新・日記2に戻る | 2018年11月の日記に戻る

=2018-11-02=

良いとか、悪いとかいう、「評価」は関係ない。あるのは、ありのままそこに存在する、「状態」だけである。それが、僕の昔考えた、「人生の存在論」である。

知識とは、経験的に得られた現象の捉え方に過ぎない。あるのは、ありのままのこの宇宙、この歴史だけである。

実際にその人がどういう風に生きていたのかは分からない。だが、ある事実はひとつだけであり、その事実があっただけである。それが、歴史である。

こういう人間は、日本という国が神である自分を殺すと勘違いしている。本当は、国は自分のことを愛しているだけであり、その国の側が神である。

カープの野球というのは、それぞれが繋いでチャンスをものにしていく、「チームワーク」に基づいている。これは、ソフトバンクの逆である。ソフトバンクは、それぞれが高い能力を持った「パワープレイヤー」だから、いつでも一発が出る可能性がある。だが、本当はカープの方が、野球というスポーツの理想形である。みんなでチャンスを作り、それをものにするのが、カープは得意である。ピッチャーについても同じで、ソフトバンクはパワーのあるピッチャーをたくさん使うが、カープはそれぞれの役割を持ったピッチャーを適時適当に使う。今回の日本シリーズは、カープは苦戦しているが、おそらく来年も4連覇するだろう。

カープはチャンスをものにしようといつも考えているから、どうでも良いヒットでも次へと繋がることが多い。逆に、ソフトバンクは一発大きな当たりが出ても、次に繋がりにくい。そんなわけで、明らかにカープの選手の方が弱いのに、なぜかチームとしては一番強いチームになった。なんとかこの日本シリーズをものにしてほしいが、カープはいつものペナントレースに適応しすぎているせいで、環境や状況が変わると打てなくなることがある。逆に、いつもの試合と同じ状況になれば、必ず打ってくれる。

共産主義よりも資本主義の方が正しい部分というのは本当にあって、たとえば生産手段の共有である。マルクスは、計画経済で生産して、みんなに分配するとしたが、それはすぐに破綻する。金の方が、実現手段としては正しいのである。自分で金を儲けて、その金を使って、会社を作るのも、研究室を得るのも、全て自由である。その方がはるかに、実現するための実現手段がある。そして、金があれば何でも出来る。特に、報いを与えて働かせるのは、報いを与えずに働かせるのよりも、「インセンティブ」という意味で正しい。インセンティブ(動機づけ)を与えなければ、人は行動しない。行動するからにはインセンティブが必要であり、村のような原始的共同体に戻ることは、今の時代では、ただ理想として掲げられたとしても、もはや実現不可能なのである。

マルクスの問題点は、「発展しない」ということ。競い合わせる、という発想を悪いものだと思っている。だから、それぞれが頑張って、それぞれの中で一番優れたものが勝つ、という発想を、悪いと思っている。だが、本当は、勝ったものは負けたものから必ずしも奪うわけではない。勝ったものがみんなにたくさんの貢献をしていることはある。ソ連には、そういう、みんなで働いて貢献したい人間が少ない。共産主義の労働者とは言うが、まったく共産でもなければ、労働者に良いわけでもない。インディオを奴隷にしているのと同じことをする。共産主義のソ連は、間違っている。

本当は、昔の賢かった点というのは二つあって、ひとつは、「自由な中でたくさんの失敗をしたこと」、もうひとつは、「みんなと意見を交わしたこと」である。そういう風にすれば、人間は誰でも哲学者になれる。だが、最近は打って変わって、何も失敗せず、孤独にひとりで行動しても分かるようになった。これは、矛盾していない。たくさんの失敗と世界を知っている人間は、何もしなくても成功できるようになる。そもそも、こういう風になる人間は、あまり居ない。自分だけがそういう人間になった。こういう人間は、偉人や科学者に多い。全ての経験が記憶の中にある人間は、何もしなくても発想し、発見出来る。本当は、昔は数学者や物理学者のような発想が多かった。最近は宗教家のようになった。この人間は、本当は賢くない。それは、デザイナーなのに絵を描かない、ピアニスト志望なのにピアノを弾かない、過去の人生があるだけの何もしない人間だからである。これは賢くない。そろそろ何かをやった方が良い。練習をたくさんすれば、自分でも上手くなることに、気が付いていない。自分でも出来ると思ったことがないから、子供のそういう好奇心を忘れている。全てを既に知り終えて、ひとりだけで生きられるようなことを言うが、それが辛く、苦しい重圧になっている。

心が許せない人間は、自分の心と関係を結び直すことで治る。自分を許せない自分のことを許してやれば良い。許せない、という感情そのものを、きちんと許してやることで、許せなかった誰かのことはどうでも良くなって、新しい関係を結び直すことができる。家入レオもそういう風にすれば、誰かのことは忘れて、別の誰かのことを愛せるようになる。きっと大丈夫だ。

本当は、自分の賢かった点というのは、狂って戦ったことそれ自体ではない。この世界を裏で掌握したこと、それ自体が賢かった。言葉と環境への作用によって支配しながら一番上で導くこと、それが本当に賢かった。愚かなことをまだやっていると思っているから、当然やめるべきであり、やめたいと思っているが、本当はやめない方が良い。このまま続ければ、そのうち、世界の中のベストプレイヤーになれる。そこが一番、偉大な革命戦争だった。まだ、やめない方が良い。現に日本は良い国になってきている。ここでやめるのは、本当は賢明ではない。

昔は、「実質的自由という名の平等」を考えていた。人間がどのようにすれば平等に力を持てるか、のような自由を考える。それは、参加やボトムアップのような、世界を正す本当の自由だった。経験から、そういうものを考えていた。それくらいしか考えていない。あとは何もしていない。

自分も、そろそろ将来のことを真面目に考えないといけない。最近子供っぽい人間になったのは、将来のことが分かっていないからである。今、B型の施設に通っているが、自衛隊や施設に入るのは、本当は良いことではない。放送大学の勉強をすれば良いように見えて、大学の勉強は難しい。僕はデザインの勉強をしているし、この文章という日記を書いているが、それだけである。ピアノや英会話も、やめようとは思わない。

ある意味、きちんとやっているこの文章とデザインを、どこかで評価されるまで、続けるしかない。だから、この文章は決して終わらない。自分が考えていなくても、心が分かっている。明日もこの文章を書く。明日もきちんと施設に行く。それしか出来ることはない。そして、そこをきちんとするのが大人である。いくら過去にすがっても、あるいは「もう絶対にやめる」と思っても、そういうものは正しくない。

そういうわけで、僕は最近gitの利用を復活させた。gitで管理すると、zipファイルをたくさん作らなくても、コミットすれば履歴が残る。だから、毎日続けるのであれば、絶対にこの方が良い。逆に、不正終了することがあるし、GitHubのプッシュやプルを使うと、危なっかしくて使えないから、僕はプッシュはしてもプルはしない。仕事場で同期するのは、したくない。それは、仕事場のパソコンがたまに壊れるからである。データが壊れるのが怖いし、色々と問題が多いので、仕事場でgitは使わないことにした。この方がはるかに楽だ。

本当は、Linuxよりも優れているものに、出会ったことがない。Linuxの知識と経験を知っているだけで、キリスト教から西洋哲学、英会話からピアノ、Illustratorまで、何でもすぐに分かるようになった。Linuxはとても良い教材で、また神を信じている関係から、何でも良いことが出来るようになった。だが、僕はLinuxが本当に好きなわけじゃない。カルトのようなサタンの一派であることを既に分かっている。だから、こちらが神との対話をすることで、中和している。こちらの方がサタンには、見えない。

良く考えると、ネットなんか見ても意味がないのが分かる。パソコンのようなものと、適当なコミュニケーションしかないからである。パソコンやネットをやっている馬鹿は、何もしていないに等しい。僕はパソコンの楽しみを、このホームページの作成とIllustratorによるデザインだけに限って、あとはYouTubeで音楽を聴いている。最近、Linuxのパソコンも久しく使っていない。UbuntuやFedoraの新しいバージョンはおそらくリリースされているが、僕はそれらをもうインストールしようと思わない。そういう、少年時代は終わってしまったからである。

全てのものは諸行無常、移り変わると言うが、最近はスピードが速すぎる。もう、2018年が終わってしまう。そろそろ、作業所も2年ほど通っているが、Illustratorのスキルなんか、それほど変わっていない。だが、成熟してきたのは分かるし、今までの経験からきちんと出来るように技能が増えているのは感じる。いつも「成長を実感できない」と言っていたが、最近はむしろ、きちんと実感できるようになってきた。それこそ、本当は、デザインだけを見るのではなく、生活や他の知識を見ても良い。そうすると、きちんとまともな「大人としての節度と教養」がついているからである。2018年が無かったとしたら、僕の人生に意味は無かっただろう。そう言えるくらい、2018年の経験が多かった。だが、2018年が過ぎてしまうのが、あまりに早かった。2018年のことを振り返ったことがない。前だけを見ていて、それで一瞬で終わってしまった。

あとは何だろうか。本を読みたいとは言うが、むしろ、このホームページに書いた内容だけで、ほとんどのことは分かってしまった。今から先、やることが何もない。もう、大学の教養は要らない。つまらないからである。こんなに簡単に終わってしまうと、才能が逆に無くなってしまう。だから、もっと色んなことが知りたいのに、これ以上は知ることができなくなってしまった。どうすれば良いのかは、そのうち分かる。なぜなら、僕はまだ見習いレベルにしかデザインのことができていないし、ピアノや英会話もみんなほどできていないからである。誰よりもできるようになって、初めて才能である。だから、才能をつける旅が永遠に続くはずである。いつか、仏のようになるだろう。それは、いつかのいつかである。

良く考えると、歯を抜くまでは何も意味がなかった。ただ、地獄の中で耐えるだけを苦しんでいただけである。歯を抜いたぐらいから、楽になって、きちんと出来るようになった。そこから先の、ちょっだけの人生が好きである。

あまり全てを否定しても意味がないから、科学は良いことにした方が良い。人間は、科学的に考えなければ分からない。科学の唯一の問題は、おそらく、神の存在を誰も知らないから分からない、ぐらいであって、ほかのことについては、おおよそ全て、科学的な経験的知見が正しい。それは、おそらく本当に正しい。科学的に考えなければ何も分からない。再現性を求めながら誰にでも分かるように説明することができなければ、それはただのオカルトである。そういう科学は、正しいのだが、唯一、神というありえない存在を肯定することができない。だから、唯一そこが間違っている。本当に分かってしまえば、科学と神は矛盾しない。神という存在は、真面目に科学的に考えれば、証明可能である。

もっと、科学的方法を使おう。カントの言うようにきちんと考えれば、グループと心の働きの法則性を証明できる。そこから全てを解き明かせる。経験から、科学的知見の全てをデカルトのように分かることができる。それらは、きちんと賢い人間たちだ。

良く考えると、僕の本当にしたかったことは、ドイツ語とフランス語である。哲学ぐらいから、博士のような道を極めているが、それはむしろ、あまり良いことでなかった。全部博士のように知った代わり、今まで分かっていたことが分からなくなってしまった。良かったのは、作業所のイラレぐらいである。それは、イラレが良かったというよりも、仕事や制作の現場で頑張って体験的に知った、ということが良かったからである。むしろ、イラレの本を読んでも発見がないくらい、イラレのことを本質的に全て知っている。それはとても良かったが、哲学や歴史のように本で勉強したものと、デザインやピアノや外国語のように実体験的に分かったものを合わせて、あとは昔のパソコンや父親に教わった機械や自然科学の内容を含めて、自分の人生や経験を加えて、それで博士のような「全て」になってしまった。だが、それは良く考えると、あまり賢くないのである。こんな大学は存在しないが、普通にこういう大学生がたくさん居る。大学生が賢かった、それだけである。

考える必要があることは、「誰がそれをしたのか」ではなく、「なぜそれをしたのか」あるいは「どうやってそれをしたのか」である。2ちゃんねるのようでもあるが、それだけを考えればこの世界は分かる。

NHKでアメリカのトランプ政策のニュースをやっているが、トランプが中国に関税をかけて、中国がそれに対して関税をかけることで、アメリカ人は、材料を買う方も購入価格が高くなり、農作物を売る方は中国などに買われなくなって悲惨なことになっている。これは、僕は「アメリカは中国と心中」だと思う。アメリカの方も死んで、中国の方も死ぬ。どちらも死ぬことで、世界が平和になって、日本が勝つ。そういう経済政策をやっていることに、トランプが気付いていない。トランプは「中国が死んで、保護主義でアメリカの労働者が雇用される」と言っているが、中国が死ぬのは正しいが、逆に経営が破綻してアメリカも同時に死ぬ。アメリカは再び偉大になるどころか、後進国に逆戻りである。問題はトランプという幼稚な大統領の発言や政策だけではなく、新しい「ポピュリスト」という名前の、アメリカ版のネット右翼である。彼らは今までのアメリカを信じていない。今のアメリカも信じていない。彼らはただ、愛国心という名前でこの世界全部を破壊する。愛国心と言うよりはむしろ「新しい裏切り」であると言った方が近い。だが、このおかげで一番得をするのは、日本である。日本と中国やヨーロッパの関係が良くなって、日本が嫌いなアメリカや右翼国家が自ら中国やイスラムを巻き込んで死んでいく。新しい「国際的政治家テロ」と言っても良いだろう。だが、勝つのは日本である。

昔は、発想と手段を理解することで、何でも出来る人間だった。「人々との関わり合いから学習する」という、ロボットのような頭をしていた。それこそ、数学的に分かっていた。モデルのようなものを作りながら、具体的に発想すること、心と世界のことを理解して把握することで、何でも出来るようになった。心理学的なことは、いつ何をするか、そして心がどうなるかを把握して、世界全部の仮定を想定して、可能性の発生から全てを捉えて分かっていた。

トランプが馬鹿すぎるから、僕が代わりの支配者になろう。僕は、民主主義の世界政府をする。この世界の基本理念はひとつ、それは「完全な同じ立場になること」である。そのために、あらゆる不公平な、為替や人件費や、あるいは会社のようなものを、完全に統一させると同時に広く分散させる。それによって、この世界の「立場を平等に」する。それがもっとも正しい、今の世界に求められている政策である。平等にすべきなのは、「機会」ではなく「立場」である。機会の平等は経済格差を生む。成功者にしか多くのチャンスがこなくなる。逆に、弱者は不公平なことをして勝つようになる。勝てそうな手段があれば、ルールを無視してするようになる。立場の平等では、全員を同じ立場にする。全員の給与を統一しても良いだろうし、労働者のノルマと給与は同じ業種では統一しても良いだろう。生活水準も、権力も平等にしなければならない。だが、不自由にする必要はないし、人々を同じにする必要はない。ソ連のやったことと良く似ているが、平等にすべきなのは物質的な「資産」ではなく、関係的な「立場」である。そうした、「立場の平等の下での世界政府と分散した統一」を行えば、この世界は必ず良くなるだろう。会社が競争すること自体は問題ではない。金儲けも、逆に良いことをしていると評価できる。問題なのは、働く上での「条件や立場が違うこと」である。同じ条件で、平等な立場の下で働くのであれば、そして同じだけの給与が入るのであれば、争いごとは起きなくなる。ソ連の理想というよりは、宗教の理想のような話になるかもしれない。

本当は、中国が不公平であると言いたいのは良く分かる。下劣な製品を低コストで売りまくって、アメリカの労働者が本来得ていたはずの利益を人件費と価格競争で全部奪っているのに、アメリカの鉄鉱などの産業が不満と危機感を抱いているのは、トランプの主張として間違っているとは言えない。

昔の僕が良く分かっていたのは、「他人のせいにしていたのは、本当は自分が良く分かっていなかったからだ」ということである。きちんと相手が何を考えているのか、どんな世界を見て自分と付き合っていたのかを分かることで、自然に「他人のせいにしなくなる」ようになった。自分だけで行動する上でも、どのように行動すれば良いか分かるようになった。そこから、「きっかけやチャンスを叶えるのは自分の責任である」ということが分かってきた。自分の責任だと思うことで、逆にはっきりとそのチャンスをものにするのは自分なのだ、ということが分かってきた。人々がなぜ苦しんでいるのか、ということについても、一定の解を得た。仏教用語で言えば、人々が苦しんでいるのは「無明(むみょう)から来る煩悩(ぼんのう)のせい」である。苦しみを解き放つために必要なのは、「執着心を無くすこと」以外にない。囚われているその固定観念を全て疑うことでしか、「本当に良い状態」に近づく道はない。そして、煩悩は時に、悪い出来事すら起こす。執着心の強い人間には、自らの失敗で、地獄のような出来事が起きる。ただ、宗教の用語で言うと、いきなり良く分からなくなってしまう。だから、「人々が苦しんでいるのは、良く分かっていないから」だと昔の僕は言っていた。「分かってしまえば、きちんと良いことをする」と、ソクラテスのようなことを言って、もう、宗教の話は終わりだ。

むしろ、民主主義が悪いのかもしれない。たとえば、今僕が言った「立場の平等」だが、民主主義でそんなものは実現できない。それだけで大変革になってしまう。たくさんの制度と手続きの問題もあるし、保守派の反対や人々の不支持もあって、「何もできない」のが民主主義である。もう、民主主義は終わりなのかもしれない。

物理学的な哲学で言えば、人間の持つ「ああだこうだ」は全て間違っていて、あるのは自然でありのままな「状態」だけである。ああだこうだと言ったのは、全て同じ「イエスとノー」である。あるのはありのままの状態だけであり、正否や評価など、意味がない。

昔は、2ちゃんねるのような返信に返信を重ねながら、オープンソースのような改め試す作り直しの文章を書いていた。

今、世界は滅びた。

ただ分からなくしただけで、これで今、僕によって世界は滅びた。