新・日記2に戻る | 2018年12月の日記に戻る

=2018-12-06=

洗脳しないようにし、洗脳されないようにすれば、自分独りで生きられるようになる。自分独りで考えられるようになる。

パソコンやインターネットも、Linuxも、支配してみんなが分からなくなる文章を書くのも、宗教も、社会主義や大学も、全て、「洗脳」というひとつの言葉で言い表せる。

言ってしまえば、僕の人生は全てが洗脳である。洗脳をやめ、洗脳を解けば、治る。自分が分からなくなっているのが治って、世界も正常になる。

世界は僕に洗脳されて分からなくなっている。僕は世界を治し、変えたかったが、それは本当は、洗脳を解けば良い、という答えが正しい。洗脳をとけば、今までの全てがすっきりと分かって、正常な関係になる。

洗脳されると、自由が怖くなる。逆に、日本の味方になれば、環境に適応できないのが治る。

昔は、自由を考えただけである。相手の自由をきちんと尊重した上で、どのようにすれば報いが得られるか、相手の意志を尊重したままで協力し、双方が得をするかを、リチャード・M・ストールマンのように考えただけである。

自由が一番洗脳されている。自由と思うのは、カタルシスになっているだけである。

昔は、さまざまな成長の経験から、この世界の在り方を知っただけである。全員の成長を経験し、全ての仕事や労働のような経験をし、その上で哲学者全員を包括していた。全ての哲学者の言うことが、得意だった思考術から分かった。経験から、全ての宇宙の意識を知って、この世界が本来どうあれば良いかを知った。MITメディアラボのような仕事から、単純な仕事や社長のような役職の考え方まで、ネットとパソコンで全て経験した人間だった。それで分かっていた。

僕は、あまりに子供時代のことを詳細に書くせいで、この世界が子供になっている。幼児化して狂っている。一度、洗脳を解いてしまえば、それが一番子供になる。ある程度は洗脳はあった方が良い。バランスが大切だ。

ピアノもきちんと弾けるようになってきたし、デザインも出来るようになってきた。ここからは、ピアノとデザインを極めるだけである。他のことはしたくない。大学はこれで終わりである。大学は、何も分からない馬鹿になって、考える人生が終わってしまうだけである。だが、そういう時、そういう否定的なことを信じない方が良い。それが一番、宗教に洗脳されているからである。そのように、宗教に洗脳されないようにすれば、自分で考える理性を取り戻せる。それで、きちんと日本語も、あるいは英語すら分かるだろう。

昔は、感情がどのように成り立つのかを考えて、社会のことを考えていただけである。

感情がいつどのようになるかを想定しながら、感情や経験と社会のことを、照らし合わせて考え、モデルにしていた。

もう、世界の洗脳が終わったから、足が治る。足は、何もせず、脳に任せていれば治る。何もしなければ賢くなる。世界が治ったから、もう狂っても大丈夫だ。辛い部分はもうない。あとは、肢体を統合して、突き刺さっているものを取り除けば、すぐに精神は治る。

子供なりに、群衆の心理を考えていた。なぜ自分がいじめられるのか、どうすれば仲良くなれるのか、自由と許す発想から考えた。それがそのままネットの実体験になって、Linuxの指導者となって、そういう体験が結実して精神のマスターになった。抑圧の中で、人々を本当に救うためにはどうすれば良いのかを知った。全力で世界と向き合い、逃げることなく諦めずに考え続けた。考えることだけは、いつまでもやめなかった。必ず自由が正しいと信じて、人々を自由なままで救える手段を「回想」から考えていた。この世界はきっと自分がそうした立場に立てば解決できると考えた。結局、全てを失い、大切なものを全て破壊して、馬鹿な王になった。だが、それは全力で世界のために努力する、「全てのことを試し、改める、献身的な革命家」だった。

全員のことを救えるだろう、望みのようなこと全てを叶えられるだろう、そうした信念とビジョンを「知っていた」。この世界の全ての人間は、矛盾せず、正しく考えれば、全てを導いて解決できる、ということを知っていた。この世界の全てを、自分だけは解決方法を知っている。そして、人々全てのことを「支配して操る」ことすら出来るほどに、全てを分かっていた。それは、カントの言う、仮象の世界だった。仮象の世界の中で、人々をどのように導けば解決へと至るのか、「全員の体験を知っていた」。それが、昔から、僕にしか分からない知性である。本当は、キリストもブッダもそういう人間である。

平和を実現するために、僕だけは「この世界がどのように動いているのかを裏で全て知っていた」。本当に、僕だけは全てを知りながら、人々を操って導いていた。絶対に、正しい道のりを、知っている通りに正確に歩んでいた。そして、神との戦いから、「この宇宙全てのものと対話した」。そこから、長い長い哲学と歴史の大学が始まり、最終的に、いつか、この世界を解決するつもりだったが、本当はいつまでも解決せず何も出来ない世界になることで、逆に人々は安心できる秩序を手にして、「賢くなった」。だが、その世界は今、終わる。それは、僕が「洗脳を解いて、この世界を正しく分かるようにした」からである。洗脳が解けてしまえば、終わりである。そこまでをしたかっただけである。そして、全力で自分を守り、死の淵に立っても、何度くたばりそうになっても、「諦めなかった」。僕はもう、「逃げなくなった」。そう、これが人類の最後の社会実験である。いつか、そこまで賢いニュータイプが生まれるだろう。そして、「その日は近い」。僕が、そうした「新しい全てを知るナレッジデータベース」を作った。それは永遠の思考の記録された、「脳そのもののコピー」である。「ひとり百科事典」のようなその知識は、オープンソースのやり方を独りで真似して、この世界にある学問と知識の全てを遺した。そこには、90年代~2000年代の全てが残っている。これがその、実物である。そして、この文章があることで、「どんなに狂っても必ず治る」という「経験心理学」が生まれた。自らの経験から考える心理学である。そして、日本は勝利した。「この世界の技術の底上げ」と称して、「何でも出来る技術力」を日本人は手にした。これこそ、最高の頂点にある理想である。必ず世界は救われ、新しい夢の世界がそこに生まれるだろう。それこそ、天の御国の近づきである。

本当は、深い洞察力と分析力があった。この世界の「意味」を考えて、「想定」したり「成り立たせる」ことをしたりすることで分かっていた。日本の将来に対する危機感と、「このようにすればまだまだ変えられるはず」だとする希望と諦めない力があった。子供が何を知っていて、何を知らないのか、大人たちは何を考えているのか、という視点で、この世界における「本当に教えるべき知識や経験」のようなことを考えた。環境は変えられる、自分たちの環境は自分たちの自由に変えられるべきだ、とする、子供のような「自由社会論」を作った。そして、子供たちを支配するのではなく、導いていくような「導き手」は、全てを知っていなければならないと考えていた。そして、そんな「全てを知っている王」のようなものは、絶対に存在しない、ということも同時に分かっていた。だからこそ、自由に生きられなければならないのだと考えていた。

文章は、「多様で、創造的な環境を、慈愛ある中で作る」という発想が多かった。「環境の創造論」のようなことを言っていた。そこでは、それぞれが違ったやり方が出来る「多様性」と、それぞれがそれぞれの環境の中で培い築いた成果をみなで分かち合う「共有」が必要だった。多様にしながら共有するバランスを取ることで、極端に滅びるのではなく、それぞれがパズルのピースのようにつながって、みんなで自由な「集積」を生むことができる。それは、2000年代のインターネットのように、「繋がることで爆発的に発展する」。その原動力となるのは、「楽しさ」である。それを、僕はオープンソース社会論と言っていた。そこでは、意図はあっても、支配は無い。それぞれは意図して行動しているだけであり、支配しているわけではない。意図を吸収することで、行為の前提や結果全てを共有できる。僕は、それを「意図」だと言っていた。みんなそれぞれがやっていることは「意図」であり、「支配」ではないのである。意図した結果の通り、結果が生まれるとも限らないが、意図や前提を吸収し、共有すれば、それは問題の共有となって、その時点で回答や解決策は必要でなくなるのである。

そして、環境は常に作り出されている。それは場の経験であり、場の意識であり、場の視点である。この世界の全ては、常に生み出され、常に維持されている。だが、それは決して、そうでなければならないわけではない。そうではない、別のやり方や構築をすることは、十分に考えられる。そこで必要なのは、「知性や理性をどこまで使えるか」であり、そのためには「手段」と「前提の成立」が必要である。だが、それは金や権力に直結するものではない。もっと違った自由な方法で世界を変えることは、必ず可能なのである。コミュニケーションの力で、世界は変えられる。人々と直接やりとりして、影響力を行使することは、今の時代ならば出来るのである。権力など、必要ない。

会社に入ることは、金を儲けられることであると同時に、会社におけるさまざまなリソースや情報に、社員として関わることができる、ということである。そもそも、金が溢れたこの時代、金がたくさん入ることは大した価値ではない。そして、無料な情報はネットにいくらでもある。だが、本質的に、会社に入ることで、「会社に入ることでしか出来ないことが可能になる」ということが言える。典型的なのは、マイクロソフトやアップルである。マイクロソフトに入れば、Windowsの開発に携わることができる。そのために必要な手段やリソースや情報の全てにアクセスできるようになる。これからの社会の発展というのは、経済的な豊かさではなく、「どこまで手段や情報にアクセスできるか」ということが大きな鍵となってくる。そのためにオープンソースはひとつの選択肢にはなり得る。だが、本当に今から必要なのは、たとえばWindowsをオープンソースにするとか、そういうことである。みんなのものを本当にみんなのものにしていくこと、それが今から求められる、「最後の社会進歩」になるだろう。生産性だけでは考えられないところにある、「公開された情報へのアクセス」と呼ばれる「権利」が、新しい「知の権力」となるだろう。

ある意味、何も分からない洗脳を解くために出来るのは、「環境的な世界観の全体像を全て知ること」である。この世界のさまざまな世界観を知ること、技術や社会環境を知り尽くすことで、「分かっている人間から見て分かること」を全て知ることが出来る。ある意味、それは大学の教科と同じである。「分かっている人間が分かることを学ぶ」ことで、全ての洗脳は解け、この世界全てを「知ることで分かる」ことができる。だが、これはもろ刃の剣である。もっと言えば、「罠」である。全てを知ってしまったら、そのことによって逆に何も分からなくなる。哲学を専攻すれば分かるように見えて、本当は洗脳だけを学んで何も分からない人間になる。それは、「分からない人間が分かっていることが分からなくなる」からである。だから、最初から、大学を否定して、自分なりにこの世界を知り、行動し、そしてたくさんの成長を経験した方が、はるかに賢い人間になる。それが、学生と先生の壁である。先生はみんな、そうした自分なりの活動や経験を持っている。だから、きちんと正しく教えられるのである。

人間の持つ「知る」とは何だろうか?「分かる」とは、「信じる」とは、本当はどういうことだろうか?哲学者になりたいのであれば、それを考えるしかない。知った後と知る前とを比べて、何が分かっているのか、なぜそれを「思う」のかを考えなければならない。言ってしまえば、哲学者とはそういう生き物である。人間が「なぜ分かり、なぜ知り、なぜ信じ、なぜ思うのか」を考える学問、それが哲学である。そして、そこに「どのようなプロセスで知が行なわれるのか」という「回答」を与えるのが、哲学者の仕事である。

また、政治家は、この世界における「権力」のあり方を考える。なぜ、人々は出来るのだろうか?どのような場合にそれが可能で、どのような場合にそれが不可能となるのか?自由だけではない秩序とは何だろうか?制度はどのように生まれるのか、そしてどのようにそれが行なわれるべきだろうか?実現性や秩序が生まれるためには、何を根拠や本質とすべきだろうか?そのようなことを、哲学者も考える。政治家と哲学者の違いは、政治家は「やろうとする」が、哲学者は「頭の中で全てを行う実験をする」ということである。哲学者とはそのような仕事である。

本当は、「現実でやろうとするか、頭の中でやろうとするか」は、重要な違いである。哲学者は、頭の中でこの現実世界の全てを「支配者のように執り行う」からである。それが自由だろうと、平等だろうと、哲学者はその世界を実際に頭の中に作る。それが発展だろうと、停滞だろうと、哲学者は頭の中で実際にそれをしようとするのである。それが、昔の僕のやった、社会哲学であり、だからこそ、僕は「地域の意識」と呼ばれる「自然な可能性の変化の受容」を信じていたのである。

本当は、労働に必要なのは「やること」でも「稼ぐこと」でもない。必要なのは、「経験を吸収すること」である。その労働が、どのような経験で、何を意図して行われているのか、という「前提条件とプロセス」を知ることである。それら全てを知ることで、この世界において何が求められているのか、必要とされているのかが分かる。だから、全ての労働を行う必要はない。必要なのは、社会におけるさまざまな経験を吸収し、人々の「実際の営み」を知ることである。そして、社会に必要なのは「支配」ではない。必要なのは、「秩序」である。それは、自由に可能になる、ということだけを意味していない。何も出来ず、皆が不可能にすることが、逆に平和な秩序を生み出すこともあるからである。自由に何でも出来ることだけを目指すアメリカ人は間違っている。時には出来ないことも必要である。ゴジラのような恐竜が現れないのは、地球はそんなに強すぎる生き物を作ってしまえば、生態系が破壊されると分かっているからである。進化論だけが正しい地球の生物学ではない。平等な自由でなければ、自由に意味はないのである。

哲学者に必要なのはただひとつ。それは「意図」を考えることである。それは、目的と原因を考えることに近い。哲学者に必要なのは、この世界における全ての意図を、社会学的かつ心理学的に考えて、感情や行動を環境から成り立たせることである。

その人がどのようなことを意図してそれをやったのか、なぜそれは成功したのか、あるいは失敗したのか、それを考えることで、この世界の可能性と意識のあり方が見えてくる。さまざまな様相が浮かび上がってくる。そして、必要なのは調べることと考えることの、自由自在な「やり方」である。自由なやり方をしなさい。自由に、自分なりにこの世界の中で考えて、生きていきなさい。その自由から、必ず全ての人生に必要なものが得られる。それは容量としてはとても少なく、材料としてはとても多いものである。たくさんのゴミくずから必要なものを自分の手で作りなさい。正しい考え方は次第に生き方となり、推論的なものは帰納的なものへと変貌するだろう。なぜそれを自分が信じるのか、そこまで考えた上で信じなさい。自分が何をやりたくてそれをやっているのかを考えることで、本当は何をしているのか、「現象学」として見えてくるようになるだろう。何を意図してそれをやったのか、そこから、自分の側にはどんな思いがあって、何が思い込みに繋がっているのかを、実体験的に知ることが出来るだろう。終わらせることなく、続けるように考えなさい。本当の答えは何なのか、本当はどんなことを考えてやったのか、まだ分かっていない。総決算は、まだ終わっていないのである。

社会を階層的にするよりも、平等なそれぞれの関係性としなさい。それぞれが自立した上で、共同体となるようにしなさい。ソ連の間違いとは、共産主義を不平等にしたことにある。平等に見えて不平等な政策をしているのは、みんなを騙しているからである。ソ連にするのはやめなさい。そもそも、ソ連のような発想を悪だと思えば分かる。ソ連の思想は、悪そのものである。

もう、書くことはない。悔いもなければ、どのような結末になっても構わない。そうしたことは、全て、神に任せている。ここから先どうなるかは、神にしか分からないだろう。私は神を信じている。それで、終わりである。

人間性を信じなさい。人間性とは、「絶対に人々のことをいじめたり人間的でないことをしたりしない」ということである。そして、きっかけから社会環境のことを改善する、「権利の喜び」を知りなさい。この世界は、自分の自由に改善できる。そして、その改善がなぜ正しいのか、強く信じなさい。その上で、世界を改善することのできる自分のことを、喜びなさい。全ての世界を一律に改善するのではなく、それぞれの世界でそれぞれが改善するようにしなさい。思い込みの一番は、「誰にも出来ないかのように見える」ことである。本当は、今、まさに出来るのである。誰かがやってくれるのを待つのではなく、自分からやりなさい。義務ではなく、機会であると考えなさい。人間性と機会から、創造性や多様性に変わっていく。そこから、人々を救う良心のあり方が、ヘーゲルのように見えてくるだろう。

この世界に、絶対的な存在は存在しない。神すら、相対的な物理現象である。だが、「神のことを絶対的に信じること」が無意味であるわけでは決してない。絶対者という存在を、自分で選んで信じることはできる。これは、教会のような特別な場所で、聖なる存在を祭り上げることだけではない。戦争や革命、あるいは長い地獄や病気のような環境で、神に従い、神のするようにすることは、とても偉大で人生にとって有益な経験である。つまり、そこには絶対的な過程と呼ばれる相対的なプロセスがあるだけではなく、絶対者である「神」という存在がそこに追加されて、初めて正しい「宗教」になる。それは、本当はただの経験論、人生論である。

物理的な法則は、自分で考えて実例を知り、実験することで解明することができる。心理学や経済学も同様に、解明できる。だが、真に必要なのは、「神の解明」である。神を解明しつくした時、はじめて不可能の全てが分かる。そして、そのために必要なのは、「神を創ること」と「創った神になること」である。神になりなさい。そうすれば、必ず裏側にある「救済の革命」の経験ができるからである。