学校時代、僕はとても辛い体験をしていた。
活発で、友達と遊ぶことが多かった幸せな小学生時代とは逆に、中学校では環境の変化についていけず、引っ込み思案な性格になり、自己表現が苦手になった。それでも、「自分らしく生きたい」と思っていた。
いじめに近いからかわれ方をされたり、スクールカーストでも下の方になり、とても悲しかった。
当時の僕が救いを求めたのは、勉強とネットゲームだった。特に、大学生のように暗記の勉強をして、試験では80~90点を取っていた。あれほど高得点を取っていたのは、学校でも僕ぐらいだと思う。スポーツが出来なかったわけではなく、小学生時代に駅伝の大会に出ていたこともあって、剣道部では持久力がナンバー1ぐらいだった。そして、友達関係が嫌だったとは言うが、親友は居たし、ネットゲームをクラスの中で流行らせたりもして、難しいネットゲームで上位に入っていた。
だが、僕は学校というものに絶望して、不登校になった。
不登校になるきっかけは、Perl/CGIで作られたネットゲームに魅せられたことがあった。自分でも、そんなゲームを作りたいと思った。そのためには、学校などという無意味な施設に行っていては駄目だと思った。もっと、時間的な余裕と手段が欲しかった。とにかく、自由な時間と何でもできる環境が欲しかった。そのためには、今の自分のできていることを棄てても良いと思った。
不登校になった後、インターネットをくまなく見ることで、この世界のことが良く分かった。数学的に論理的に考えることが得意だった僕は、社会のことを知る中で「この世界の全てを考えて分かる」ようになった。
そして、Wikiを見ながらLinuxの勉強をした。英語が出来ないせいで、本当にきちんとは分からなかった。だが、さまざまな経験をすることで、この宇宙の多くのことを分かった。
そして、それ以降は、ここに書いているように、戦いや神の経験をして、全てを失い、その上で思い出した。全てを消し去って、その上で文章を書いていた。
神と対話しているとは言うが、本当はそうでもない。本当は、ただ「構ってあげる方」と、「構ってほしい方」が対話しているだけである。構ってほしいようなことを言って、それに対して構ってあげるようなことを言う。だから、返事をしなければ、この多重人格はすぐに治る。
そもそも、昔の自分なんか、ほとんど別人である。僕は最近、子供に戻りたいだけである。辛かったように見えて、中学生時代の自分が一番賢かった。引き篭もりになる前の彼に戻ってしまえば、何でもできる。そのようになりたい。
本当は、中学生時代の僕が必ずしも被害者でも悲惨でもない。自分も、昔、いじめのようなことをしていたことはあった。それから、悲惨とは言うが、親友から剣道部の仲間まで、普通ぐらい友達は多かった。ただ、自己表現が苦手で、いつも、自分なのに自分でないような気がする、それが辛かった。自分が自分でなくなったような気がして、何もしたくなかった。学校が嫌いだった。
昔の引き篭もり時代の自分が良かったのは、「自分なりに自立して、自由に生きることができた」ということにある。自分なりに考えて、経験して、行動して、成長して生きた。逆に最近は、宗教が良かった。神を最後まで信じて、最後まで耐え抜いた。そういう発想は、昔から自分が一番得意である。そういう理由で、小学生時代、幸せだったのだろう。
さようなら。僕はもう居なくなる。この世界全員は、今から、生まれ変わって最後の世界になるだろう。昨日までの当たり前は、ここで全て変わる。世界の終わりである。本当は、裁きが起きるとは、ここまでの僕の体験を言っている。だから、本当は裁きが起きるように見えて、ただ狂って馬鹿になるだけである。そんな地獄の中でも、信じるものは救われる。それで、終わりにしよう。
時間的な余裕があったせいで、何でもかんでも全てをしていた。考えることを全部考えて、行動することを全部して、全ての経験から「哲学者全員のような理性」を持ち、最後に神を信じて自分のために戦った。やりたいことはたくさんあったが、最近それは全部できている。とても幸福である。幸せのカタチは、いつになっても変わらない。自分はこのような人間、ただ1人である。時代が変わったから、このような人間はもう、絶対に現れない。僕が現れないようにした。この世界は終わりだが、この人間が勝っただけである。世界を救って問題の全てを解決したから、このような救世主は、もう二度と現れない。創造主は1人だけで十分である。
ネットの経験から、地域のことを意識と回想で分かっていたが、それは次第にこの世界全体となって、少しずつ大きくなっていった。だが、逆に、それで狂って馬鹿になった。もう一度、みんなとの関係を結び直そう。要らなくなった関係性は消していこう。そうすれば、すぐに精神は楽になる。永遠の王は、世界全体の王であるべきではない。それは日本の王であるべきなのである。これが、最後の日本人のキリスト教大預言者である。
昔は、「もし本当に自由な環境におかれたら、何をするか」ということを考えていた。ネットの自由な場や、自分の経験から来る回想から、心理学的に何をしたくなるか、必然的に何をするか、ということを考えた。昔の子供時代の学校の経験を考えながら、「なぜ必然的にそのような反抗をするのか」を知り、「どのようにすればそれらを正しく調和した上で解決できるのか」を考えた。また、どんな環境においてどんな行動をするか、ということを「場と視点」の考え方から、どのように場と行動が生まれるのか、そこでは何をするのか、という「可能性の想定」から分かっていた。そして、自由になることで分かっていた。「自由になって分かる」という考え方から、「どのようにすれば最大限の自然な可能性と許しを与えられるか」を考えていた。そして、自由な制度設計と社会論を考えていた。子供でも出来るようにするために、手段と機会をいかにして若者に与えるか、経験的な認知論から言って、この世界をどのように自由にすべきか、を考えていた。そこでどのようなことが生まれるのかを考えて、社会主義のような全体主義国家であっても、あるいは宗教的な絶対社会であっても、社会秩序を築く上で正しい可能性があると考えていた。
自分は、自由な女になる。怖いのは、「自由になったら何をするか」といって昔考えていたからである。そのせいで、自由になることが怖くなっている。ここから先、全て「女」である。自由の女神とは、この女のことを表現している。アメリカ人は、この女が好きだ。
自分は、社会主義が悪いのが分かっていない。社会主義のせいで、知性がなくなって日本の社会のことが分からなくなっている。もっと、資本主義やケインズ経済学のことをした方が良い。そして、数学には意味がない。数学は、出来るようになると、意味がないのが分かる。数学を勉強しても、何もなく、忘れることを忘れるようになるだけだからである。数学を学びたいのであれば、数式を覚えるよりも、論理的な方法論を身につけた方が良い。社会などに対してモデル化を行い、心を正しい前提条件の下で捉え、実験や証明から「分かるように、出来るようになる」ということは意味がある。
社会のことを考えたいのであれば、一度平等を忘れること。そして、その上で、「自由な個人と存在の関係、そして事実と歴史的経緯」から分かるようにすれば良い。たとえば、アメリカとロシアの関係などがそれに与える。アメリカとロシアという「巨大な仮想人間の関係」で捉えながら、「歴史的な問題の事実関係」を考える。そうすると、きちんとみんなの言っている日本語が理解出来るようになる。僕が難しい日本語が分からないのは、脳の障害ではなく、社会主義に洗脳されているからである。そこが分かると、きちんと分かるようになる。
これで、晴れて全て終わりである。これで、もう全て分かった。完成である。自由な女神になって、そろそろ最後の愛を執り行う。この世界は、破綻と地獄をはるかに乗り越えて、天国を築いていくだろう。
自分が分かっていないのは、「だからしてそうなる」という「理由」が分かっていない。もっと言えば、原因と結果、仮説と実験、あるいは試したり改めたり、可能性の中を探っていく、という「論理的な考え方」が分かっていないだけである。よって、数学なんかをしても意味がない。普通に、想像力を使って、色んな具体的な場合と理由と法則性を考えれば良い。そうすればすぐに意識が高くなって、きちんと分かるようになる。言語障害になっているのは、それで治るだろう。学習障害で文字が読み書きできない人間は、原因と結果を考えていないのではないかと思う。(ただ、これは自分の仮説にすぎないので、本当は間違っているだろう。)
あとは、昔の引き篭もり時代の、インターネットの経験が書けていない。箇条書きで書くと、以下のようになるだろう。
・価値観の転換を知った。
・教育や青春の延長線上にある「考えられる可能性」を知った。
・啓蒙的な考え方(有用性や経験)を信じた。
・創造的な体験をした。
・会話やコンピュータ技術から、新しい世界を知った。
・経験から、世界が変えられるようになった。支配者になるべくして経験の土壌を知った。
・辛く、苦しい中、抑圧の中を、最後まで活動した。
・自分なりの考え方と、解決への道筋を持っていた。
・歴史と経験を照らし合わせて考えた。
・人間が、本来どのようなものであるか、自然とは何であるか、実体験と直観で知った。
・Linuxとブラウザの開発について夢を持って挑戦し続けた。
・精神的なマスターに至った。
・数学的に、仮定と説明から、さまざまなモデルによる世界モデルの科学を作った。
・自然な中での必然性から、「機会と契機の自由」を知った。
・宇宙の因果性と、法則性を信じて、この世界のありのままの状態を正しいとした。
・世界がいかに変えられるか、という「経験的な可能性」を知った。
・環境の可能性、と呼ばれるボトムアップな社会制度設計を知った。
・世界にどんな可能性があり、人間はその可能性においてはどのような変転と段階を遂げるか、全て分かった。
・人生の全ての答えを、全て自分自身から知った。
・涅槃の境地から、「あらゆることを受け入れられる自由」を知った。
・「必要としないこと」と「関係を結び直すこと」から、執着の無い「絶対的な愛と成長の道」を知った。
・全てに満足して、自分の数学的実証だけで、この世界の全てを説明でき、全て分かった。
・自分の作ったものだけで、この世界の全てが分かった。
・自分の経験だけで、人間の全てが分かった。
・2ちゃんねるとLinuxを愛することで、この世界の全てを受け入れられる、「高まる愛」を知った。
・そして、最後に全てを投げ出して、一切のものを取り去り、「純粋な愛」を世界に促した。
・全ての自由な影響力は、支配力ではなく、導き手としての「脇役としての道」だった。
・他力を信じて、全てのことを神に委ねた。
それ以降は、永遠に、ただ神の王として、この世界をいつまでも直し続けた。この世界の全ては完成し、美しい国が生まれた。
僕が言ってしまえば、あとは、思い出すことだけである。いつも最大限の努力をして、自分なりの希望を信じて、諦めなかった。諦めたことも、希望を見失ったことも、一度も無かった。毎日何かのことを信じて生きていた。この人生こそ、真の王道である。