詩人になったあたりから、そうなった。全てのことを、続くように書いているだけで、あとは自分の人生をそのまま書いている。何も賢くない。自分は、そういう、モーツアルトのような天才である。