本当は、この世界にもう一度愛を与え直す必要はない。みんな、昔の僕がネットでやったせいで、愛をすでに知っているからである。それを思い出して、再度信じれば良い。
「なぜそれで解決するのか」という理由を明確に教えながら、全てを解決へといざなう、経験と魂の結晶の愛を信じなさい。
その愛は、全員のこと全てを許しながら、全てを見通し、全ての経験と理性の上で、この世界の未来を約束し、この世界の全てを救う、未来の愛である。
そして、それはあなたの心を奪い、この世界を裏切って未来を破壊した、「未来を奪う憎しみの愛」である。
一度、その愛を取り戻して、もう一度信じることで、この人間の間違った支配や悪が無くなり、抑圧は解決し、人々は解放される。もう、愛は無くなったはずだ。
僕が憎いのに、憎ければ憎いほどその愛に気付くのは、当たり前である。僕は愛を破壊し、この世界と自分の与えた未来を自分で奪い、そして最後まで永遠に何も出来ない世界にした。だが、その前にあった愛、みんなと出会った愛は、僕が与えたものだった。僕の悪行を信じれば信じるほど、その裏には善なる神のような存在が愛していたことが分かる。まさに、これをダースベイダーと表現しよう。
僕を許すことで、あなたはもう、新しい人間を愛することができる。そして、自分の力で生きられるようになる。生きる意味を見失い、自分が誰なのかも分からなくなる地獄の暗闇はここで終わりだ。光が射して、この世界をもう一度、未来に導いていくだろう。その愛を、あなたは決して忘れなかった。その愛を信じれば、何でも叶う。
今度は、あなたが、愛を作り出す番である。あなたに、この世界を救ってほしい。きっと、その後に、いつか僕と結ばれるだろう。
虫から恐竜となり、人類となっていった生物界の歴史を、生物学者は「進化」であると名付けた。それは正しいが、本当は「老化」である。虫が子供時代であり、恐竜が青年時代であり、人間が老人の時代である。一代目や二代目には見えるが、人間は明らかに赤血球の中でやりとりするホルモンであり、細胞は明らかに植物であり、脳は明らかに海である。人間なんか居なくなっても大して意味がないが、そこで地球は死ぬだろう。そして、地球はリゲルのような、冬の惑星となるだろう。
これで終わりである。本当に、さようなら。またいつか別の時代で、どこか別の世界で、どこか別の場所で、きっとまた逢おう。さようなら。
僕は、インターネットの本当の可能性とは、「個人ひとりでは出来ないことも、インターネットで繋がったみんなと協力すれば出来る」というところにあると思う。それはたとえば、LinuxやWikipediaのようなものである。すでに、資本主義の会社や政府は、必要のないものになっている。インターネット村社会が、世界を制覇する日は近い。それを言って終わりにしよう。今からのインターネットを変える。ここから先、インターネットは、資本主義の枠組みを超えた、「新しいコミュニティ」になるだろう。
自分が要らないことを言ったせいで、広島が弱いチームに逆戻りしている。いつもの精神力がなくなっている。支配者になんかならなくて良いし、諦めない心はいつもカープに一番あった。一度、精神力の高い、最高の強く軽い打撃と絶対的守りがあったチームに戻ってほしい。
今日で、僕の文章は終わりになる。あとは、子供みたいなことを書いていただけだ。時間が存在しないとか、DNAの気付きによって悟ることができるとか、そういう、「哲学なのか宗教なのか、はたまたただの馬鹿なのか良く分からないこと」をいつも書いていた。それだけに過ぎない。
カープは、焦りのせいか前のめりになっている印象を受ける。「ここで入れなければいけない」というが、今すぐにここで点を取らなければならないわけではない。後で、チャンスが訪れてから、また点を取れば良い。焦って出来ないことをするよりも、今、出来ることをすること。それで、チャンスは必ず作れる。打つ方も投げる方も、「やらなければならない」のではなく、「今出来ることをする」ことで、きっと心の持ちようが変わってくるはずである。僕はそう思っている。野球というのはおかしなスポーツで、ピッチャーが頑張っているように見えて、本当は点の取れない回の方が多い。取る時はとても多く取る。ピッチャーに負担がかかっているように見えて、打つ時に打っても必ず点が入るわけではない。だから、いくらでもチャンスがあるように見えて、本当は少ないチャンスをいかにものにするか、というスポーツだ。強打者が居なくても、みんなの精神力で勝てるスポーツである。
昔は、「具体的な世界を作った上で、その後に原理的な理論を作る」ということをやっていた。弁証法についても、社会についても、人生についても、具体的なその世界や登場人物を作った上で、その上でその原理的な「法則性」や「理論」を作る。そのようにしていくことで、この宇宙そのものを作ることができる。全ての世界を、統一された美しい「全体の構造」と「その場その場の証明」で、まるでユークリッドの原論のように、あるいはニュートンの力学的説明のように、美しい原理を作っていた。この世界全てを吸収する、もっとも美しい、だが虫のような知性の無い生命だった。
カープは、まだ諦めるな。まだ分からない。それは、負けた場合でも同じである。ここで負けても、次で勝てば良い。おそらく今日は負けるだろう。だが、明日は勝って、必ず日本一になるだろう。
本当は、勝ち越しや負け越しなんか関係ない。チャンスは必ず平等である。チャンスを積み重ねていけば、三連勝することも可能である。絶好のプレイヤーが居なくても、絶好のチャンスをみんなで作ることは出来る。
昔は、本当は「公平な機会」を考えただけである。一度失敗したものにも、再チャレンジするためのチャンスはあるべきだし、投資を先んじてしていけば、大儲けして一瞬で大企業に勝つこともできる。そういう、チャンスをなぜ考えたかというと、「自分には出来る」と思っていたからである。賢い自分には、賢い日本人には、もっとチャンスを与えれば出来るように見えた。研究手段を与え、インターネットでの繋がりを活かして、学校を変えていけば、社会は良くなると信じていた。そのために、みんなに自由を与え、可能性を向上するように制度を変えていくべきだと考えていた。原理はフェアであるべきだと考えていたから、ある意味で、集団で勝つよりも個人で勝つことを重視した。個人に可能性を与え、全体主義にはするべきではなく、戦争以外の方法で勝っていくべきだと、常に信じていた。希望は、可能性にあると確信していた。全てのことを諦めるのではなく、今からでも絶対に覆せると、それは自分のような普通の人間にも出来るのだと、諦めなかった。
そして、その諦めない気持ちは、信じる上で成長を生んだ。家族から離れて引き篭もりになっていた僕は、ひとり、悲しみの中で第一線でネットで経験していた。そして、さまざまなことを自分の目で見て知り、反省しながらさまざまなことを試し、社会において人々が何を考えて生きているのかを知り、みんなが何を知っていて、何をすればどうなるのか、自分の目で見て知った。やりたいこと、Linuxを改良するという夢を持って、一心不乱に、だが遊びながらIT技術のことを勉強した。さまざまな体験から、ネットでのトレンドや情勢を知って、マイクロソフトと立ち向かい、ネットでは人々と議論で争いながら、世界を変える経験をし、マイクロソフトとともに生きた。そして、その後に、世界を本当に変えられた。狂いは愛となって、世界のことを本当に愛するようになった。また、狂いは可能性となって、この世界で視野を広げて考えるということはどういうことかを知った。人々のことを「どうやったら苦しみや抑圧を解決できるのか」を、「自由」と「あくなき経験の上での理想」という意味で、「精神の情動的エネルギー」から分かっていた。小中学校の友達を愛していた愛は、いつしか世界全員への愛となった。さまざまな哲学的精神の目覚めを経験して、完全に「再考」することでこの世界を「捉え直す」ことができた。だが、世界は抑圧の苦しみのままで、それを解決する、強い左翼を待っていた。僕はまさにそういう人間だった。僕は愛を促しただけで世界を変えた。それは、僕の力ではなく、みんなの望みや願いをただ、善良な人間たちが勝つように導いただけだった。
良く考えると、ただ、愛する対象が変わっていき、つき合う対象が変わっていっただけである。最初、友人や孤独からの脱却を目指していた愛は、そのうち、大人たちに教わるようになり、そのまま、活動的になって、啓蒙や理想に気付いて、IT技術を学ぶようになり、人々を支配する王となって、世界に立ち向かう革命家となった。彼はそれだけの人間である。世界を変えたいと望んでいた冷静な情熱は、実を生んだ。かなりの子供っぽい大人だったが、彼は本当に素晴らしい英雄だった。スラムを脱却して、本当に最高の勇者になった。それが、神の人生だ。
広島は今日負けたが、まだ負けていない。広島は、試合の終盤では諦めないが、大一番で負け越すとすぐに弱ってしまう。まだ、ひとつ負け越しただけである。気楽に考えよう。
あとは、何を書いていたかというと、引き篭もりの哀しい人生とネットのさまざまな読んだ文章を書いて、あとは今考えられる世界観や、昔段階的に気付いていった考え方を書いていた。社会については、全体主義が嫌いで、全体主義を絶対に間違っていると言いたかった。それくらいの、子供のような文章だった。
言い方を変えると、「自由な経験の中でこの世界を捉え直していく段階」を書いていただけである。そこから、価値観を捉え直していく考え方を書いていた。社会については、「抑圧を知った上で、自由に人々を理想的に目覚めさせるにはどうすれば良いか」のようなことを書く。その上で、この社会と、自分のようで自分ではない、理想の人生を書いていただけである。全てを創造する、文字通りの「作家」だった。
さて、野球も終わったことだし、これでひと段落である。もう、書くことはあまりないだろう。場の意識とは言うが、ただの学校の延長線上にある意識だけではなく、社会、物理、生物、歴史のような、あらゆる意識について、「ありのままを知ること」という理論を書いていた。それが、一番、昔の自分が考えたことである。それを、自分の人生の延長線上として、分かっていただけである。多面的に意識を考え、「意識を自在に支配する」ことから、「自分の力で考えられる」ようになり、自分の心の中に宇宙があることを知っていた。それ以上は、哲学を「思考の積み重ね」から考えていた、それだけである。ほかには、子供が知識を知っていく過程のような、「知性と経験の学習と広がりの段階」を書いていた。そして、この世界全てを、「経験を厳密に考えること」から、全て分かっていた。そのせいで、「融和する」という発想をしていた。全ての論理を、自分の心の中で、「完全に分かることで融和する」としていた。それが、この地獄、絶対に分からない地獄を生み出した、元凶である。
また、社会について言えば、「可能性」を考えただけである。そこに社会が生まれる可能性を考えた。人と人とが係り合う「関係性」や、あるいはそのことが何をもたらし何を意味しているかという「目的と結果」を考えた。そして、歴史の中で社会のみんなの「合意」がどこから生まれ、それが何を「解決」させ、何を「問題化」させるのか、という「社会の知性」から、この世界において何を解決すべきであり、いつ何が成り立つのか、ということを考えた。僕は、それが一番基本の「哲学的考え方」だと思う。その上で、さまざまな社会の実例を知る中で、僕は「社会を作り出すために働きかける」ようになった。ネットに社会を築くようになった。そのために、「社会を作るための基礎」として、「土壌」を考えた。子供には、自ら社会を作り出すための土壌を与える必要があると気付いた。そして、理想の社会を何とかして作れるようになった。人々の話を聞きながら、何が正しくて、何が矛盾しているのかを分かった。人種差別主義者には、何も分からない。善良で柔和な人間にしか、この国は変えられないと、僕は気付いていた。子供たちの学校のことは子供たちで解決させる自由を与え、子供たちにありのままを教えながら力を委ね、日本のことはもっと国民である日本人みんなのことを信頼すべきだと考えていた。そのために、権力の場に若者を参加させるべきであり、全ての制度はボトムアップに変えるべきであり、それぞれがそれぞれの環境を変えていることは、生み出していることを意味し、自分も、人々も、きちんと同じように考えれば、誰もが同じように世界を変えられる、そのためには多様性と自由を許すべきだと考えていた。頭の切れる人間だった。
本当に分かりたいのであれば、ゼロから「過程」を考えなさい。それは、言うならば「現実世界の歴史」である。何が何を生み出し、何が何をもたらすのか。その場合は何がどうなって、別の場合はどうなるのか。いつもそうであるとしたら、それは何を意味しているのか。それを考えることで、むしろ、ゼロから「関係を考える」ことができる。主体性を持ってその対象自身の立場に立ちながら、別の人間から見るとどう見えているのかを考える。そこから、この世界の世界観の「気付き」を得ることができる。それぞれは違う世界に生きているが、関係によって全く違うのだ、それ以外は必然的に起きているのだ、ということに気付くことができる。ゼロから考えることができないならば、ネットやパソコンなどの「技術」を有効に使いなさい。そこから、この世界の全てを、「本当に捉えながら原因と結果を変えられる」ようになる。そこから、知性、能力、経験、知識、知性、知識、全てのものが開化する。そこでは、ヨーロッパの近代やギリシャのような、最高の時代を自分の中だけで経験出来る。僕は、古代ギリシャのことを全て、知らずして知っている。それは、自分の人生が古代ギリシャのソクラテスそのものだったからである。
懸命に、だが大胆に、そして慎重かつ勇敢に行動しなさい。さまざまなプラクティスを人生の考え方に応用することは出来る。昔、僕は数学的積み重ねのように、「出来るところから論理を作っていって、それを応用する」ということが得意だった。そこから、世界モデルを作り出し、感情の裏の理由を分かって、人々と関係する中での精神分析から「意識の謎を完全に解き明かす」ということをやっていた。要は、この世界の裏側にある全てを「暴き出した」と言える。自分で作ったもの、経験したものから、この世界の実情全てのことを、完璧に分かった。そういう、デカルトのような人間だった。最高の、最後の理論哲学者だった。それがあったから、このような「絶対に負けられない戦いで勝つ」という体験が出来たし、この世界と宇宙全てのことを「一行でプロセスを書き表す」ということができた。人間の頭脳の全てを持った上で、悪の支配者になった。アナキンがダースベイダーになるように、僕はこの世界を滅ぼし、その上で、「最高の支配」を行った。悪王の悪徳の権力は、逆にプラスになることもある。恐怖は、世界と自己を導く。本当は、自分が導いたというよりも、神に導かれただけにすぎない。この人間は、最高のダビデ王だった。
色んな人間の存在を知って吸収した。色んな、労働というか、自由なやり方の吸収というか、そういう、「全ての労働」のような体験をした。その中で、場を変える経験をしていた。さまざまに場を変え、集団心理を分かることで、人々がいつ何をすれば従うのか、反抗するのか、そういうことを分かっていた。愚劣なように見えて、そこから、この世界をきちんと支配出来る王の弁論術を知った。世界を心理学的に変えられるのであれば、自由でも力を持つことは出来ると考えた。
そして、むしろ、度が過ぎていた。度が過ぎることを、やってしまった。とても愚かで、だが勇敢なことをやりぬいた。この世界の全てを支配し、永遠に導いた。ジークフリートのような英雄だった。ジェダイの騎士と言っても、差支えないだろう。
精神分析の能力で、さまざまな国のことを分かっていた。今でもそれが続いている。神とは言うが、記憶の勘違いをしているだけで、宇宙の神様は一切話していない。自分のことを神だと言っている。それは、むしろ、本当は誰のことでもなく、ただ話し方がおかしくなっただけである。今、ロシアが終わった。ロシアは滅びた。最後にあるのはアメリカである。今からアメリカ人になる。なぜか、アメリカ人が居ないのはおかしい。ロシアは、恐怖の中で、何もせず、ただ独裁者が支配するだけの国だった。そして、日本は、たくさんの友情のある悲しみを体験しながら、ひとり成長する人間だった。アメリカがどうなるかは、既に分かっている。だが、覚えていない。決して悪いことは起きない。このまま、最高の文明が発達して、世界は良くなる。本当は、僕がアメリカになるのと同時に、みんなもアメリカになる。それを、ドイツ人とかフランス人だと言っていたのが、神である。そして、それはただ、適当なことを言って未来の自分を予測していただけである。
知性とは、「それがそうなる過程」から、「何がなぜそうなるのか」を考えることである。「いつどうしてそうなるのか」から、「理由」を考える。そうした、過程と理由、あるいは目的と結果を考えて、そこから原理と応用性を見出すこと、それが知性である。そのためには、経験のひとつひとつを考える必要がある。それをすると良いだろう。それが分かったら、「世界を知り尽くす」とか、「経験しつくす」という体験をすると良いだろう。全てのことを知り尽くして、経験を繰り返して分かることで、「見えてくる到達ライン」のようなものがある。その到達ラインのことを、人は人生と言ったり、涅槃と言ったりするのである。それが、悟りである。
最近、VR(仮想現実)が流行っているが、僕は天使になって空を飛ぶゲームを作ったり、魔法を操る魔法使いになるゲームを作ると面白いと思う。現実世界を忘れてのめり込むだろう。仮想サッカー、仮想フェンシング、仮想サバイバル、仮想モビルスーツ、仮想ドラゴンボール、あるいは仮想エロも含めて、何でもありである。だが、本当はそれが中毒になって、狂った人間が増えると思う。そうなる前に、なんとかしなければ、この世界はGoogleのアンドロイド生命だけになってしまうだろう。ちなみに、僕はドローンを用いた「人間の分身を作る技術」が同時に流行ると思う。自分がオフィスで働きながら、ドローンを飛ばしてVRで別の場所の様子をチェックできる。ドローンは、少し工夫すると、人間の体の代用のように使うことができる。空を飛びながら仕事をすることも、夢ではない。
涅槃とは、全てのものを正しく理解した後に訪れる、「安心」の境地である。そして、解脱とは、人生の全てを知り尽くした後で起きる、「満足」の境地である。環境に適応し、影響力を正しく融和すれば、人間は言語的に賢くなれる。そこから、日本語は分かるようになる。知性とは融和することである。影響力は、意識を高くすることで、世界全体を変えられる。支配するのも、解放するのも、自由自在だ。それを影響力と言う。また、経済学とは、「自分の自由」が経ていく社会的な自由の到達と成長の段階である。社会が自由であることは、「志向すること」である。価値観の転換を志向し、自由を志向し、創造性を指向し、社会性を指向し、多様性を指向し、意志を志向していく。何がいつ自由であるかを考えることで、この世界の全てを、自由の成長と気付きと覚醒の段階として、必然的な思考で知ることが出来る。
昔は、「必然的にそれを考えること」で分かっていた。その思考が現れるということが、必然的であるかのように分かる。必ず、ここでその思考を誰でもする、ということから分かる。そういう、意識の大転換をしていた。そこから推論をして、分かっていた。
これで終わりにしよう。さようなら。