新・日記2に戻る | 2018年12月の日記に戻る

=2018-12-27=

数学とは、「自明の理」から考えることである。言ってしまえば、「当たり前のこと」から気付いていく、それが数学である。積み重ねや、モデル化は、当たり前のことに気付いていくための材料に過ぎない。当たり前のことをきちんと考えていくと、前提条件や世界の可能性が見えてくる。

自分の経験を信じなさい。そして、そういうものだと分かった時は、「そういうものはそういうものなのだ」と納得し、その上で、それを誇張するのでも主張するのでもなく、そのままの状態で留保して信じなさい。

現実と理論を照らし合わせて考えなさい。その照らし合わせるとは、数学でいう、「円とは点の中心からの等距離の集合である」といったことに近い。それは何であるか、ということを、数学的に照らし合わせて考えることで、心の行動を捉え方で捉えることができる。

最近は、ただ、神を信じて祈っていただけではない。自分が衝動的に戦っていたせいで、「この世界に存在する、裏側の事実」を分かっていた。そこでは自分が革命家の神で、全ては自分に由来するものだった。フランス語とドイツ語から、全てが生まれたことになっている。そういう発想が全部分かっていた。

子供の頃の経験として、「みんなが自分を批判しているような気がする」大人がたくさん居るが、それは間違っている。誰も、自分のことなんか、批判していない。そこが分かると、怒る症状も苛立つ気持ちも消える。誰も、自分のことを批判したりしようとは思っていない。赤ん坊や幼児が賢いのは、批判されているという発想がないからである。

学校で馬鹿になるのは、学校では当たり前のことを疑うようにするからである。それが、一番子供を馬鹿にして、洗脳している。当たり前のことなんか、どうでも良い。当たり前のことを信じても、この世界にあるものを正しいと思い込ませても、何も分からなくなるだけである。

学校に行くな。ネットを見るな。テレビを見るな。本を読むな。そういうものは、全て間違いである。

自分がこれまで生きた中で、何が良かったか、何が悪かったか、ということを、正直に思い出して、それの通り言いなさい。それで、きちんと正常に分かるからである。僕の場合、ゲーム、IT、哲学、音楽、デザインは良かったが、テレビ、学校、インターネット、孤独、病気、怪我、狂いは悪かった。ここまで最後まで生きた上で、自分の今までにあった良いことと悪いことをきちんと信じれば、狂いや後悔は消え去る。後悔して、「自分の行いが悪かったのではないか」と思う必要はない。神が見て、あなたはいつでも最善のことをやっている。きちんと考えた上で、大胆かつ慎重に無難な選択や困難でも自分の信じた選択をやっている。それはひとつも間違っていない。大人になると、後悔や病気ばかりが増えるが、子供時代、あなたは何も後悔していなかった。後悔しなければ、人間は成長し、賢くなる。

分かろうとするな。分かったところで、何ひとつ良いことはない。人間は、分かれば分かるほど、分からない人間を嘲り、愚弄し、見下すようになる。分かれば分かるほど悪い人間になる。分かるのをやめなさい。分かろうとするのをやめなさい。賢い人間は、分かる人間ではない。賢い人間は、えてして、分からない正常で善良な人間である。

イラレの新しい本を買った。もう僕も大人だが、親からのクリスマスプレゼントということになっている。買った本は、「新ほめられデザイン事典 レイアウトデザイン」という本である。この本を読めば、デザイナーとして一人前になれると思う。僕も最近、きちんとデザインが出来るようになってきた。特に、先日のクリスマス会では、既に卒業した二人の先輩から、直にデザインの指導を受けることができて、とても楽しく、また勉強になった。僕も、一人前のデザイナーにならないといけない。デザイナーが作家で詩人だったとしても、何もおかしくない。それでLinuxとピアノが分かるのは、まさに理想である。これ以上は、神を信じる必要も無くなった。だが、いつまでも信じていれば、いつか著名な人間になるだろう。僕には、金も恋愛も出世欲も存在せず、成功もしたくない。僕が望んでいるのは、僕と会いたいと思ってくれる人たちと触れ合いたい、ということだけである。僕は音楽を聴くだけで、あとはこのホームページを更新するだけである。さまざまな作業所や教室には行っているが、成功はもう望んでいない。詩を出版した時点で、最高の成功は経験したからである。だから、僕は好奇心だけを満たすようになった。だが、結局僕は自分の中では何も変わっていない。自分の既に知っていることをただ書いているだけに過ぎないからである。僕は博士のように知っているように見えて、本当は何も知っていない。今までの自分の知っている当たり前のことを、ただ書いただけである。

言ってしまえば、昔の自分は、「自分で考えて作った、モデルの照らし合わせと、自分で経験した理想から、全てが分かっただけの人間」である。こんな人間は、いくらでも居る。普通、18歳ぐらいになると、そういう風に全て分かって、馬鹿になる。そして、それがファシズムの右翼になる。だが、一度右翼になれば、全てのことを経験する。それで賢くなるのが、こういう普通の人間である。

僕の正しい点は、「神を選んだこと」である。神を信じたせいで、全てが良くなった。最終的には、神を信じる者が勝つ。なぜなら、聖書で書かれていることが、正しいからである。キリストを信じるものだけが、天国へと誘われるだろう。

仏教の間違いというのは唯一あって、それは「分かるということが悪い人間になる道である」ということである。仏教では、あらゆること全てが正しく分かり、この宇宙の全ての真理が自分の心の中に完成する。それによって悟りの境地に至る。その悟りの境地への道だけを、仏教では教えている。だが、仏教はそんなに良い宗教ではない。「分かれば分かるほど、執着や未練が大きくなって、逆に悪い人間になる」ということが分かっていないからである。仏教で分かれば分かるほど、意味のない悪人になる。それを、昔の僕と照らし合わせると良く分かる。賢いように見えて、一番邪悪で愚かな大ばか者である。こちらの何も分からない子供の方が、はるかに賢い。よって、キリスト教を信じると、ただの馬鹿な子供になる。どちらかが最高の宗教だが、どちらも同じぐらい良い宗教だ。キリスト教を「価値のないもの」として馬鹿にする人間が多いが、キリスト教は聖なる宇宙全てのように賢い文章を書く。この文章は最高の宇宙の作品である。よって、どちらの世界でも、全く違った芸術様式が栄えた。決して白人は賢くないが、キリスト教は信じられているだけの、賢さのある宗教だ。神を信じると、どんなに辛く苦しい状況であっても、平然としていられるようになる。宗教は救われる。おそらく、仏教を信じても救われるだろう。だが、そんなに強くたくましい、神でなく仏になれる人間など、昔の僕ぐらいであり、悟りに至る人間は数少ないだろう。キリスト教は平等に、全員が救われる。

僕は、技術の進歩は必ずしも人々を幸せにしないと思う。中国の監視カメラは、人々を常に監視し、奴隷のように従うようにしている。アメリカも、Androidだけではなく、猫にICチップを埋め込むなどのありえない技術の進歩をしている。それに、技術が進歩したからといって、必ずしも楽になるわけではない。自動運転で自動車が自動で運転されるといっても、僕のような障害者に価値あるものにはならない。いつでも乗務員が車を自分で運転できるようにしないといけない、というよく分からないルールのせいで、人間が運転できる状態を保持しなければならないからである。テレビのような一般のメディアも、本当に人々を賢くしたかと言えば、逆である。「モーニング娘。」のような馬鹿なアイドルを作って、人々を馬鹿な白痴にし続けている。

それに、科学的に分かることが本当に良いかと言えば、そうでもない。分かれば分かるほど、どんどん何もしない、意味のない人間になる。人間は、分からない方がはるかに幸せで、賢い人間になる。テレビの裏にどんなロボット人間の王が居たとしても、そんな人間になりたい人間は居ないし、そんな人間に正常な社会にしてほしいとは誰も望んでいない。そういうものは分からない方が良い。分かるだけ、馬鹿だからである。

そして、僕はキリスト教徒に戻る。決して仏教が嫌いなわけではない。仏教には、この宇宙の真理と悟りへと至る道のことが、事細かく全て全部書いてある。だが、言葉は難解で、一般の人には理解できない。イエス・キリストは、神が万人を平等に救うとした。であるから、キリスト教の恩恵を得ることは容易い。ただキリストを信じれば、それだけで平等に救われる。

僕は、これから、何をしようとも思わない。ここから先は、何も分からない方が良い。分からない方が、色んなことが出来る。そういうわけで、分かるだけの大学はここで卒業である。ここから先、きちんと出来るようになる。卒業というよりは、三年生と言った方が良いだろう。きちんと出来るようにならないと、卒業に見えないだろう。この文章を書いていること、それがそもそもが大学と同じである。放送大学が出来なくても、自分の偉大な学校を作ったから、これで賢い30代である。そこに異論はないし、ここまでの人生に悔いもない。僕は幸せだった。これからも、ずっと幸せである。