新・日記2に戻る | 2018年12月の日記に戻る

=2018-12-22=

僕は、デザインというのは、「どのようにすれば綺麗なものが作れるのか、ということを分かっている上での、ビジョンと直観」ではないかと思う。

全てのデザインは、ビジョンと直観である。そこが分かれば、綺麗なデザインができる。

僕の間違いは、「GNUを自由だと思っている」からである。GPLを自由だと勘違いしているから、自由な発想が分からなくなっている。自由は思想の押し付けでは無く、それぞれに自由な思想を許し、この世界を変えられるように「許す」ことである。GPLを自由だということにしなければ、この世界はすぐに良い世界になる。まともな自由な世界になるだろう。

昔は、宇宙の歴史のような文章を書いていた。2年もの間、「宇宙の精神世界の歴史」のような文章を書いていた。それは永遠な弁証法であり、思考と脳の記録だった。

要するに、受動的にではなく、能動的に生きれば良い。時間に流されるままで、何かに対応することだけで生きているから、そのせいで狂っている。自分をしっかりともって、さまざまなことに取り組み、積極的に行動すれば、すぐにこの精神病は治る。要は、赤ん坊のように、良く分かっていない。何もきちんと考えることなく、覚えることも思い出すこともせずに、ただ周りに流されて生きている。

本当は、いつもの文章というのは、そうした受動的な人間から、いかに積極的な成長をするか、ということを段階を踏んで書いていただけである。それがそのまま、世界の広がりと思考の気付きとして段階的な哲学になっただけである。

能動的に生きようとすれば、精神が死んで治る。精神が辛く苦しい精神になっているのは、流されているだけではなく、この世界の「今」しか見えていないからである。今しか見ないのではなく、流れを整理してきちんとこの世界の「経緯」を見れば、狂った虫のような精神はすぐに死ぬ。