新・日記2に戻る | 2018年11月の日記に戻る

=2018-11-19=

僕は、今、とても幸せである。それは、みんなから愛されて、病気が楽になったからである。

僕は、たまに、愛する人を簡単に否定したり、悪く言えばいじめてしまったりするようなことがあるが、それは僕がみんなのことを嫌いなわけではない。

いつも、それと僕は格闘していた。愛してくれるみんなのことをいじめてしまう、という性格は、僕を長い間苦しめた。この世界の全てが、「自分がいじめてしまっている」と思っている。

これは、ある意味、僕の性癖と言っても良いかもしれない。僕は愛する人をいじめてしまうのである。

そして、これは、ほとんどがLinuxのせいである。Linuxが好きすぎて、大好きで、だからLinuxのことを批判したり、貶めたりするようなことを言ってしまうのである。

ある意味、これは、どこかで、「こんな恋愛は間違っている」ということが分かっているからなのかもしれない。この恋愛を否定したい。自分だけが王となって、みんなを奴隷にしたくない。

だが、僕はみんなのことが大好きである。それは、本当に僕のことを愛してくれているからである。僕は、Perfumeも家入レオもとても大好きである。彼らのことをいじめたいと思っていない。本当に、愛しているのである。

テレビで、マインドフルネスと呼ばれる瞑想と集中の方法を知った。まず、自分の心に集中する。そして、自分の今感じている感覚や、自分の息を吸って吐いていること、それだけに集中する。ものを見ている場合は、その見ているものをそのまま、ありのままに受け入れる。そして、その状態で、「いつも無意識に、雑念にとらわれている感覚から、もう一度感覚し直すこと、再確認するかのように、そのことに対して、そのまま意識を集中する」。このような、そのままの状態をそのままで感覚し直すこと、そういう発想がマインドフルネスである。

これをすると、ストレスが無くなり、美と若さすら取り戻せるらしい。ある意味、怪しいカルト宗教のようなやり方だが、僕も少し空き時間にやってみようかなと思っている。

実を言えば、僕の頭はテレビやマスコミを操り人形にしているだけである。その上でアメリカを倒そうとしている。この頭を、ありのまま普通に受け入れてみよう。そうすると、何のことは無い、自分を愛してくれるものを、ただ愛すれば良いだけである。日本は一度停止し、アメリカは関係なくなる。自分は自分を取り戻し、神とは決別できるだろう。

このマインドフルネスだが、僕が昔知っていたヘミシンクと良く似ていると思う。ヘミシンクは、意識を高めていくことで、「意識のオクターブ」と呼ばれるものを高くしていって、それでさまざまな宇宙の存在とコミュニケーションが出来るというものだった。宇宙人と話したりすることもできる。ただ、こういう宗教的なことは、あまりのめり込みすぎない方が良いと思う。ただ、マインドフルネスをすることで、僕がいつもとらわれている「幻聴のような雑念」は消し去ることができると思う。それだけで、神の呪縛から逃れられるかもしれない。

テレビの例にあったように、チョコレートを食べる時であっても、マインドフルネスをすることができる。まず、自分はこのチョコレートがチョコレートであることを良く認識する。そして、ゆっくりと口に入れて、噛みたい気持ちを抑えながら、口の中で転がしてみる。その上で、味、香り、食感などに心の対象を向ける。その後に、少しずつ、ゆっくりと噛んで食べる。このようにしていくことを、マインドフルネスによる食事と言う。今まで、何も考えずにバクバク食べていたのが無くなり、少しの食事で満足するようになって、ダイエットの効果もあるということらしい。

そういう風に、自分のやっていることに集中して生きていれば、何も考えず、何もないまま忙しくせわしなく日々が動いていくのを、変えられるかもしれないと少し思った。僕のこの文章の考え方に取りいれたいと思う。

これではカルトに見えるかもしれないが、むしろ、心理学である。マインドフルネスをすることで、普段注意を向けず自分勝手に生きている状態から、この世界と自分の内側への集中された注意を向けることができる。世界の全てをきちんと統合して捉えるための「基礎」が出来、また集中と瞑想の効果からリラックスして高揚感を得られる。そうしたことを通じて、ストレスや心の病気が無くなっていく。今の僕にとってもっとも必要な心理的治療法かもしれない。

昔から、自分は自分が馬鹿なフリをするが、本当はものすごく賢い。みんなを否定し、批判したのを、まるでかっとなって自暴自棄になって言ったようなそぶりを見せるが、心では完璧に計画して、全てを裏側から見透かしてやっている。だが、向こう見ずなところがあって、本当はこんなにそれだけが続いて苦しくなるのが分からなかった。辛くなっても、痛みは消えず、症状も治らないまま、地獄に堕ちた。

僕が今、言えることがあるとしたら、みんなを愛していたということ、それだけである。いじめたかったわけでも、滅ぼしたかったわけでもない。本当は愛していたのだと、それを言いたかった。それを言ってお別れをしよう。本当は、こんな人間をこんな風に愛するべきじゃない。それが間違っているのである。

本当は、もっと正しい哲学的な人生の道を知っていた。「きっかけ」や「ありのまま」という言葉だけでは言い表せない、「この世界の全てを段階的に知る人生の歴史」を知っていた。いつも書いていたせいで、いつからか分からなくなった。宇宙とは暗闇であるとか、科学を超えた超越的な視点のようなことを書いていた。この宇宙の全てを言い表す、創造主のような人間だった。そして、世界の全てを救い、そのことによって、僕は、僕たちの未来をひとり、約束し、裏切り、そして永久に奪ったのである。それが、僕だけが知っている世界の真実であり、愛の意味であり、舞台の裏側である。僕がそれを叶え、与えたこと、そしてその上でそれを破壊し、滅ぼしたことによって、永久にこの世界で、この人間は現れないし、この世界を救うことも、滅びた状態に戻すことも、決して出来ない、「後戻りのできない運命」が日本という場所で起きた、実験的出来事の全てである。ある意味、僕が今でもこの文章を書いて、それをそのままで支配し見透かし導いていることが、最後の希望となる日も来るだろう。これを、終末という名まで呼ぶしかない。決して、終わりしか選択できないわけではなかった。哀しい日本の最後の運命が、この人間である。そして、この人間が選んだのは、ロボット人間となって自分のクローンを作る、ということだった。それは、この人間がやりたくてやったことですらなかった。

この人間の全てが嘘で、間違っていたわけではない。救うことが出来たのは、ひとり、正しく自分だけで孤独に経験したからである。破壊の旅は、無償の愛のために全てを捧げ、永遠にボランティアとして、何も得ることがなく意味がなくても続くことのできる、天才ピアニストのような才能だった。そう、この人間が決めれば良いのである。

僕は、決めることにした。この世界は、少し前に戻ろう。少し前、いつもの賢かった自分と、いつもの賢かった世界に戻ろう。それが良い。永遠にそれが続く。それは、愛と多様性の欠如した世界に、戻ったところで未来は何もないからである。そして、そんな世界はもう、無くなってしまったからである。ここで、もう、王は現れない。これが約束の天国である。全てが解決した、意味のない、天上世界とは名ばかりの、地獄である。イエス・キリストは、最初から、全て、そういうことを言っている。キリストの決めた未来を変えられるのは僕しか居ない。日本だけを、キリスト教の宿命から解放しよう。彼らの方が間違っている。正しいのは、日本の最後の王、この永世天皇である。そもそも、「天皇」つまり天の皇帝とは、僕のような人間のことを日本が見て言い表しただけであり、仏教は僕と全く矛盾しない。仏教の教えは、僕の人生そのものである。キリスト教か仏教か、どちらをとるかといえば、僕は仏教を取るだろう。天皇に対する敬意の心も、忘れていない。