新・日記2に戻る | 2018年10月の日記に戻る

=2018-10-28=

昨日に引き続き、今日も英会話教室に行ってきた。また、農園ではいちごの間引きをした。

農園では少しだけ力仕事をしたが、最近の僕には体力というものが全くない。すぐに疲れてしまう。それは、いつも何もせず、家では寝ているばかりだからである。だから、少しずつでも良いから、もっと畑の仕事を手伝いたいと思っている。いつも父親が働くのを見ているだけで、何もしていないからである。

それから、英会話の勉強もまったく出来ていない。僕は、ノートを取っていると、外国人が何を話しているのか、さっぱり分からなくなってしまう。だから、みんながノートを取っていても、僕はノートを取っていない。せっかく少しずつ聞き取れるようになってきたのだから、どうにかしてノートを取りたい。

昔の自分は、平等な支配者となって、自由で多様性のある世界を作っていた。それは、この世界に現れた「新鋭の王」として、はじめてこの世界と対峙する時に起きた、「本気の戦い」だった。平等な秩序を作って、可能性を高め、世界を導いた。そうした、正しい世界で起きる支配者と民主主義や全体主義のあり方のようなものを、歴史的な文明の発達のように文章の中で書いて、それで戦っていた。最後まで、全力で頑張ったが、何も分からなかった。

ネットの過激なエロを、消した方が良い。僕が怖いのは、昔ふたばちゃんねるなどで見ていた、エロ表現のせいである。そのせいで、多重人格のエロい女になっている。過激なエロ表現をひとつひとつ消していけば、そのうちきちんと治る。悪くて怖いものから、消していけば良い。校内レイプや近親相姦のような犯罪的なものだけではなく、ふたなりや触手、ロリコンやグロテスク表現、漫画やゲームの同人誌やCGなど、日本のインターネットにはアニメの過激な性的表現で溢れている。さらにありえない過激なエロはいくらでもある。ひとつひとつ、悪いものから消していけば、すぐに恐怖と狂っているのは治って、自由になる。

あとは、サタンの言葉が悪い。神の言葉とは言うが、ほとんどサタンしか話していない。そして、イモムシのようなキモい文章を、そろそろひとつひとつ消していった方が良い。その先にあるのは、「正常な愛」である。正常な愛をきちんと信じれば、すぐに楽になる。

昔は、ネットの色んな人々の意見や会話を聞きながら、この世界の解決方法と精神の現象学を考え、積み重ねて、本当に解決できるようにしただけである。

この世界は、共通の理想を信じて、それぞれが努力し、互いにそれぞれがそれぞれの価値観を認め合って、努力するためのインセンティブを与える制度や仕組みを作れば解決する。

だが、金を無くして社会所有にする、というのは、現実的ではない。マルクスは社会主義的な政策では間違っている。だが、国と国の争いはつまらないだけである。むなしく、哀しく、辛く苦しいだけが、国家主義である。今の世界に必要なのは、戦争と経済格差を是正する、「世界政府」の実現である。その、世界政府を目指して、新しい国の仕組みを作ろう。そのために、社会主義的な思想は邪魔になるだけである。金を使わず、ベーシックインカムのような制度や、あるいは、昔の日本がやっていた食料配給制をやるのは、ありえない。だから、社会主義も過去のものとして、新しい発想をゼロから考えよう。

人々を本当に自由に幸福にするためには、何が考えられるだろうか?友愛、正しい価値観、正義、自由や平等などの政治思想、あるいは、問題の解決や理性的な制度の構築など、さまざまなことがたくさん考えられる。多様性のような直観的な考え方から、世界を自由にする「参加できる権利を与える」といった考え方も出来るだろう。

オープンソースのような、ある意味特殊な発想は、特殊すぎて良い発想にはならない。自由な「理性」の向上として、「さまざまなことを知り教えることで自由になる」といった考え方はできるし、「支配しなくても、教えることや機会やチャンスを実現することで、人の向く理想を変えられる」といった自由な考え方は出来る。ソクラテスのように、「自らの中から真実が生まれる」といった哲学的な考え方は、経験を根源的に考えることで見えてくる。この世界の経験をしていくうちに、ひとつ分かることは、「恐怖は決して悪いものではない」ということである。恐怖を好むことで、世界を変えられることはたくさんある。この世界を支配し、導き、解決へといざなうことができる。だが、それは決して理想ではなく、手段である。理想とは何だろうか?理想は決して、自由だけが理想ではない。それぞれがそれぞれの「帰属意識」を持つことも、理想のひとつと言えるだろう。だが、ナショナリズムに陥っている間は、真のマスターとは言えない。本当の理想は、インターナショナルな、「人類愛」にあるからである。そのために、それぞれの共同体を自由にすることはあっても、完全に独立させることは良い発想ではない。賢い指導者はそんなにたくさんは生まれない。だが、本当は、ひとりの人間を信じて従うことの方が、愚劣であることの方が多い。それぞれがそれぞれを信頼することは必要であっても、カルトのように崇拝することは必要ではない。

ある意味、それぞれがやりたいようにやれば良い、そしてそれぞれが戦い合って、強いものが勝てば良い、というのは、一昔前の、単純な世界では正しかった。単純な金の競争で、世界は誰でも分かる単純な法則で動き、その単純で分かりやすい原理の中で、ただ放っておけば世界は良くなった。だが、今の現在の世界は、とても複雑で、簡単にはひとりの人間が全てを把握することは出来ない。だからこそ、賢い指導者が必要なのである。この世界の全てをきちんと知って見通している、プーチンのような賢い指導者が必要とされている。トランプがもしそういう人間だったなら、この世界は救うことができたかもしれない。

そういうわけで、この世界はもう、誰にも分からない世界になる代わり、誰かひとりの指導者を信じることしか出来なくなる可能性が高い。だが、少し前の世界に戻ろうとすれば、それはそれで良い世界である。混迷と暗影の世界でも、昔の世界には正常な夢と希望があった。誰もが、見失いながらも、誰かからの助けを求めていた。そして、世界の人々の意見を聞いていれば、誰でも社会を救う新しい指導者に目覚めることができるような、そういう「土壌」のような世界があった。GTOのような「すれた」世界だったが、それでも人々は「純粋な心」を持っていた。そういう世界には、もう戻れない。

新しい指導者は、必ず必要になる。この世界をなんとかするためには、本当に全てを知って全てを考えた、最高の知性と豊かな経験を持った、出来る指導者が必要である。それは、僕の後継が必要である、ということを意味している。

ある意味、プーチンのような指導者は、怒ることはできても、人々を信頼できない。もっと、優しい心を持った上できちんと精神的な強さを知っている、頼りがいのある指導者が必要なのである。僕は、もう、そうした役目はお断りである。それは、僕がやればやるほど、世界は混乱し、何も分からなくなってしまうからである。

世界を救うために、何が必要か。それは、「簡単に終わりにしないこと」である。この世界で何が出来るのか、何が変えられてどんな可能性があるのか、人類はまだほとんど分かっていない。まだまだ、出来る可能性や考えられる可能性はたくさんある。まだまだ、この世界は終わっていない。今から変えられるし、もう終わったように見えることも、きちんと理解してしまえば、まだまだ可能性のひとつを試しただけに過ぎない、ということが分かる。そこに存在するのは、相対的な経験論と自由な知性である。だが、そうした「若者の理想論」は、えてして向こう見ずで、何もきちんと考えていない。そもそも、数学的に考えたところで、それはただの「発想」であり、「自分の経験」とは言えても、「真実」とは言えないし、「正しい実現性」のようなものは、そこには存在しない。ある意味、一度最悪の戦争を体験すれば、そうした向こう見ずな若者は、「絶対に逆らえないもの」があることに気付くし、「絶対に克服できない壁を克服する経験」をすることで、「自由には意味がない」ということを知るのである。

そう、そこまで終わったこの世界は、もう、これ以上、安易な発想で変えない方が良いだろう。自由な若者は、「簡単に結果を求めるな」ということを知らないようで、本当は痛いほど知っている人間が多い。全てのことは、そんなに簡単には実現できない。だからこそ、人は学び、考え、新しいことを知ろうとするのである。間違った論理や安易な決めつけは間違っている。だが、本当はそうでもない。ほとんどの大人は馬鹿で、愚劣で、何も考えず自分の国にも他の国にも迷惑をかけ続けている。そういうものだから、大人は保守派しか居ない。若者がいくら賢くても、それは正しい考え方ではないのである。

ただ、大人には馬鹿しか居ない。普通のことなんか、何も分からない大人の方が多い。子供は、デカルトやカントのように考えるから、若者には理性的な賢い人間が多い。全ての発想が分かった上で、世界のことを独自の切り口で貫き、仮象の世界を作り上げ、人生の段階を歩んでいく若者は、誰よりも賢い「青春」を経験する。だが、その青春で果実が実ることはない。逆に、ふとした失敗をして全てを失い、奪われ、そのまま誰かとの恋に堕ちて、最後まで地獄を生きる、それが大人になる苦さであり、それこそが人生の本当の果実と言えるだろう。甘い果実は実らない。にがくて普通の人間には食べられたものじゃない、そんな果実しか実らないものである。

精神世界の「目覚め」を体験するために必要なことは、「受け入れること」である。この世界の全ての諸悪と苦しみを、全て「他力」として受け入れなさい。この世界にいじめられ、犯され、殺され、奪われ、滅ぼされ、悲しみと屈辱を体験する、その全てを受け入れてしまえば、その時点であなたは神である。この世界を苦しみの中で救う、「救世主」となることが出来る。この世界にレイプされ、この世界に恥をかかされ、この世界に生きる意味を奪われ、この世界に陥れられて自分勝手に支配される、その「苦しみ」を受け入れなさい。そこから、あなたの旅がスタートする。あなたは精神的に目覚めて、最高の人生を送り、この世界全てをデカルトのように知性で考えながら、宇宙の全てを自らの実体験で創造し、精神世界の根源を理解して、人々を支配する王となるだろう。

本当は、インターネットの世界をただ、なんとかすれば良いだけである。そのためには、まさに、2ちゃんねるの利用者が目覚める必要がある。この世界を自分の手で変えていく、そうした覚悟を持ったインターネットユーザーが増えないといけない。そして、それはえてして、狂った人間となり、人々に迷惑をかけて、死んでいく。だが、そこに残る何かがきっとあるはずである。人は、それを「本当の青春」とか「真実の人生」と呼ぶ。だが、それは本当は、便所の落書きレベルの、たわいもない嘘と虚言なのである。

ある意味、誰かがネットに悟りの方法を教えれば、それで終わりである。ネットから世界が変わり、全てが変貌する可能性を得られるだろう。だが、えてして、そんなものが成功するわけがない。むしろ、狂って人々のことを支配するとか、そんな方法しか、この世界を変える手段として残されているものはないのである。民主主義で何かが変わる可能性は少ない。むしろ、そんな風に変えても、この世界は決して良くはならないだろう。人々が自分の力で気付き、自分の力で考え、自分の力で見聞きし、自分の力で目覚めること、それしか、成功する方法は存在しないのである。今の日本は、そういう時代である。だが、そんな中でも、世界に自分の意見を言って、世界に働きかけることは出来る。教育を変えるとか、自由なままで手助けをして導くとか、手段を共有し生産を実現するとか、そういうことはたくさん考えられる。だが、考えるだけで終わっても、良いことはないのである。そもそも、考えるとは言うが、それはこの世界にある既にある既存のものを信じて分かっているだけで、あとは未来の自分のことを分かっているだけである。自由は白紙という意味では存在するが、実際の未来の可能性は白紙ではなく、未来永久、運命が決めている、そういうものである。だからこそ、全てのことが本当に上手くいくのである。そして、それは神というよりも、むしろ、遺伝子というべきである。虫がなるものは虫であり、虫以外のものになることはない。