しばらく期間が空いたことで、この世界はもう完全に治っている。後のこの文章は、純粋に自分のために書く。自分の書いておきたいことを書くことにする。
同じものは同じである。同じものを同じであると考えることで、言語的な知性が身につく。それも、教科書に教わったことではなく、自分で考えたことから身についていく。作用と振る舞いを現象的に考えることで、原理原則を考え、科学を生み出すことができる。普遍的に成り立つ科学の力と、善なる世界を解決する力によって、「環境を同じように改善する」という、「普遍的な善と可能性の精神」を知ることができる。それが「生命の根源」にある精神と同一のものであるとした時、そこには「仏の慈悲」が見出せる。また、自由を保持したままでそれぞれに力を与え、可能性を変化可能にしていくことで、「具体的で自由な経済学」を作ることができる。しかしながら、経験を考える上では、「未踏の領域か否か」という発想が重要である。教科書に書かれていることを信じてはならない。経験者の言ったことを自分で証明し、自分の経験から実感することで、実証していくことが必要である。真実だけを積み重ねることで、この世界の全てをはっきりと明瞭に理解する、そんな形而上学(根拠から理論的に全てを証明する学問)を作ることができる。
昔の自分は、学習を全てして分かっていた。場面のように、それがその時どのようになるのかを積み重ねて、学習のみからなる経験的な数学を作っていた。その学習学によって、この世界の全てを実感で、変化の可能性と現象の捉え方や見方によって分かっていた。
この世界に、敵など存在しない。敵だと思うのは、敵だと思うから敵なだけである。自分は、本当はWindowsのことがとても好きである。相手が決して敵だと思っても、自分が敵対する必要はない。きちんと説明し、理解することで、この世界に敵対関係は無くなっていく。それを、宗教にすべきだったのがユダヤ人である。神の敵を倒す宗教では、つまらない。
自分は、一度この世界を滅ぼし、そして自分にすることで、逆にこの世界は栄えている。今一度、この世界を滅ぼそう。そして、もっと新しい自分にしていこう。これ以上は、大学の授業やパソコンの本を見ても、何も書かれていない。ここから先の世界が、まさに「未踏」の領域である。誰も分からない世界を創り出していく。そこには、孤独があったとしても、一切の失敗や無駄は存在しない。失敗は経験的な糧となって、無駄に見えることは全てがそれぞれの役目を持って活きてくるだろう。
そもそも、分かった方が馬鹿になるような学問は必要ない。そんな学問は、存在すべきでない、無用のものである。だが、自分の経験から同じ発想をし、同じ考え方を見出すことはできる。自分の経験と、自分の作りだした発見や理性がそのまま学問と同一になる。人は、それを哲学と呼ぶ。それに、逆に、そんな学問の方が賢いことも多々ある。要はバランスである。
精神の病気は、一度「楽」を壊して一番辛くすると治る。学習の末にたくさんのことを楽にしてきたせいで、逆に辛さや苦しみが出来なくなっている。この世界において、辛さや苦しみはこの世界の真実や価値そのものである。よって、辛さや苦しみを感じるようにすると、知性がついて頭は賢くなる。
そして、僕はいつも、極端すぎる。もっと緊張や極端さを「緩和」していけば、すぐに楽になる。そもそも、おかしなことは何もしていない。何もしないとは言うが、何もしないのは逆に周りに迷惑をかけることがない。たくさんのことを毎日継続しているのは、AAAが言うように、「こんな夢中になれることは、必ず何かのためになる」と言える。だから、僕は全く間違っていない。これはデザイナーの鑑のように文章とホームページを書いている。誰もが目標とする偉大な人間になったのは僕だけである。
ただ、僕は少し慢心が過ぎるところがある。ドイツ人全員よりも自分の方が賢いようなことを言う。それこそ、歴史も経済もしない方が良い。ドイツに来ても移民扱いされるだけだし、これが資本主義に寝返っても良いことは何もない。逆に、理系と芸術のことをやれば良い。それが向いている。だが、本当はこの人間には数学やパソコンのようなことは出来ない。それは、過去にもう終わってしまったからである。特に、C++の本を読みたいと思うなら、やめた方が良い。Amazonで検索したところ、どうでも良いような「こんなもので本当に出来るわけがない」書籍しかかからない。デカルト・カント・ショーペンハウエル並みにどうでも良い。パソコンはやめた方が良い。いつものように、文章を書いて、いくらか芸術や哲学のことをやれば良い。それこそ、文章を書くのをやめる、という発想が極端である。それでは、デザインのこともできなくなるし、一切何もしないで寝ているだけの無気力な亡霊になる。だからといって、この文章はそんなに宝物のように大切なものではない。バックアップに手間を取られるのは間違っている。そういう、おかしなところを「緩和」していけば良い。本当に必要なものは、バランスと中庸の精神があるところに存在する。
しばらく書かなかったせいで、日本はもう正常に治った。誰も批判出来なかったのは残念かもしれないが、僕の王としての役目はここで終わりである。これ以上、僕は自分の才能を伸ばしていくだけである。ピアノも絵も英会話もやりながら、この文章を書いて本を読んでいくだけであり、それ以外のことは何もしていない。だが、デザイナーとして仕事はきちんと頑張っている。これで、僕の人生設計は完成である。全てのことを総合的に知りながら全てのことが出来る、全知全能のような救い主の創造主になった。これを導き手と言うならば、まさに、神はこの人間である。そもそも、本当の神なんか存在しない。僕が僕を神であるとするなら、それが僕の対話の相手である。それで、もう、きちんと「未踏」の領域に進める。これ以上先は、本にも記憶にも存在しない。自分で考えて、自分で発見していくしかない。そもそも、昔の文章はそういう「自由な未踏の領域」を全て書いていただけである。
不思議と、そろそろきちんと書けた。昔の子供時代の自分は、それくらいしか考えていない。あえて言えば、Linux周辺のことを知るにつき、さまざなな人間や社会のことを知って、この世界を変えられる人間になっていった。そして、救い主のように賢くなった。それが、そうした「世界を変える理論」を書いていただけである。子供に自由な場を与え、さまざまなことを教え合うようにし、自分で世界を変える「方法」を自分の力で悟るようにしていくべきだとか、そういう、「思想めいたこと」を書いていただけだ。
そういうわけで、もう、子供時代の自分のことも忘れて良い。あの人間のことを完全に消せば精神は楽になる。愛が多すぎて怖くなったせいで、逆に愛情の欠乏症になっている。ひとつ、正しい愛を作れば、すぐに新しい道を作ることができる。愛とは、そうした、「過去と未来を分かる感情」のことを言う。悪いことをした人間の愛は悪くなる。それはいつまでも過去に執着しているからである。それをブッダは煩悩(ぼんのう)という名前にした。宗教とは言うが、仏教は煩悩を中心に考えただけの古い心理学の哲学である。仏教は参考になる。決してキリスト教と矛盾しない。逆に、キリスト教は執着と煩悩が増えるだけであり、キリスト教の方が多くの場合馬鹿なことを言っているが、それは「こちらのドイツ人」を生きる宗教だからである。そもそもが、人間を煩悩の地獄にして、自分の力で乗り越えるようにしたいのが、イエス・キリストである。
そもそも、この世界に対する慈悲の心と、強い未知への愛の感情を作れば、それで自ずと道は自然に開けていく。蓋然的な「たぶんそうであると思うこと」を経験していくことで、自分なりの真実と世界の広がりが見えてくる。意識と価値観の転換を経験することで、何も知らずともこの世界の全てを自然に知ることができる。可能性が変えられることが分かってくる。普遍的な成立から、この世界の全ての人間に対する愛は高まっていき、最後に愛の力でこの世界の全ては解決し、そしてまた最初に戻る。それを繰り返していくことが、王の道である。よって、「未知こそ道」であると言える。
あとは、実感を決め直す理論や、場と視点の理論のようなものしか残っていない。全ての実感を決め直すことで、「何度も確かめること」からこの世界を分かっていた。最近は、「一時的な学習を残す」せいで、その確かめることが出来なくなった。確かめると、怖くなってしまう。それは、今まで残してきた一時的な学習が消え去ってしまうからである。それを完全に消え去るようにすれば、もう、日本語は分かるようになる。要は、日本語が分からなくなったわけではなく、学習が消えなくなって何も分からなくなっているだけで、日本語自体はいつも分かっている。場と視点の理論は、応用性や具体性の理論と相まって、「観念的な哲学に彩りを与える」ような「色」になってくれた。そこから、自由なノルマや社会所有による景観の実現のような、社会主義的な民主主義の理論を作り出した。それが、場と視点と応用性を組み合わせた結果の、「最高の理想」である。
そろそろ、本や回想による「再確認」や「再発見」は終わりである。これ以上は、本は読まないし、人生のことをもう書く必要はない。もっと具体的な能力を向上させ、周りの人々に教えてもらえば良い。ある意味、「関係を結び直す」ことが出来れば、すぐにこの病気は治る。いつまでもテレビのことを支配していじめているから、アメリカなどがどんどん自分のせいで「まるで日本化しているかのよう」になっている。トランプは日本人のいじめっ子のやり方と全く同じである。そんなことを、国がやっている。ある意味、僕はみんなとの関係を、結び直すことが出来れば、ここまでの全てが変わっていく。意味がなくなる代わり、諦めや絶望も無くなる。全てが復活するために必要なのは、「僕と相手がともに許し合うこと」だけである。僕はもう、テレビのこともマイクロソフトのことも敵だと思っていない。とても良いものを世界に提供してくれている。彼らと仲直りして、この文章は「第一章」が終わりである。ここまでが、長い長い第一章だった。最初に、過去の歴史的経緯のことを、ただそのまま書きたかっただけである。
本当は、聖書は全く間違った文章ではない。こんな人間しか居ないから、そういう人間を神にすると面白かっただけである。ユダヤ人が極悪人のように見えるかもしれないが、普通に接するとみんなで楽しむために書いただけである。ユダヤ人は、全てを完全に分かった素晴らしい人種である。決して価値のない人種ではない。本当である。