新・日記2に戻る | 2018年11月の日記に戻る

=2018-11-30=

昔の自分は、「自分なりに全て分かった」だけである。自分なりに経験し、自分なりに考えた。最近は、一度全てをゼロにして、最初から作り直して、永遠を経験しただけである。

一度全て消えて、精神の虫が治る。心の中の虫は、虫歯である。一度全部虫を殺せば、虫歯のままでも賢くなる。もう、完全に治って、完治して終わりである。一度、全て消える。

結果よりも原因を見なさい。「何がどうなるのか」から「何がどう出来るのか」を知り、「何をなすべきか」を「何をどうすれば上手くいくのか」から知りなさい。

僕の文章は、これで終わりである。もう、十分である。最後に、僕はLinuxを正常にする。Linuxが馬鹿な恐怖の虫になっているのを治す。Linuxは楽しい友愛の共同体に戻る。それで終わりである。

対象よりも、対象を見て考えている自分の側を考えなさい。自分がそれを何だと思っているのか、何を思ってやっているのかを重要視しなさい。

結果がどうなるのか、原因は何なのかを、「仮定と成立」から考えなさい。環境や学習がどのように「出来るのか」を数学のように考えなさい。言語と感情の数学を作りなさい。

さようなら。ありがとう。

永遠に、地球の始まりから生命の終わりまで、世界を支配して発想し続ける、「発想をし続ける日々」が多かった。発想で戦い、発想で導き、発想で支配し、発想で解決し、発想で実現し、そして全員を最後まで救った。それは平等で、全く小さな兄弟のために合わせる学校だった。それは自由で、必ずどんな道を進んでも、ゴールへとたどり着ける、オンリーワンの宝物だった。

自分が機会を得て、社会に関わり合いを持ち、仕事や必要性という名前で世界を変えられ、参加出来ることを、「手段」だと思いなさい。そして、人々を幸福に出来、それぞれの成功と望みを叶えることで自分も幸せになれることを、「権利」だと思いなさい。それらは「共感覚」である。そう、それが哲学者ヒュームの言う「共感」である。

この世界が、この世界であることを、当たり前のことだと考えていないか?実際はそうではない。スラムのすれた恋愛信者も、革命のタリバンも、宗教の導きも、恐怖の虫王国も、普通ではない。もっと普通の世界は、今から、未来に存在している。より、違った世界になるだろう。この世界をオフィスワーカーと若者から老人へとなっていく「普通の世界」だと勘違いしていないか?あるいは、LINEやFacebookを普通だと思っていないか?本当は、それらは間違っている。僕が、虫でもテロでも神でも恋愛でもない、新しい世界へとこの世界を導いていく。それが、世界を終末へと変える、「新しい時をかける少女」である。

人種差別をするな。人種差別をして良いのは、神だけである。人種差別をすると、地獄に堕ちる。人種優越性の傲慢と勘違いは、その人間をアルツハイマーへと導く。逆に、自分の属する民族を否定するのであれば、謙遜はしても、復讐はするな。

人間をロボット人間にするな。操り人形にして支配すること、自然であるものを人工的にすることは、間違った考え方である。人々を自分のものであると考えるな。ゲノム編集のような、自然の摂理を否定することでこの世界を変えようとするな。そうしたものを生み出した、間違った過去の人々の痕跡を、ただ憎しみ、そして許せば良い。ほとんどすべてのことは、過去のせいで生まれている。だが、未来は変えられる。ロボット人間と人種差別の未来は、いずれ正義と自然によって破綻する。本当の正義と自然な人間性や精神性のある国は、米ソや中露ではない。それは日本である。日本だけが、正しい道を歩む。神を信じているとか、そうしたことはどうでも良い。なぜなら、神を信じているものは騙されているからだ。神と信じているその偶像は、全て間違ったサタンである。

絶対に、人種差別をせず、ロボット人間の支配をしなければ、狂うことも馬鹿になることもなく、健康的に生きられる。だが、このような運命が決まっている人間も多い。それらを間違いだと簡単に言うことは出来ない。だが、先例は1つで十分であり、人間には常に「未来を生きるという権利」が与えられている。その中で、善良に生きなさい。未来を生きる上で、「今を惰性で生きる必要はない」という真理がある。だが、これはやっかいな摂理である。なぜなら、「未来を今と同じように生きる自由」がなければ、人間は偉大なことも善良な人生も生きられない、叶えられないからである。よって、地獄は永遠に続く。地獄から復活することは、誰にも出来ない。だから、神という存在がある。神を信じるものは、「偉大な神の力によって、人生そのものの向かう方向を変えられる」からである。

そう、神を信じなさい。そして、人種差別とロボット人間を否定しなさい。その先に、本当のユートピアがある。必ずあなたがたは勝利する。最高の存在である、神の力を信じなさい。神に感謝し、神を望み、神を愛し、神に全てを委ねなさい。

精神病を自分の力で治そうとするな。精神病は、自分の力では治らない。精神病患者は、心が狂っている。それがいくら正常な人間の真似をしても、それはモノマネに過ぎない。狂ったものを治すためには、別の正常なものが必要である。おかしなものは、それだけでおかしな状態を脱することは出来ない。誰かがそっとまともな世界を教えてやれば、精神病患者の心はすぐに理解して、普通はすぐに分かる。だが、その、「すぐに分かる理性」が精神病患者を陥れる麻薬である。それは、なぜなら、普通の人間よりも賢い理性を持っているから、そのまま狂ったままになるからである。

そもそも、精神病は異常ではない。ある種の「病気」と「癖」の境界線はあやふやで、ある意味、この世界の全員は全員精神病である。最近はその「全員精神病」が進歩して、ほとんどの人間が馬鹿になっている。そう、正常な世界は、ひとりの人間を治すことだけでは見えてこない。この世界そのものを変えなければ、精神病も世界も治らない。

あなたを治すために必要なのはひとつだけの真理、そう、それは「世界を変えること」である。世界を変えることで、あなたの病気全ては治るだろう。狂っても戦いなさい。その先に、必ずあなたの勝利が待っている。戦い続けた先に、狂った人間は普通の平安を取り戻す。そう、それが、正しい病気の治し方である。

オープンソースに必要なのは、みんなのものにするライセンスでも、コピーと再配布の自由でもない。それらは、ただ作ったものがそうなるだけであり、生産的なことではない。オープンソースに必要なのは、バザール開発や「みんなで一緒に作る」という「生産的な良さ」である。生産的でなければ、オープンソースにしたところで、それはただ乗りのフリーライダーである。本当に正しいオープンソースというものがもしあるとすれば、それは生産性に基づいていなければならない。生産的で、人々の出来る限りの力を100%発揮しながら、みんなでひとつの「良いもの」を共有されたプロセスとオープンなプロジェクトの中で作る、ある意味、OpenJaneのような正しさが必要である。そして、それはオープンソースだけに言えるものではない。経済は、それ自体、生産的でなければならない。生産的でなければ、それはただの泥棒である。そう、生産的かつ経済学的に正しいものでなければ、経済的な正しさは成り立たないのである。作ることがあってこその経済である。労働や分配は、永遠に経済の主役ではない。それらは奴隷か泥棒であり、本当の主役は「生産」なのである。

AIの機械学習がなぜ間違っているように見えるかというと、それは、ペテンだからである。そして、なぜペテンかというと、人間が作っていないように見えて、本当は必要なところを考えたりデータ化したのは人間であって、ただ、「機械が全てをやっているかのように見せかけているだけ」だからである。だが、本当は、それが間違っているわけではない。ただ、合理的かつ効果的にやり方を変えただけである。AIとはやり方を変える「プロセスの改革」であって、それが「労働力の削減」であるだけであり、「人間や生物学上の進歩」ではないのである。

ITはそもそも、IT土方であるとよく言われるが、なぜなら、汎用的な手順を書くことそれ自体が公共事業がやっているようなシステムインフラの提供と全く同じであるからである。これを否定する必要はないかもしれないが、ある意味、ノイマン型コンピュータの「変数に記憶し、計算手順を逐次実行する」という方式を変えてしまえば、ITは土方ではなくなる。たとえば、人工知能を作るのであれば、「機械に命令する以外の方法で機械が動けるようなプログラミング言語」を書いてしまえば良い。それだけで、ロボットは作れてしまうだろう。人工知能の未来は、プログラミング言語と密接に結びついている。それも、ノイマン型コンピュータの先、たとえばバイオコンピュータや量子コンピュータが生まれた時、そこでは簡単にロボットを作れてしまうだろう。おそらくではあるが。

パソコンの間違っている点は、これも「生産的でない」からである。パソコンという機械は、そもそもが「命令を記述するだけ」であり、それは「OSやライブラリの機能を使うだけのコードしか書かない」ということに言える。そもそも、カーネル以外のシステムを書いているプログラマは、全員ただの利用コードしか書いていない。Pythonでプログラミングすると分かるように、多くのコードはPythonの内部で書かれており、初心者にとっては何も面白味を感じないほど、簡単にプログラミングが出来る。今のパソコン用OSの問題点は、「ただ簡単に命令から機能を利用できるようにして、それで終わり」なところである。だが、これは本当は正しくない。なぜなら、Windowsのようなグラフィックシステムや、あるいは古来からのUNIXの良さと言うのは、「システム全体としてのパワーを発揮する」という考え方があるからである。パソコンの賢さというのは、要はそれである。システム全体のパワーを考える人間のことを、システムエンジニアと呼ぶのである。それが唯一の、パソコンの優れた可能性である。だから、VRのような技術を作るのであれば、ただ命令にして終わりではなく、各社がVRエンジンの「システム全体のパワー性」を競い合うようにすべきである。それは、パソコンにおける唯一の「生産」である。

生産的世界に必要なのは、「何かを作ることのできる手段」ではない。それは、本当は、ある程度の手段が存在していれば、それで良いからである。生産的世界に必要なのは、「何を作るべきかを分かっているビジョン」であり、「何を作ることが出来るか、という決定力(権力)」である。それは、本当は経済だけではなく、教育のような場所においても同じである。必要なのは、教育の内容それ自体ではない。教育をどのように決定するか、という決定するためのビジョンと立場(権力)なのである。権力があることは、本当は間違ったことではない。だが、悪人が権力を握ってしまうと、悪い世界になって崩壊してしまう。必要なのは、「善良な人間が権力を持つこと」である。そして、その善良な人間とは、ただ善良であるだけの人間ではない。きちんとこの世界の未来と可能性の分かった、「覚者の権力者」が必要なのである。それがもし、ソ連やドイツのような国に存在していたら、その国は正しい国になっていただろう。だが、本当は、一人の人間が善良であれば良い、というものではない。たくさんの人間が係り合う「プロセスの善良さ」が無ければ、失敗した政権の体制は失敗しか生まないのである。これが僕の社会哲学である。

そして、そもそも、体制や制度として一律に決めることは、そもそも妥当でない。もっとも妥当なのは、自由にしても上手くいくように、人々の世界を明瞭かつ単純に分かりやすく作ることである。簡単な自由と法律に統一してしまえば、人々は自分たちの力でこの世界の未来を「自由に」変えようとする。「自由に」金を稼ぎ、「自由に」会社を作ろうとし、「自由に」人々を集める。だが、そこで生まれるのは、「カタルシス」である。人々は孤独な中で争い合うようになり、自分の絶望を希望だと勘違いして実現しようとする。そこに必要なのは、「ひとりの救い主」であることは、多くの宗教が言っていたことである。だが、本当は、そんなひとりの指導者を信じる必要はない。それは、指導者になることは、指導者に従うことよりも簡単だからである。みんな、それぞれ、全員が救い主のブッダとなってしまえば良い。仏教では、「誰でも自ら仏になることができる(成仏)」と教えている。

仏になりたいのであれば、まず、社会のことを広く知りなさい。そして、自分で考え、自分で悩み、自分で解決し、自分で行動し、自分で経験し、「普遍的に問題を解決するように生きる」ことで、あなたは仏になれる。だが、多くの場合、仏にはなろうとしてなるのではない。何かを目指していたら、自然にブッダの言う通りの仏になる、そういうものである。そして、仏には得られるベネフィット(利益)だけではなく、報いもあることを知りなさい。諸行無常、因果応報、盛者必衰と言われるように、全ての自分の罪はあとで自分に全く同じだけ降りかかる。それが人間の人生である。地獄が終わりそうだと思ったら、「私はこれで十分である」と宣言しなさい。その宣言によって、心の狂いが治って、最後の境地、「解脱」へと至るだろう。

まず、世界を変えようとしなさい。世界を知り、人々との関わり合いを知る中で、「自分の理性によってのみ理解する自由」の段階を経験しなさい。そして、社会や資本主義のことを知るにつけ、変化の受容と功利主義的な「実用性が全てである」という発想から、合理的な改革を信じなさい。そして、経験する間に、改革はそのまま啓蒙や啓発へと変わっていく。今まで単純に個人や自分のことだと思っていた「自由や変化の対象」が、「社会全体」であることを知っていく。そして、自由と言ってもただの自由ではなく、「良く考えられた自由」でなければならないことを知る。そして、自由がどのような範囲に及ぶのか、という問いから、「ひとりの絶対的指導者が支配する愛」というのも、ある種の自由であることに気付く。そして、経験と変化の可能性は個別的なものから普遍的なもの、絶対的なものから「絶対性さえも包括する相対性」のものへと変質していく。その中で、さまざまな「自分で考え行動する社会性」を知り、その上で、「何でもかんでも自由で上手くいくとは限らない」ということを知って、最終的に、他力に任せることから「神の無償の愛」や「仏の慈悲の心」を、「人々のことをまるで自分のことのように愛する慈悲の心」から知っていく。そこでは万物は平等であり、生まれながらにして自由である。それは歴史的な世界観となり、全てを包括する心理学となって、世界を変える愛となる。そして、その後のさまざまな試練や地獄は、最初から自分で作り出した幻想であり、それ以降の人生の地獄の経験は、そこまでで経験した全ての「因果応報」である。それが、この世界の全ての過程であり、真理である。昔は、そういう人生や意識のようなことを、思い出すことで、文章に表していた。そういう、人生の文章だった。

本当は、もっとデカルト的な理性のようなことも良く書いていた。まずあるのは「権利」であり、次にあるのは「自由」であり、その次にあるのは「相対性」であり、最後にあるのは「普遍性」である。それらの理性を、「拡大的な自由の理性」と呼ぶことにしよう。拡大的な自由の理性によって、全ての論理的な根拠を知る学問である「形而上学」を自分の力で作ることが出来る。そこでは、「証明」が「必然性」となり、「実験」が「新たな次元での仮説」を生み出す。五次元の宇宙は、四次元の時空に比べてはるかにダイナミックだが、四次元の時空における要素を拡大しただけの概念である、などといったことがそこで分かる。全て、全員が信じていることしか起きないのだ、といった「発想の転換」は、そのまま「価値観の転換」となって、「普遍的な論理学」としての「数学的根拠」を生み出すだろう。全ての既成概念は無くなり、全ては融和して「絶対知」を生み出す。そこには、行動と観察から啓蒙へと至る、「新しい科学者のヘーゲル」が存在する。その哲学者は、世界観の再構築を得意とするだろう。意識は理性の全てを包み込み、人間の理性や感情の全てを経験から解明するだろう。哲学者は、森羅万象を「解明」することを仕事とする職業である。

本当は、僕の考えたことというのは、それぞれを「自立」させ、「独立性」を高めながら、社会や制度を「権利として参加や加入が可能としていく」中で、「社会的基盤を自由かつ普遍的なものにしていく」という「自由と共有の自立の論理」であり、共産主義に近い。それこそ、疎外感を是正し、同じものを共有して統一された基盤にしていきながら、平等な自由を権利として保障していくのは、科学的なマルクス・レーニン主義に近い。だが、本当は、宇宙には、もっと大きな、この世界を導き救うような、巨大で偉大な力が存在する。それは最初からあって分け与えられることを目的として生まれたものではなくて、「神が自分の人生を生きながら達成した成功」のようなものであり、神は何もしない存在ではなく、全てのことに対して正しく応答しながら、善を救い、悪を罰し、そしてこの世界を正しいものへと導いていきながら、「信じるものを救う」、そうした偉大な力である。そうして見ると、人間の理性や考える力など、全てかりそめの幻のようなもの、言ってしまえばチンケな妄想のようなものである。神は自分で考えてその偉大な力を発揮している。神の力の全ては神による。だが、そうして見ると、いかにも、神である存在をサタンと間違えた宗教が多い。神を信じるのではなく、ほとんどサタンを信じてしまっている宗教がたくさんある。イスラム教はその代表例である。よって、キリスト教と仏教と、チンケな社会主義を、このように融和して信じるしかない。そこにしか、正しい「思想」と呼ばれるものは存在しないのである。

そういうわけで、昔は、本当はもっと違った超賢いことを言っていた。賢すぎて狂っていた。自由な中でのアイデンティティの確立の手段と方法、その制度的な環境構築のようなことを言う。自由なままでも、アイデンティティを確立することは可能だと考えていた。それは、可能性を自然に許し受容することでしか実現できないと考えていた。社会的に言えば、これも、賢すぎる発想を言っていた。所有を、資本主義の所有でも社会主義の社会所有でもなく、両者を取りいれた「管理所有」として、自治体でモジュール式に実現する。たとえば、図書館やレストランを管理所有とすることで、自分の家に「管理所有された図書館」を得る(所有する)ことが出来る。レストランの場合は、自分の家にある必要はないが、一般的な安い料理とされるものを無料で食べることができる。このようにすれば、資本主義の豊かさが必要な人間も、社会所有の平等分配にありつきたい人間も、どちらも得をする。その上で、それを実現するために必要なノルマは、金の奴隷や会社の社畜のようなものではなく、みんなで作った評議会で、みんなの合意によって決める。こうすることによって、全ての問題が解決し、ユートピアが実現できるだろう。

本当は、結構ぶっとんだことを言っている。世俗的な社会の労働でも、自分のアイデンティティは確立できる。だが、しだいにそうした社会は、変容を遂げていく。それぞれが本当に自由で、愛され、自尊心とプライドを満たされる、そうした社会へと変質していく。それは成熟し、多様性を生み出し、価値観の転換から最終的には「人間からものへと変化が動いていく」ことで完成する。そして、それは社会主義に陥ることは決してなく、自由なままで共同体の成熟した「全てが許される代わり、見守るたくさんの大人が居る社会」へと変わっていく。もう、気付いた方も居るかもしれない。オープンソースと同じことを言っている。だから、全ての労働を経験するとは、本当はオープンソースのような芸術家のことを主要としているのである。そういう文章が大量に多かった。そして、成熟していく過程のようなものを、ある種の「無責任の自由」として書いていただけに過ぎない。それは自由と言うよりも、「平等な愛」と呼ばれる、崇高で美しいオープンソースの平等な友愛だった。全てを透明にし、ありのままを見せれば、子供は自分の力で努力して成長し、適応して永遠に同じ社会が続くだろう、そこではたくさんの機械的かつ心理的な発展が生まれるが、基本は何も変わらず、永遠に同じプログラム(機械のプログラムではない)が続くだろうと考えていた。

ある意味、Windowsの発展や進歩というものは、「プラットフォーム的な共有」がなければ成り立たない。みんな、ウィンドウを描画するOSが面白くて、Windowsに対応したソフトウェア、商用のものやフリーソフトなどをたくさん作った。みんな、Windowsの方式が、単純に「面白かった」。最初から、そういう発展を遂げたのがWindowsである。一方、LinuxのGUIである、GNOMEやKDEには、面白い点がそんなにない。同じようにフリーソフトは存在しているが、Windowsほど、面白くないのである。Distrowatchなどでは、「コンピュータを使う楽しさを取り戻すためには、Linux/BSDを使うしかない」とされているが、逆である。Linuxデスクトップには、Windowsほどの面白さは無い。それは、ある意味、日本ローカルな事情もある。日本人はWindowsしか知らないのである。よって、Linuxを使って楽しいのは、むしろ、昔のようでもある「コマンドラインの用途」である。コマンドラインを使うと、DOSを知らない最近の世代は、コマンドだけで動くLinuxのインターフェースを「面白い」と感じるのである。だから、Linuxはもっとコマンドを前面に出した方が良いだろう。GNOMEやKDEのようなGUIのプログラムは、全面的に刷新してWindowsと全く違うものにすべきである。それは、スティーブ・ジョブズがNeXTでやったのと同じような、そういう発想をすれば良い。BeOSが面白かったのも、同様である。同じものを作っても、同じ環境が生まれただけである。環境を優れたものにするためには、優れた環境を作らなければならないのである。

本当は、昔DOSがマイコンで動いたのと同じように、「PC/AT互換機でUNIXが動く」ということが、当時はとてもすごいことだったから、面白かったのに、最近は普通にWindowsが動くせいで、面白味が無くなってしまった。むしろ、Linuxが最近悪くなったのは、あまりにもRed Hatなどの商用のLinux企業が「UNIXと同じもの」のリプレースとして売り出したせいではないかと思う。Linuxが大型コンピュータで動いたからといって、それはUNIXが大型コンピュータで動いているのと全く同じである。これは大爆笑するポイントであるが、笑えない。Linuxは当初、大型コンピュータのOSがパソコンでも動くことが長所だったのに、いつのまにか商用ベンダーのせいで大型コンピュータで動くUNIX互換OSということに逆戻りしてしまったのだ。だから、Windowsから見て、Linuxには「何か新しいことが出来るわけではない、安定しているわけでもない、リーナスという誰かが個人で作っているおかしなOS」としか認知されていないのである。本当はここには大きな間違いがたくさんあるが、それには目をつむろう。そもそも、Linuxの役割はもう終わった。今から、Linuxは、本当に商用UNIXと同等の存在になって、デスクトップではいつまでもシェアを取らずに負け続けるだろう。だが、結構Linuxには「フリーな良い技術」と呼ばれるものがある。大きく見てそれは2種類ある。ひとつは、GNUやPerlのような「昔からあるUNIX技術」であり、もうひとつはNode.jsなどのJavaScript陣営や機械学習・AIのPythonに見られるような「最先端のIT技術」である。特に、最先端の技術はLinuxにとてつもなく増えている。それはたとえばDockerのようなクラウド基盤のようなものも含む。こうした市場で、Linuxは大きなユーザーを得ているが、いつまでもエンジニア向けにエンジニアが自分で作るハッカーのOSという位置づけで通すのも、つまらないだろう。一般ユーザーに使ってもらえるように、Windowsにはない「新しい個性」を何か作るべきではないかと思う。

ある意味、プログラミング言語の世界が参考になる。PythonやPHPには、Perlにはない「別の何か」がきちんとある。GNOMEやKDEも、Windowsにはない「別の何か」があれば良いのである。その上で、きちんと動くものを作れば、Linuxデスクトップはすぐに流行って普及するだろう。オリジナルである点をきちんと考えて作ることが大切である。