新・日記2に戻る | 2018年11月の日記に戻る

=2018-11-20=

昔は、「仮定」という考え方や手法が進歩した、それだけである。それを為す前に、どのように為すべきなのかが進歩した。世界に対して、どのようにそれを為すことが本質的に正しいのかを考えた。環境や社会問題においては、「今の問題と過去の問題は同じである」と考え、「解決するよりも、それぞれが問題を自由に解決しやすくする」というメタ的な自由を考えていた。

自由なきっかけから、それぞれが自分の意志で社会を改善し、人に手助けできるべきだとする。カントの言う定言命法や道徳律のように、言語的、論理的な正しさや道徳を考えていた。国に強制されたり、誰かに言のではなく、「本当に自分の意志でその価値を実現する」という発想が好きだった。それを、「普遍的な善」であるとした。理想と現実の狭間の中で、何が正しいのかを本質的に考えた。そして、それは決して結論の出ない答えではない。答えは、「自由」だった。

僕は、数学や物理のような、大学の理系で理論を学ぶのは向いていないと思う。そうではなく、カントやヘーゲルのような、哲学をやることに向いている。特に、カントが良い。カントをやると、きちんと論理的に考えられるようになる。カントの素晴らしい点は、聖書と全く同じように、著作に全てのことがきちんと書かれているからである。小難しいとか、理解できないという人は分かっていない。あれに、人生に必要な考え方や、人生で考えることのできる「人間は何を出来、何を知れるのか」が全て書かれている。あれ以上、考えて答えの出る問題は存在しない。最終的に行き着くのは、全て批判哲学の書に書かれている内容の通りである。僕はそれを、既に知っている。必要なのは、カントとヘーゲル、それにいくらかの聖書だけである。

僕がこの世界で「270億年生きる」と神に言われたのは、本当は宇宙の最後まで生き続けるということを意味している。そう、宇宙の寿命はそれくらいで終わりである。終わったら、今度は宇宙の子供が産まれる。宇宙から宇宙が産まれ、また育って違う宇宙を作り出す。本当は、生物は同じように見えて、「DNA」が何らかの意味を持っている。DNAとバイオ・ナノテクノロジーこそ、人間の解明すべき最後の宿題である。そこまで行った段階で、人間は滅びるだろう。だが、決して僕は滅びない。僕は、その頃、生まれ変わって新しい生物になっているだろう。なぜ魂が永遠なのか。それは、魂は何も変わらない、最初から存在した、ただのプログラムのコードに過ぎないからである。

昔は、「共通感覚」を考えることが多かった。万人に共通の、自分と他人の間で共通の自然感覚を考える。そこから、自然の意識を分かっていた。また、アドラーの言うように、「自我の成長」を最後まで行うことで、「なぜそれをそうだと信じるのか」ということを分かった上での「共同体感覚の成立」を分かっていた。人間とは何を感じ何を知ることが出来るのかを知りながら、その上で感覚的な共同体の創出や解決を考えていた。

僕は、この世界を、友愛と情緒のある、正しい世界へと変える。思いやりと多様性と心からの確信を得られる世界に変える。

子供の頃の情動を思い出してほしい。何かをしたいとか、作りたいとか、知りたいとか、そういう、「子供の頃に感じていた心の動き」を思い出せば、人間は正常に治る。

友愛の世界を作るために、協力してほしい。僕のホームページのアドレスを教え、Linuxを普及させ、僕の教えた内容をみんなに教えてほしい。僕と同じことをやって、同じことを考えてほしい。その上で、あなたにしか出来ない研究と創作をしてほしい。

そう、これで、この人間の書きたかったことは全部書いてある。本当は、理想と社会の実現ばかり、多かった。本当に、それぞれが許し合い、分かち合う、思いやりの社会の実現方法を、世界におけるモデルや構造とともに、全て書いていた。歴史や心理学のプロセスが全て書いてある、「正しい現象学」だった。

そして、いったん全てを忘れてほしい。一度、ここまでの全てを忘れて、新しいことをやりなさい。本当は、僕はデザインについて何も分かっていない、問題外のような人間である。だが、日に日につまらないデザイナーになっていく、その退化を止めることが出来ない。それは、みんなと比べたり、別のものを良いなと思ったりすることから、自分の中にある大切なものを見失っているからである。そもそも、僕は思考力と分析力と洞察力があり、何でもきちんと考えて提案できる人間だった。解決や解明が得意だった。そこに立ち返れば、自分のすべきデザインが見えてくる。僕が必要としているのは、全て、忘れたことすら忘れてしまった、いつもの自分の卓越した才能なのである。

本当は、僕は知っている。そろそろ、終わりが訪れることを知っている。どこで何が起きるのか、生きている今は分からない。だが、生きている前に、この人生がここらへんで終わることを既に知っている。既に、そうしたデジャヴがたくさん起きている。どうなるかは決まっていない。だが、全ては最初に決めている。本当のところを言えば、言葉で表現できるわけがない。だが、理屈から分かることは可能だ。僕は、言葉を創造することが得意だ。現実にある「もの」であるかのように言葉を創造する。これを一種のオブジェクト指向と言えるかもしれない。

世界は、もっと、自己愛を大切にするべきである。自尊心を尊重しながら、「愛は尊いものである」ということをみんなで共有していかなければならない。人々を愛する気持ちから、世界を変えられる。傷つかないように守ることも、抗うことも、あるいは全てを受け入れ許すこともできる。決して愛は負けることがない。

自分は、経験と学習を考えれば分かる、ということが分かっていない。そのためには、宗教的な思い込みや体験を排して、今までの人生の成長の中で何を見てきたか、なぜそれを信じているのかを考える必要がある。それは、「知ってしまえば、それで無くなってしまう」ものである。だからこそ、自分は何も知らないのだ、という自覚を持たなければならない。今の自分は、本当は何も知らない、何も知っていない。そこから、何をすれば知ることが出来るのか、今までの自分が何を間違えていたのかを知ることができる。

だがしかし、神の体験は尊いものである。人々を本当に許し、残酷な屈辱があっても諦めずに無償の愛に取り組み続けるその力は、どんなに疲れ苦しいものであっても、どんなに目標や達成ラインが無い永遠の努力であっても、それを可能にしてくれる。必ずあなたのことを神は愛してくれる。僕なんかを愛するよりも、神を愛しなさい。僕のことを永久に愛する必要はない。もっと違うものに対して、愛を向けるべきである。それは人間でなくても良い。神でも、仏でも、悪魔でも良い。僕以外のものを愛してください。それだけで、僕は楽に、みんなのことを許すことができるだろう。憎しみを持った愛は、許されることで愛自体が消え失せてしまうのである。

さようなら。本当は、いつか別れの時が来て、その後でこの文章が広まるのを僕は既に知っている。だから、僕は何も考えずにこの文章を書ける。みんながもし今読んでいたら、こんなに自由に文章は書けないかもしれない。言ってしまえば、コペルニクスやゴッホと同じである。消え去った後に評価される。人々に愛される頃には、僕は死んで居なくなっている。そういうものである。この人間を愛してくれて、本当にありがとう。神とはこの人間の別名である。そして、さようなら。僕は天国でこの世界を見守っているだろう。