新・日記2に戻る | 2018年12月の日記に戻る

=2018-12-17=

みんなが、「本当は何を望んでいるのか」を考えなさい。口や頭ではそういうことを言いながら、みんなと一緒に生きる中でそういうことをするが、本当はこんなことを望んでいる、ということがある。社会全体についても、それが言える。そして、その望みを叶えてあげなさい。ただ、言うことやすることを叶えるだけではない。本当に望んでいることを叶えてあげなさい。それが、僕の一番の社会哲学である、「望むだろうことを叶える」という哲学である。

その時、一回きりで治すのではなく、時間をかけて、あるいは、時間がある時に、ゆっくりひとつひとつ治しなさい。辛い時は、もっと辛くしても治らない。そういう時は、楽をした方が治る。一回きりで成功する人間は居ない。何度も失敗して、繰り返して、やっと治るようになる。そのようにすれば、こういう辛いだけの精神病はすぐに治る。精神が楽になる。

「正しい失敗」というものをしなさい。そして、人々を支配するよりも、驚きと気付きを与えなさい。それで、世界は変わる。

Linuxやオープンソースは、アメリカの先住民族である、インディアン(と呼ばれる人たち。最近はネイティブ・アメリカンと言う。)と良く似ている。Windowsの猛攻に対して抵抗し続ける、善良な集団である。オープンソースは、インディアンである。

本当は、そんなに多くのことが政治家として出来るわけがない。それは、敵を生み出すからである。銃規制をするだけであっても、全米ライフル協会と敵対しなければならない。そんなに多くのことが、そもそも出来るわけがない。本当にやっていると、すぐに殺される。

だから、僕はそんなに多くのことをしようとはもう思っていない。僕がやりたいのは、著作権法とオープンソースだけである。だから、著作権法の「正しい改正案」だけを、僕はやりたい。たとえば、「キャラクターの引用」というものを作っても良い。盗用して自分が勝手に著作者だと名乗り出ないのであれば、キャラクターをコピーしても、「引用」として許されるようにする。そして、プログラムコードについては、「表現的な著作物と、形式的な著作物」という明確な分類を設ける。このうち、表現的な著作物は、勝手にコピーしてはならない。これは、芸術的絵画のようなものに言える。だが、既に公開されているプログラムのソースコードについて、盗用したり、自分が勝手に著作者だという「権利の主張」をせず、また著作者がこの人間であるという、「一意性の明記」を行うのであれば、形式的な著作物は、コピーしたり再配布したり改造したりしても、単なる「データの移動」として罪に問われないようにする。そして、書籍や文章についても、権利を勝手に主張せず一意性の明記もすれば、これはコピーしても許されるようにする。だが、ここでもう一つ、ルールを作る。それは、「悪意や被害のあるコピーをした場合は、別途罰則を与える」というルールを作ることである。

だが、この法律も、そんなに簡単ではない。ディズニーのような既得権者だけではなく、IT業界や出版業界、音楽業界やデザイン業界など社会全体を敵に回すからである。そういう、「社会全体を敵に回すような政策」というのは、民主主義では成立不可能である。

だが、僕はソ連にして全部を解決したいとも思わない。また新しい問題がたくさん出て、そのせいで独裁者がひとりで解決する、独裁者の国にしかならないからである。僕は、そういう、絶対権力者の独裁者にはなりたいと思わない。

現状で可能なのは、ストールマンとFSFの活動を支援すること、ぐらいしかないだろう。僕は、国としてFSFの活動を支援することは出来ると思っている。それから、Officeスイートのような標準的ソフトウェアについては、ファイル形式をオープン標準のものをデフォルトにするように国が要請する、ということも出来るかもしれない。オープンなファイル形式をデフォルトにすることを義務付けることで、別の会社が製品を開発することができる。WindowsのAPIもオープン標準にすれば、きっとLinuxでもWindowsアプリケーションが動くようになるだろう。だが、出来るのはそれくらいである。何が本当に出来るかは分からない。FSFも必ずしも支援できるとは限らない。だが、きっとこの世界はもっと良い世界になるだろう。Googleのように、なし崩し的に世界を変えることは考えられると思う。