新・日記2に戻る | 2018年12月の日記に戻る

=2018-12-28=

今日で、僕も仕事納めである。今日は、作業所の大掃除をした。

今年の仕事もこれで終わりです。来年も、よろしくお願いします。

昔は、学習から、経験して分かっていた。成熟した精神を持って、段階的に理想の国家像へと近づいていき、自由に分かっていた。

人格が一度、破綻すれば治る。辛いのは、人格が辛いからである。人格を一度崩壊させれば治る。そして、それは、今やると、もう辛くない。

昔は、人格の想定や可能性の想定、あるいは開拓のように分かっていた。

たとえば、全く辛くない人間は、どんな辛いことでも簡単にできてしまう。だが、辛く苦しい状況を生きている人間では、少しの辛いことも、地獄のように辛いことだと思ってしまう。

昔の自分は、そういう、「それぞれの人間にとっての当たり前」ということを、人格や状況で「いつどのように成り立つか」を考えることで分かっていた。前提としての条件と、それぞれの反応を、相対的に分かっていた。ある意味、物理学のような心理学だった。

そして、「どんな状況で、どんな考え方が生まれるか」ということを分かっていた。自由でなかった人間が、本当に自由になれば、人間の人格は変わる。そのように、「人間がいつどうなるか」ということと、「それぞれの相対的な当たり前」ということから、分かっていた。

自分は、過去の日記を見ると、まるでアメリカのオルタナ右翼のようにイスラムを批判しているが、本当はイスラムとは全部、自分自身のことを言っている。だが、そのせいで、アメリカに見える。DA PUMPが「カモンベイビー・アメリカ」と言っているのは、自分のことである。自分はアメリカが嫌いだが、それでも、これを見ているとアメリカみたいな子供に見える。だから、英会話教室が怖いのだと思う。

僕は、誰のことももう、差別したくない。平等な平和な世界になってほしい。だからと言って、自由を否定するわけではない。むしろ、ブッダのように、「本当の自由な成熟した経験からくる、考え方の転換と悟り」を信じたい。そのためには、きちんと学習し、成長すること。自分を改め、他人に合わせることは弱さではない。むしろ、他人との関係が無くなって強さを得られるとしたら、その強さを一度知った人間は、他人との関係の中で束縛されて出来なくなっても、そこに怒りを覚えることは無くなる。一度自由で分かってしまえば、もう自由は必要ない。必要なのは、「完全に自由になる経験を一度だけすること」である。そして、その上で、「戦いにおける辛さや苦しみと、そこにある受け入れられる努力」を知ることで、何もかも全部、ただ出来るようになるだろう。

他人を助けることを、義務だと思わないこと。自分が相手を助けられること、それに喜びを感じなさい。そして、その喜びを得られる機会を得られたこと、そこに幸福を感じなさい。そして、その幸福は、誰かが与えて自分が得られたものではなく、自分が自分で作り出すものである。だが、決して、それを自分だけの喜びにしないこと。相手が喜び、自分が喜び、そこに「共感」が生まれること、それが真の喜びであると、昔の自分は考えていた。そして、機会とは可能性を高めるものであり、機会があれば、何でも実現できると考えていた。人々には、本当は機会と手段を与えるべきである。絶対的指導者のすべきことは、支配して自らの行動を絶対化することではなく、自由な力と可能性をそれぞれに与えることである。だからこそ、民主主義にも社会主義にも、国民評議会での議論が必要なのである。

歴史をきちんと考えると、いくらでも別の可能性があることに気付く。その可能性が、決して唯一の答えであるわけではない。だが、何もしないことが最善である、と言いたいわけではない。誰かが、ひとり、この世界を変えなければならなかった。そうでなければ、この世界は変わらなかった。この世界をいくらでも変えられる「留保」された可能性があると同時に、それは誰かによって「決定」されなければならない。それによって、世界は「実行」されていくのである。そして、その実行は、全力でやらなければならない。そこで一番良い方法、それは絶対的な王であることもあれば、そうではなく、宗教や議論であることもある。だが、どんな体制であれ、やることは同じである。ひとりの救世主を生むと同時に、全ての可能性を「捉える」ことで分からなければ、この世界は変えられない。もちろん、きちんと「手段」と「方法」も考えなければならない。ここで言う方法とは、「それをするための可能性」であり、ここで言う手段とは、「それをいつまでも実行することのできる権力」である。同じような言葉だが、本当は全く逆の意味を持つ、そうした言葉である。

疲れた時は、瞑想と気分転換をしなさい。自分が今、苦しい状況に耐えていることを、少しの間だけでも忘れて、この世界の問題も自分の不安も全て、「度外視」して考えなさい。自分を自分ではないかのように客観的に見つめることができれば、その時点であなたは永遠の地獄から抜け出している。天国とは、眠っている時に見える夢の世界である。いつもの辛い日常を忘れて、馬鹿騒ぎが出来る場所、それが天国である。イエスのような苦難の道を、イエスの言うように同じように生きたとしても、永遠の苦難は苦しみだけを感じる場所ではない。苦しみの中にある、成長や誇りを感じる場所である。それが、この地上という「苦しみの世界」の真実である。この文章のような真実、自由、人生があれば、そもそも、この文章自体が必要ないだろう。あなたはあなたの作り出した作品だけで、あなたの天国を感じられるだろう。それが、神や仏の言う、「最高の境地」である。

本当は、僕の問題は、中学校で自分らしく生きられなかったことである。自分らしさというものを忘れてしまっている。自分が何なのか分からなくなって、自分で自分を否定するようになった。

治るために必要なのは、病気の原因を殺すことよりも、人格そのものを変えることである。人格を変えてしまえば、すぐに治るだろう。それで楽になる。

本当は、学校の勉強に戻る意味はない。だが、僕は既に、自由な環境とは何であるのか、人生や成功や社会とは何なのか、全部知っている。だから、無限に続く勉強でも耐えられる。その理由で、僕は勉強に向いている。逆に言えば、仕事にも向いている。だが、何もきちんとできていないのは、きちんとできるための方法を忘れているからだ。そして、そうした方法は、もはや、僕には「必要ない」のである。これぞ、神の与えた天からの知性である。そして、それは自分で得たというよりも、必然的にただ、そうなっただけである。よって、僕は知的好奇心があるわけでもないし、ストイックでもない。情熱家ですらない。僕は、ただ簡単にできることをしながら、遊んでいるだけの子供である。それが、全知全能な神の真実であり、正体は椎名林檎が言うように、戦うだけの獣である。永遠に戦う、革命家が、この文章を書いている。それは、人間を超えているぐらい、美しい生物だ。人間が、猿に見える。

僕は、今、キリストになった。それは、もう、この人間が終わったからである。全て分かって、人格を変えると、キリストに行き着いた。

僕が悲しかったのは、本当は、猫が死んだからである。猫が死んだせいで、際限のない哀しみから抜け出せなかった。一度、きちんと悲しんで涙を流すと、治った。

そういうわけで、こういう狂った人間は、ペットでおかしくなる。

僕が言いたいのは、この人間の視点からこの人間を見ているのは、自分だけではない、ということである。キリストも居るし、猫もきちんと居る。だから、天国に神が居ると言っているのは、人格の中にたくさんの人間が居る、ということを言っている。

自分が怖かったのは、「僕」という人格がそのまま、自分の人格になるのが怖かっただけである。そのせいで、いつまでも苦しみから抜け出せなくなった。人格が自分になるのが怖いから、何を言っても怖い。

ただ、それはもう、人格を捨て去れば治る。僕は今から、キリストになる。本当は、そう思い込んでいるだけで、明日になれば、また、同じことを繰り返すだろう。

要するに、相手も好きで、自分も好きなら、それで良いのが分かっていない。猫も自分が好きで、自分も猫が好きならそれで良い。全てそれと同じだから狂っている。みんなも自分が好きで、自分もみんなが好きなら、それで良いだろう。テレビもネットも全部自分が好きだから、それで良い。間違っていないのだ。

僕が本当に悔やむべきなのは、いつもの僕のやり方である。姑息に支配して、絶対的存在として振る舞い、露骨に言いくるめて、誰も批判できないようにする。まさにスターリンである。そういう自分が、インターネットを利用して、世界全部を異常な世界にしている。そんな自分が正しいと思うのは、やめるべきである。

僕はこの世界を、正常な世界にする。必ず、栄える。もっと頑張れば良い。僕は必ず勝利する。この世界を、本当に最高の世界にする。それが、僕が好かれている、唯一の点だと思う。