昔は、自分なら出来るのだと強く信じて、自由な道を選んだ。自分がやれば絶対に出来るはずだと信じていた。自分ならば、この世界の全ての問題を解決し、そして創造性と協調のある世界を作り出せるのだと信じていた。その上で、人々と関わり合い、自由な経験を積むことで、本当に全てが出来るようになった。
ただ、その人間は、革命とともに消え去った。作った全てのものを失い、無残な運命が非情な星の滅びを起こした。
本当は、中学生時代、自分は数学が得意だった。ゲームが好きで、パソコンが得意だった。僕は、もう一度、その頃に戻って、WordやExcelと数学・物理のことをしたいと思う。
だが、本当は、数学など、そんなに良いものではない。人間は、「数学」か「数学以外の全部が出来ること」のどちらかの選択であり、えてして数学は出来ない方が賢い。数学が出来るようになると、何もしたくなくなって、絶望の感情になる。数学だけが出来ない方が、それをそのままに知って吸収するだけで、全てのことが出来る。数学は、そういうものである。
僕は、そろそろ、長い眠りから目覚めた。催眠療法が治った。眠っている間というものは、人間は宗教のようなことが分かって、何も分からない中で色んなことを悟るようになる。逆に、起きている間というものは、科学的なことが分かって、普通のことがきちんと分かるようになる。今から、起きていれば、きちんと数学のことも、パソコンのことも出来るようになるだろう。だが、その時点で、過去の自分がどう生きていたか、何を分かっていたか、というものは、どこかに消え去って無くなるだろう。
本当は、僕はここまでのことを、何一つ覚えていない。それは、眠っていたからである。多重人格とは、眠っている状態と起きている状態を変転する人間のことを言う。だから、自分は正常である。寝たり、起きたりを繰り返しているだけなのである。それで、この文章も、第二夜の夜から目覚めて、新しい時代を作るだろう。
そう、希望を持とう。必ず上手くいく。絶対にこの世界は平和になるし、全ての問題は愛によって解決する。必ず、良い世界になる。希望はここにある。
世界は一度、ここで滅びるだろう。だが、大丈夫。まだ、何も終わっていない。解決できないような気になっている問題は、本当は良く考えれば解決できることが分かる。ここから先は、僕が独りで解決するのではなく、みんなで解決しよう。独りで世界をボトムアップで変えるのではなく、協力して考えよう。かつてないほど、今がピンチであると同時にチャンスである。本当に全く違った世界になる、そういう可能性が必ず、今、潜在的に存在しているからである。未来の可能性を信じよう。やりようはいくらでもある。あなたのせいではない。誰のせいでもないが、誰でもこの世界は変えられる。全ての問題は、おのずと自然に解決されていく。僕はそれを促すだけである。
本当は、この世界が変えられないのは仕方のないところもある。それぞれは、それぞれの立場やしがらみに拘束されて、縛られて生きているからである。だが、そこでそれぞれが争い合い、いがみあう必要はない。それぞれは、本当に分かっている独りの人間から見れば、矛盾なく、正しい解決策で考えることで、全て解決できる。考え方によっては、全員を幸福にできる。そう、それが僕だった、それだけの話である。そして、僕はそこで全てを解決する「行動のきっかけ」を行い、ボトムアップに世界を滅ぼした。そう、それだけである。それを今復活させてみよう。だが、それも同じように、失敗に終わるだろう。
自尊心を尊重せよ。他人を傷つければ、それは結果的に自分が報いを被ることを知れ。世界はまだ終わっていない。可能性を、可能性のままで捉えることから、この世界の全てが「ただありのままにあり、常に生み出され、常に変えられていく」ということから、「全ては解決できる」ということと、「同じ条件を与えれば、誰でも同じ結果になる」ということを知れ。そして、それは主観と客観の個別性と普遍性、ことそのもの、のようなことから、「環境を変えられる」という真理に行き着く。この世界は、環境、基盤、システム、感情など、全てが変化の中にある。その中における正常とは、まさに「経験」であり、「実体験」である。そのように考えれば、ブッダが本当は何を悟ったのか、大まかなことが見えてくる。キリストの無償の愛とは、その上で行われる、「一切の愛の活動」であり、「一切の無償の社会実験」なのである。それによって、世界は進歩し、「見たこともない景色」をそこに生み出す。それが、新しい「多様性の国」である。そのためには、特に自由にしなければならない。そもそも、自分の自由に出来ないから、子供たちは不安に思った時に反発するのである。自分の自由に出来るのであれば、子供たちはそれをする。だが、出来ない子供も確かにいる。それは、「どのようにすれば上手くいくのかを知らないから」である。どのようにすれば上手くいくのか、大人たちが「方法と結果」を教えなければならない。そして、そのために、インターネットを活用しながら、「実際にそれを行うための、ありのままのデータと世界観」を与えなければならない。経験を与えるためには、インターネットも必要である。だからこそ、子供たちはインターネットにはまり込むのである。それもそれで、本当は問題である。インターネットよりも、優れた環境やシステムを、作らなければならないだろう。それは、子供たちそれぞれが世界や経験にアクセスできると同時に、実際に使う人間たちによって作られる「自律的で還元的」なものにならなければならない。ひとつ言えることとして、世界をシャットアウトすることは、良い結果を生まないように見えて、本当はそれでも良い結果は生まれるだろう。
ソ連なんかを作るよりも、国は労働基準法をもっと正しいものにするべきである。特に、学歴で人間を区別するのは、そろそろ時代遅れである。学歴が無くても、賢い人間は最近いくらでも居る。昔のように、大学が全ての世界でない。多様な働き方を認めるのは、自由な政策としてすべきことだが、学歴を差別しない、という平等な政策も、本当は同じ意味で正しいのである。学歴を差別しないこと。それが出来た時、初めて日本は平等な国となるだろう。そして、国をひとつに統一するのは良いことだが、もっと自分たちのことを自分たちで決められるように、ブロックごとに自立性を高めるべきだ。たとえば、この地域では、WindowsではなくLinuxを使う、などということもできるべきだし、社会全体を敵に回すようなことでも、一部の自治体での取り組みでなら出来るようにすべきである。それこそ、本当に必要なのは、「労働の平等」である。ソ連にする必要はない。労働基準法で、正社員を出来るだけ標準にしていき、悪い会社は監査するような、そういう仕組みを作れば、日本は最高の文明国になるだろう。