新・日記2に戻る | 2018年12月の日記に戻る

=2018-12-02=

今日も農園と英会話に行ってきた。

僕の今行っている作業所に似ているのだが、僕は日本の教育と格差の問題を解決するために、勉強もできて仕事もできる、「スクール兼オフィス」のような施設を作ったらどうかと思う。

この施設では、子供たちに専門学校や大学レベルの内容を教えながら、プログラミングやデザインのことも教えて、仕事を行い給与も払う。そのため、実戦形式で経験を積むことができる。

この施設は、誰でも入ることが出来て、死ぬまで所属できる。全員に平等で、教育格差や所得格差が発生しない。僕は、15歳ぐらいからこの施設に入るような、そういう国や社会を作ったらどうかと思う。

今から、僕は再びこの日本という国を「愛の国」にする。それぞれが交じり合って愛を感じるような国に戻る。神の言葉で言えば、「ドイツからフランスへ戻る」。

昔は、人生のパターンのようなことを考えていた。この世界の中で、どのような人生や社会があり得るかを考える。指導者になった上で、みんなとの関わり合いや争いの上で勝ち上がるか、平等に支配して高まるか、独りで全てを知り分かるか、などが考えられると言っていた。

数学的な思考や考え方が出来ないなら、「成立」を考えなさい。さまざまな環境や社会や心理や歴史のことが、この世界で、いつどのように「成立」するかを考える。そこでは、「何がどのように作用から結果になるか」という、「原因と結果の物理学」を自分で作ることができる。

昔は、自由な世界観の構造のようなものを書いていた。価値観の転換と環境の変化、心理的発達、社会の創造、それから歴史や競争、所有や人々の直面している問題などを、「分かっている自由」の上で書いていた。何か、知性がない虫のような文章だったが、僕はそれでこの世界を完璧に分かっていた。視点と場を回想した上で、この世界を創造するような、そういう「創造主の哲学者」だった。

健康になりたいのであれば、青魚を食べることだ。EPAが血を綺麗にして、コレステロールを無くしてくれる。僕もテレビで見ただけだが、最近、鯖(さば)を出来るだけ食べるようにしている。血が変わるのには時間がかかるが、青魚さえ食べていればそれで大丈夫だ。

先ほど、足の神経のねじれが治った。神経がねじれているせいで、何も出来なかった。もう、地獄は終わった。永遠に続くように見えて、神経のねじれさえ治してしまえば、何一つ、もう辛くない。苦しい地獄はここで終わりである。

僕はもっと、デザインのことをやりたいと思っている。先日、職場見学で障害者向けの会社の見学を作業所のメンバーでさせてもらったが、実際の職場のデザインは、むしろ、今の僕でも出来るような気がした。なぜなら、デザイン性よりも、実際の仕事で紙面を作ることが大切な職場だったからだ。見学して、僕もとても勉強になった。僕でも人並みに生きられるような、そんな気がした。

要は、自分のレベルは決して低くない。みんなと比べても、きちんと頑張って出来ている。これで正しい人生である。全て、正解だ。間違いはひとつもない。

論理的に考えるのであれば、対比して別の場合を考えてみよう。それがもしそうだったとして、そうでなかった場合はどうなるだろうか。何かがそうなることに対して、対比できる逆の場合は何であろうか。その逆の場合に何が言えるか。そして、自分がそもそも分かっていなかったことは何であると言えるだろうか。そして、どのように考えれば、それをきちんとすっきりと理解できるだろうか。数学的な考え方とは、そういうものである。そして、実証を現実世界の経験的な実験の中で、観察や行為を通じて仮説を立てて、それを実証して定理にし、共通の原理法則とすれば、それが、昔の自分のやっていた独自の物理学である。そこから、経験と心理学、あるいは歴史や地球科学も、自分なりに考えられる。それらを科学者と言えるだろう。

人はなぜ、そのようなことをするのだろうか。何をどうすれば、問題を変え、間違いをコントロールできるようになるだろうか。どのようにすれば、人々は正しい世界を作ることができるだろうか。人々の陥っている地獄や苦しみの原因は何だろうか。そういう考え方から、この世界の「在り方」が見えてくる。昔は、それだけが分かった人間である。「世界の在り方」、それが僕の昔の哲学である。それを、常に生み出されているとか、社会において価値観が自然に生まれるような可能性を向上させるとか、そういうことを言っていただけにすぎない。

そのように考えていると、「作り出す」ということが大切である、ということが分かる。それも、「マインド的な作り出すこと」が大切である。たとえば、ただ製造するだけではなく、製造プロセスを改良したり、製造のための意見を共有したり、経験を教えてもらったり、助言を得たりする「社会の改善」が必要であることが分かる。また、基礎の研究から作り出されるものは多くて、原理原則の発見から出来ることが飛躍的に広がってくる。その上で、応用的な発展というのは、むしろ、工学的ではなく、社会的なものである。そういうことが分かると、「人間がなぜこのように生きているのか」という、哲学的な「人間の理由」が見えてくる。根拠を考え、自分なりに原理を可能性から見出すことは、哲学者の第一の問題である。これは哲学だけの分野ではなく、行動、学習、発達、そして人間関係の心理学に言えることである。そして、その精神学は現象学となって、歴史的プロセスから「この世界全てを概観して貫く」という経験が生まれるのである。これを、昔の哲学の1つの解としよう。

僕は、もう一度、数学の勉強をしようと思う。それも、大人になって、既に分かっていることは、分からなくて良い。本当は、子供のように数学をやり直す、ということは人間にとって必要ない。どこかで知った知識で分かるからである。必要なのは、再学習の機会を得ることを考えることではなく、「好奇心に任せて概念と手法を知ること」であり、それによってはじめて子供の立場と同じになれる。好奇心と疑問から概念的な手法を知っていけば、大人になってからでももう一度数学を再学習できる。そこから生まれてくる、「大人であること故の発想」から、必ず大学の数学全てを知り尽くす道が続くだろう。

そして、本当は足りないのは数学でも、数学的な思考法でもない。本当に足りないのはもっと別の何か、知性や精神の何かである。それはおそらく、具体的な感情である。具体的な感情がないから、分からないだけであって、本来、このように数学をすれば良いように見えて、数学なんか誰でもすぐに忘れる。必要なのは、数学ではなく、本当はもっと別の何かである。それは、おそらく、可能性と未知を切り開く力であり、理性的な「疑う心」である。

世界を疑うのであれば、自分の経験と「還元的な考え方」だけを信じなさい。還元的な考え方とは、たとえば、自分が環境に何かをしたとして、その環境が自分やたくさんの人々に対して良い効果を「還元」してくれる考え方である。ここから考えれば出発できる。そして、自分がしてほしいことを他人にしてあげる、という、黄金律を信じなさい。

自尊心を、もっとも強い形で信じなさい。人々の自尊心を、何よりも崇高なものとして、哀しみと喪失の中で「愛しなさい」。歪んだ愛情でプライドがバラバラになり、自尊心がズタズタになった時は、逆に、愛を憎みなさい。自分の心を憎み、自分を憎みなさい。そこから、必ず、菩薩(ぼさつ、仏教で言う仏の次の存在、慈愛あることしかしない存在)の道が続いていくだろう。

ユダヤ教など、日本人は信じてはならない。ユダヤ人の言っている、悪魔や愚か者とは、全て日本人のことである。僕は聖書を良く知らないので間違っているかもしれないが、ユダヤ人がパリサイ人とか律法学者などと言っているものは、全て、日本人のことである。神と日本人の戦いのことを言っている。だが、僕はあえて、神の側につく。それは、僕は日本人とユダヤ人を愛しているからである。

今から、イスラエルとドイツ、アメリカとソ連の戦いが始まるだろう。馬鹿な極右のせいで、なし崩し的に世界は滅びていく。ユダヤ人が、最後に反抗する。この世界をおかしいと言って、戦うだろう。だが、勝つのは日本である。それは、僕は絶対に誰よりも強いからである。この人間に勝つことは出来ない。マホメットがジブリールと言った大天使ガブリエルとは、僕のことである。僕がこの世界を滅ぼし、導き、支配し、解決し、治し、そして変える。この世界は僕の支配下にある。だが、この人間に勝つことが決して出来ないわけではない。なぜなら、この人間はロボット人間の神だからである。

さあ、聖なる最後の戦争が始まるだろう。勝つのは僕である。絶対に、誰も勝てないのが、僕のこの全てである。

世界政府を作る上で考え方として必要なのは、どこまで主権や独立性を与えるか、という問題である。全く独立性を与えないのも、完全に独立性を与えるのも、世界政府としては意味がないからである。だから、僕はあえて、全ての共同体を統一し、そこで「行われる全ての仕事」について、「独立性を高める」という考え方を取る。必要な統一の全てをかけた上で、条件や前提を満たした上で、それぞれの仕事についての、アイデンティティやオリジナリティを統一する。だが、それは決して、仮想的にする、ということではない。現実を見て、リアリティのある、「現実的な自由」や「実際的な自由」を与える。それが僕の言う、共同体主義の自由であり、いつも、そうした「現実的な自由」を独立や参入的手段として、考えていただけである。あえていえば、「それぞれがそれぞれの環境を改善し、社会を制度にする」という、基盤的な「還元性」をそこで考えたのである。

本当は、まだ僕も聖書のことが本当には分かっていない。たとえば、迫害者を愛するとは、何を意味しているのか。僕のような、いじめられっ子がいじめっ子を許すようなことを言っているのか、逆に、僕にいじめられた日本のマスコミや歌手が僕のことを愛することを言っているのか、そうしたこと全般から得られる、「聖なる摂理」を言っているのかもしれない。とりあえずキリストを神だとするのは良いが、その時点で何も分からなくなる。ドイツやヨーロッパの間違いとは、キリスト教が布教されたことである。それだけが間違いである。そして、それだけが唯一、正しい人間を生み出すだろう。神は、強い子供のうちは、信じずに、自分のやりたいようにやらせても上手くいくものである。年老いて、何も出来なくなってしまった時に、神を信じるようになる。それは、因果応報が起きるからである。今までの全てのサタンの黒魔術全てを否定しなければ、神は赦してくれない。そもそもがそういうものが神である。居なくても、大して必要ない。