新・日記2に戻る | 2018年12月の日記に戻る

=2018-12-25=

今日は、作業所でクリスマス会をやった。しばらく会わなかった人に会ったり、デザインを教えてもらったり、特別な料理を食べたり、トランプで遊んだりして、とても楽しかった。

昔は、数学のような、「だからしてある」ということを考える上で、「頭の中にしかない、抽象的な世界モデルの世界」を作っていた。

そして、この世界を「ただ、ありのままにある」と考えて、その上でさまざまな経験や変化を「心で正しく捉えること」で分かっていた。

科学のことを、仮定と成立の「モデル」として作っていた。それらのモデルは、経験や想像力から実証された、「正しい公理主義の数学」だった。

独自の数学を作ることで、全てのことを説明出来た。そうした、「仮象のモデル」を作ることが得意で、その上で、人々がいつどうなるかを考える、「心の物理学者」のような人間だった。

本当に、全ての方法や行動や変化を、数学的に積み重ねることで、経験的に分かっていた。そこから、この世界の広がりと哲学を知った。「自由な積み重ね」と呼んでいた。そこには、自由で楽しい感情と、哀しみを乗り越える強さがあった。機会や手段についても、一度作ったものを使う、という定理と証明のように、考えて分かっていた。心と意識の変化が全て捉えられる人間だった。そこから「何が出来るのか」を考えていた。全てが出来るようになった時、あるものは「ありのままの人生と世界」という「世界観」だった。そこでは、全ての定理や証明を、自らの考え方から、再考し、再構築していた。

あとは、考え方を分かっていた。自由な社会の制度や、心理学的な「たが」のようなことをいかに許すかを考えて、この世界を自由にしようとしていた。社会的な考え方は、「還元」と「経験的発見」に基づくものだった。

そろそろ、もう、何でも分かる博士は終わりである。ここから先は、新しい時代になる。本当は、ただ、右翼に戻るだけである。そして、隠している本性を公にすれば良い。それで、終わりである。この世界は、僕による支配を永遠に受けるだろう。それが、マイファスの言う「決定的証明と絶対的存在」である。

「何から何が生まれるか」とか、「何が原因で何が結果となるか」ということを良く考えていた。そして、それ以上は、さまざまな自由な行動と結果、経験や体験を考えていた。だが、考えたことはそれくらいである。あとは、この世界の、インターネットの片隅で、さまざまなことをいくらでもやったに過ぎない。オープンソースは楽しかった。特に、昔はFLASHのような面白い技術があった。そういうところから、分かった人間だった。