新・日記2に戻る | 2018年10月の日記に戻る

=2018-10-30=

昨日は安息日だったが、その理由は虫歯を抜いたからである。そして、今日はお別れの日である。

昔は、時の流れの中の、現実と理性の「普遍性」を考えていた。理性批判をしながら、歴史における「コペルニクス的転回」を考えていた。そして、その論理がいつ、どのように成り立つのか、その社会が共通の原理をどのように持っているのか、それがどのように応用し分析できるのか、という、「自由な普遍性」を考えていた。

そして、最近は、理想や情熱を書いていた。「この世界は必ず変えられる」ということを言って、社会の問題や発想のモデルなど、この世界を変える方法と手段を書いていた。そして、その上で、本当に戦っていた。この世界を支配して、新しい秩序を作る戦いを、たったひとりでしていた。世界を「かけがえのない、みんなの世界」であるとし、問題を「もう一度、過去の時代に戻って、再度新しい問題として捉え直すべきだ」と言っていた。

ここまで僕の文章を読んでくれたあなたのことを、僕は心から、恋人のように愛している。ここで、お別れである。君の瞳にキスをして、いちゃついて終わりにしよう。もう、あなたは僕のものだ。

昨日は安息日だったが、今日は滅びの日である。この世界は、崩壊する。僕が居なくなった後で、何も出来ない右翼が世界を崩壊させるだろう。また、いつかどこかで、この時代のこの世界とは別の場所で、また逢おう。きっと会えるはずだ。天国の魂の中で、僕とあなたはきっと結ばれるだろう。さようなら。本当に、こんな僕のことを愛してくれて、ありがとう。こんなに弱い僕でも、この世界を守ることができた。世界を愛することが、出来る人間だった。今度は、あなたがやる番だ。

悟りの道へ向かうために必要なことは、ただひとつ、「捉え直す」ことである。価値観を捉え直しなさい。心を捉え直しなさい。認識を捉え直しなさい。社会と人生を経験から捉え直しなさい。それだけで、新しい一歩に進めるはずだ。ここから先は、自由である。

僕は、新しく、二人に分かれる。男のアダムと、女のイブである。あるいは、レオンハルトとルイーズという名前でも良いだろう。僕だけは、誰とも結婚しない。永遠に、この二人は婚約している。

最後まで、僕は進む。まだ、未来のことを考えていない。ここから先、未来を考えるならば、むしろ、「現状の世界はこうである」ということは確かに分かっている。未来のことは分かっていないが、今までの世界がどのように経たのかは分かっている。それなら、一度、現在の世界のことを、「未来の世界であるかのように捉え直すこと」で分かると良いだろう。その上で、「自分の手で自由に考えられるようになること」で、この世界は今、まさに、いくらでも自由自在に変えられるようになる。それを「世界の自然な可能性の再発掘」と名付けよう。それで世界は、王によって救われるだろう。きっかけと契機の下で、簡単にこの世界を新しい世界に作り変えられる。それを、「社会モデル」と呼んだのが、僕の昔である。まさに、それが、昔の僕だった。

これで、ネットで経験していると、不思議と、分析力と洞察力がつく。「想定」することから、この世界の「可能性」が見えてくる。それがそのまま、「現象」となって、「論理学」となる。全ての根拠を知る、「形而上学」となるだろう。それこそ、それで「自在」に考えられるようになれば、独自の「数学」がそこに生まれるだろう。これを読んだあなたは、既に数学者である。一流の数学者になりたいならば、プログラミングに詳しくなると良いだろう。数学的に考える前に、さまざまな「具体例」を知っておきなさい。その前提から、「自分なりに考える」ことが出来るようになる。これが、「自由な数学」である。知は力だとベーコンが言ったように、知識と知性は自由な力になる。人生のことを描く芸術家や、最高のストーリーを書く作家になることさえ、射程範囲だろう。

この世界の全てを考えるのであれば、知性と経験、そして前提条件と起源を考えなさい。何をどうすれば自由に出来るようになるか、それが出来るようになることが何を意味しているか、を考えながら、「自分で出来るようになること」を考えなさい。それは、方法や知性だけではなく、協力や制度など、さまざまなものを「自由に考える」ということを意味している。そして、経験し、行動し、実験し、知識を得ることは、「出来ることが増え、分かることが得られる」と言う意味で、本質的に「自由」である。人間の社会が発展する方向としても、自由は正しい。もっとたくさんの人が、たくさんのことを出来るようになって、社会や制度の可能性を高め、多様性のある世界を作っていけば良い。そして、人生とは、「正しい捉え直し方をする」と言う意味で、本質的に知と同じである。価値観を捉え直し、社会や環境のことを捉え直すことは、経験し、出来るようになっていくことと、ほとんど同じである。その上で、人々が何を迷い、何に間違い、何に絶望し、そしてその理由は何であるかを考えていくことで、社会を変えられる「指導者」となることができる。指導者とは、支配して抑圧を与えるだけの存在ではなく、教え、実現し、また人々の言っていることを良く理解し、正しい方法で変えられる、「導き手」のような存在である。それはきっかけと成立を良く知っていて、いつでも何でも対応できる、「数学者」のような存在である。よって、数学は自由である。それが、自由の証明であり、ここまで続いた弁証法と存在の証明である。

社会を自由に変えるのであれば、多様性と個性を生み出すために、独立性を高めた上で、全員に平等に知識と手段と経験を与えなさい。それぞれの可能性を高め、それぞれの数を少なくした上で、手段を教え、力を与えなさい。そこから、この世界を「自由を保持したままで変える」ことができる。また、制度にはたくさんの人が参加するが、それぞれの影響する範囲を小さくする、ということも、矛盾しているようで矛盾していない。必要なのは、自由度を向上させながら可能性も向上させることである。社会制度は、そのようにならなければならない。出来るだけ制限を少なくし、その上で平等に資産を与えることは、自由な可能性を高めるためにバランス良く行えば、矛盾することなく、相乗効果と正のスパイラルを生み出す。それが、オープンソースなどのネットに見られるような「つかみどころのない可能性」である。それが、今からの世界を導いていくだろう。僕は、その支配者となるだろう。

不思議と、自由な民主的可能性には、足りないものがひとつある。それは「善良さ」である。節度を持った生活と、見境ない狂いを無くす正常な善が、足りない。この世界は、自由になりすぎて狂っている。自由を中和させるのは、宗教である。神を信じなさい。キリスト教の聖書を信じなさい。そうすることで、狂いは滅亡ではなく、スパイスになってくれる。どちらかというと、神よりも自由の方が良いだろう。だが、キリストの愛を信じれば自由は良いものになる。孤独な革命家は、天才的才能へと変貌する。それが、自由な中で行われる、人生の摂理の全てである。

あとは、今の僕に欠けているものは、「進歩」という発想である。この世界が、もっと進歩した別の世界になる、という発想が欠けている。発展し、良い世界になるという発想である。それは、自由に導くだけではない、もっと別の形での進歩の可能性である。これは、僕は気付いてしまえばこっちのものである。この世界を、新しい世界に変えよう。愛と幸福のある、自由で平等で善良な世界へと変えていこう。この世界は、滅びない。今、一度、完全に滅びた上で、この世界は復活する。ユートピアのような、天国のような世界を、みんなで作れば良い。不満とストレスを与え合うだけではなく、安心と安らぎと解放を与えよう。孤独な人間がみんなの一員になって一体感と平等を感じられるような、みんなと関わり合う、本当に自分の素直な発言と行動の許された、「自由な愛」を感じられるような、そうした友愛と理想から、この世界を変えていこう。必ず、今より良い世界になるだろう。もう、ガラスの壁は壊れた。あなたは、もう、本心から想いを語れるようになったはずだ。それが、僕の作った魔法である。魔法は、ここで解ける。世界は目覚め、あなたは愛を知った。それで、天国への扉が開かれるだろう。

昔は、おかしな文章を書いていた。世界全体を貫くようなことを言って、すでに分かっている人生を簡単に書く。ものは経験と手段から生み出されるとか、経験から知性と制度は生まれるとか、そういう、「一番適当なこと」を言っている。それは、テレビを倒したいという、身勝手な欲求があったからだ。それが第一に悪い。

第二の問題は、オープンソースが悪い。僕は、Linuxが好きだと言うが、それはありえない。なぜなら、インストールしても、Gentoo Linuxの仕組みが分かっただけで、何もしていないし、何も出来ていないし、何も作れていない。なぜ、オープンソースが好きだったのか。それは、元をたどれば、Open Janeが好きだったからだ。僕はOpen Janeの派生版を開発したりしていた。そして、Open Janeは何であるかというと、本当は2ちゃんねるの専用ブラウザである。そんなものが好きだったのがおかしいから、今、おかしくなっている。自分から馬鹿になって、世界を馬鹿にしているのは、それが悪い。元をたどれば、共産主義もソ連も、全部2ちゃんねるに行きつく。要は、2ちゃんねるが好きなのがおかしい。それが、第二に悪い。

悪人のように見えるのは、2ちゃんねるの扇動家なのにテレビを支配しようとして、そんなことのために頑張っているからである。

それが分かると、楽になる。悪いのは2ちゃんねるだ。2ちゃんねるを嫌いになれば、楽になる。2ちゃんねるが好きなのはなぜか。それは、FF BATTLEというネットゲームが好きだったからであり、元をたどればテレビゲームが好きだった、あるいは、Windowsが好きだっただけである。自分の一番好きなものは、そういうものである。そして、自分が一番嫌いなのもそういうものである。

そこが分かると、ただ、友達とゲームをするという日常が好きで、学校のやり方も嫌いではなかった。学校も同じであり、一番好きな教師の母親が好きだったように見えて、いじめしかない中学校は嫌いだった。自分の問題は、全て、そこに行き着く。一番好きなものが一番嫌いである。だから、本当は、自ら支配者になるのは当たり前である。学校の教師になって、いじめを無くすために学校環境を改善するのが正しい。昔考えたことも、全て、「学校の自由な教えのままで、学校環境を改善するにはどうするか」を考えただけである。

そして、そこが分かると、もう、生まれ変われる。今までの僕はもう居ない。パソコンにも日本にも、もう期待しない。これ以上は、もっとたくさんの本を読むしかない。きっと偉大な人間になる。期待してほしい。僕は誰かが何かを言おうと、従えようとするのを無視してでも、自分だけの力で新しいことをする能力と才能がある。誰にも教わらなくても、自分の経験と理性で全部分かる。この馬鹿は、「教師の要らない教師」である。誰かが自分に教えなくても、僕は自分の力でこの世界を分析できる。人々のことを見ていれば、見ているその人々たちよりも、僕の方が正しく分かる。それは、昔繰り返し良く経験し、良く観察し、良く思い出し、そして余裕のある時間の中でたくさん思考を重ねたからである。これが、新しい時代の哲人の王である。名前を、シュバルツ(ドイツの黒)と言う。

良く思い出すと、ネットゲームのチャットが悪い。現実での学校生活よりも、仮想的なネットゲームのチャットが好きになった。ネットの友達との付き合いが、そのまま2ちゃんねるになった。学校に戻った方が良い。最近は、そういうSNSの馬鹿であふれている。心のどこかで、「大学がやりたい」と望んでいる。学校は、いじめの環境ではない。そもそも、いじめなんか、そんなに起きていない。ただ、自分だけキモかっただけだ。キモいのは、自分の行動の意味が全く分かっていないからである。キモい行動を良いと思い込んでいる。中学生の時点でネットゲームや2ちゃんねるをすでにしているが、そのせいでUNIXやPerlを賢いと思い込んでいた。だが、それは本当は数学のできる人間にしかできない。だから、僕は自分なりに数学や思考で哲学をする必要があった。本当は、そうしたものも、必ずしも間違った人生であるわけではない。パソコンと一心不乱に格闘して、Linuxの仕組みをネットの知識と一緒に暴き出す作業は、とても面白くて賢いものだった。ネットでたくさんの文章を読み、人々よりも分かって子供なりに活動するその姿は、かっこよくて、王のようだった。

むしろ、ファミコンでゲームなんか、子供の頃、誰でもやっていたし、自分も生まれてすぐにゲームをやっていた。ファイアーエンブレムのようなゲームは、誰もがハマる面白いゲームだった。自分の何が問題だったのか、本当は良く分からない。むしろ、成長が早すぎたのかもしれない。誰よりも早く大人になって、誰よりも自分だけで自立して生きていた。そのせいで、老化し、退化するのも早かった。だから、最初に戻って、今回は逆に、子供時代が長い。長い子供時代を生きた方が、はるかに賢いのが分かった。むしろ、ゲームやパソコンだけではなく、漫画も悪いし、何より時代が悪い。すれた時代で、オタクしか居なかった。そういう時代を何とかして治したいがために、10代の後半を戦いに捧げた。最高の王をひとりやった。

そういうわけで、最近はむしろ、きちんと覚えることができなくなっている、ということが問題である。きちんと覚えてやらなければいけないデザインの仕事のようなことを、きちんと覚えていない。全く覚えていないのに、できるはずがない。それは、デザインの場数をこなさないといけないが、それだけではカバーできない。自分の家で本を読まないといけない。

本当は、僕は昔の自分なんか嫌いである。本音で言えば、みんなのことも大嫌いである。テレビやネットで、人々と全く交流したくない。だからといって自分のことが好きなわけじゃない。ただ、イライラしているわけでは全くない。冷静に、全てに満足しながら、むしろ、自分だけの世界に入り込みたいといつも思っている。この文章は、「自分だけの世界に引き篭もりたい」という引きこもりの夢を自分で自動的に叶えているだけであり、理由もなければ、目的も意味もない。ただの自己満足である。全てに満足しているせいで、満足は少しで構わない。全部分かっているせいで、少し聞けばすぐに分かる。最近はそういう、物わかりの良い賢い人間になった。デザインが出来ないというが、それはまったくない。周りの人間と比べるのが間違っている。周りが賢いからと言って、周りがあらゆる面で優れているわけではない。自分には自分の道がある。きっとできる。それこそ、周りはただ素材の使い方が上手いだけである。何もしていないのは、誰もが同じである。Illustratorの機能が良く分かっていないのは、きっと場数を増やせば分かる。自分が分からないだけでなく、みんなが分かりすぎている、というだけであり、それなら僕はもっと別のことを分かっているから、競い合うのではなく、助け合えば良い。相手のまねをして、相手と同じことが出来るようになろうとしても、それはきっと間違っている。今の自分を見失っているのであれば、見ている自分のことを見ることでしか、自分を見ることはできない。

日本シリーズを見ているが、広島は精神的に強いだけでは、もう勝てない。もう、精神性だけで勝てる時代は終わった。ここから先は、計算高いのを棄てて、信じる必要がある。そのためには、カープが得意とするように、「絶対に諦めないこと」である。それは、「常にこの世界を支配する」ということが必要であり、「自分が勝つまで戦い続ける」ということである。だが、それは強いからといって、恐怖の中で生きれば良い、ということではない。冷静になること。棚上げしても良いから、問題を自分の手で解決するまでは、相手に解決させないこと。そういう、「嫌がらせ」のような戦い方が、カープには必要だと思う。最後まで意地悪に支配して、いつか勝つまで負けないまま、引き分けのままを続けること。そのためには、息を長くする必要があるだろう。カープは若者から大人になり、老獪になっていく。都市は経済発展から冷戦となって、いつまでも永遠に大国が支配するのである。

子供には、失敗をさせるべきだが、逆に大人には、失敗がないようにさせるべきである。カープについてもこれが言える。長い間、弱いチームで失敗し、抑圧の中で希望を重ねてきた。今、カープ野球という新しいスタイルを確立して、失敗を絶対にしないようになった。そして、ここから、大人が始まるだろう。そのためには、「たくさんの武器やネタ帳」を作ることであり、そのためには一度全てを疑って強く信じないといけない。カープは、信じる心を大切にすることであり、それが先に言った、「諦めず、いつまでも息を長くチャンスを待つ」という、カープらしい野球の新しい姿である。何も、支配者になる必要はない。支配者になれば、盛者必衰である。