新・日記2に戻る | 2018年11月の日記に戻る

=2018-11-12=

マルクスもケインズも説明できなかったこととして、「儲からなくても作るべきである時はある」ということが言える。経済には、儲からなくても生産しなければならないことはたくさんある。ホームレスの人のための食事や住居を、国が提供することなどが考えられる。あるいは、旅人に対して宿を提供するとか、オープンソース・ソフトウェアを作る、などがそれに当たる。生産手段が向上し、生産手段を共有すれば、そういうことも出来るようになる。だが、そうなると、マルクスの言うように、供給過多になって資本主義は崩壊するだろう。そういうことではないかと思う。ケインズが言う、「需要と供給のグラフ」は、あくまで「儲ける」ことが目的である場合だけであり、「儲けることを目的としなくても生産が過剰に得られる」ようになった段階で、ケインズ経済学は正しいものではなくなる。

一度、頭の中にある、「分かる構造」を全て消しなさい。全ての言葉と説明の構造を消した時に、この世界をありのままに見れば、さまざまな現象と職業があることが分かる。そうすれば、もう、きちんと分かるようになる。逆に、僕のようになりたいなら、きちんと頭の中に構造のモデルを作れば良い。

自分は最近、デザイナーとして新しい発想を要求されている。今までは、紙のページのデザインが多くて、ただレイアウトを考えながら素材を配置していれば良かったが、今から、グラフィックス的なことをやりたいと思う。自分は、きちんとしたデザイナー見習いとして、きちんとグラフィックス作りをやりたい。そのためには、さまざまなデザインの具体例を「見る」ことが大切である。

Windowsには、ひとつの集中したパッケージ管理システムと更新システムがなく、Windows UpdateでOSの更新がかかる以外は、自分でJavaやiTunesやgitなどの更新をしなければならない。僕は、これは密かな大問題ではないかと思う。ここをつけばLinuxは勝てるのではないか。Windowsで全てのソフトウェアを最新版に更新するのは、とても面倒であり、Windowsのフリーソフトなどを全て更新することは半ば不可能である。

昔は、自由な経済学を考えていた。といっても、何が何に作用し、どのように制度や決まりを作るべきか、何が自由で何が自由でないか、環境の解決や自然な社会の変化の可能性から、どのようにすればみんなで世界を変えられるか、社会における「システム的な本質」とは何かを考えただけである。何が何にどうなるかを考えることで、この世界のことを「洞察的な社会論」と「博物学」の融和のように考えていた。そして、価値観やアイデンティティを考え、「社会が暗くなっているのは、(特に子供たちに対して)自分たちのアイデンティティが何なのか分からなくなっているからだ」としていた。

あとはもう、書くことは残っていない。そろそろ本当に終わりだ。僕は、パソコンのことをこれ以上、したくない。Javaをやれば良いのは分かるが、作りたいプログラムがない。Emerald(自分の考えたプログラミング言語)のコンパイラが作れるように全く見えない。もっと別のことをやりたい。

ありえない社会をいくらでも作っていた。ありえない世界観と人生を作りながら、決まりや制度を適当にいくらでも作る。そういう、本当に「知性のないマルクス」のような人間だった。また、心理学的な精神分析のことも良く作っていた。「前世を知るフロイト」のような人間だった。

昔は、「生きている間に必ず分かる、絶対的な悟りのようなこと」を書いていた。今、その言葉や文章を見て分からないことでも、後で、人生を生きている中でそれぞれの経験から分かってくる。社会や歴史についても同じで、言葉だけでは分からなくても、経験や歴史から分かってくる、そうした「神の導きのような正しいこと」を言っていた。

僕が思うに、ドイツ語や英語のような西洋文明は、「厳密に分けること」をベースにしている。言葉は細かく分類し、それぞれの言葉の意味が明確であるようにする。芸術は写実的で、リアルかつ美しいことを基本とする。科学は数学をベースとし、経験と言っても必ず実証し、観察をそのまま丁寧に教えていく。そうした、ヨーロッパの文明は、機械を作ったり、社会を合理的に発展させることが得意である。この逆に、日本や中国のような東洋文明は、厳密性を重視しない。「あいまいであったとしても、間違っていたとしても、長い思索と経験の末にものを作る」というところがある。長い時代と思索を通じて、本当に真実かどうかは分からなくても、もっとも経験した上で正しいことを言う。中国の芸術や東洋医学やインドの輪廻転生の思想については、そのように言える。もちろん日本も例外ではない。だが、日本人は、ヨーロッパの文明とアジアの文明という「素材」を使いながら、それをひとつの「独自の改良」を加えるのが得意だ。その改良とは、「実際的に使いやすい」というある意味「都合の良い」発想をする。それが、最高の文明の国、日本である。