昔は、精神を作ることで分かっていた。ドイツやフランスから宇宙まで、精神を作って分かっていた。精神の歴史の精神を作って、色んな存在と対話していた。
ただ、その精神は、戦いの中で、恐怖と悲しみの中で作った精神だったから、あまりにその精神が怖くなっている。
恐怖は、治そうとしても治らなかった。何をしても、怖いままだった。
今一度、その精神を、新しい精神を作ることで、変えよう。この世界全ての精神を作り直そう。歴史を再創造しよう。
一度、楽な精神を作って、その精神の側になれば、この精神は楽になる。
昔は、国家を創造する社会モデルのようなものを、豊富な経験と発想から創っていた。
また、機械仕掛けのような「視点」の考え方で、この世界のビジョンを持っていた。そして、それは宗教的な精神分析と一緒になって、世界を見通す「ブッダの創造」のような哲学になっていた。
ただ、あれは普通の人間だった。子供のような人間が、自分で経験し、回想する中で、この世界の可能性と、「場を変えられる可能性」に気付いた。そして、全ての変化を「自分の力で起こせる」ようになり、それは「人々を変えるきっかけと契機」になって、「きっかけの実現」から、「ありのままに常に生み出されている、現象学的な社会論」を作っていた。そういう、普通の青少年だった。
教育を変えるべきだと考えていた。最初は、もっと実利的な医学やプログラミングのようなことを教えるべきだと考えていたが、そのうち、啓蒙や自己啓発の考え方になって、最終的には自分の力で分かるための「きっかけ」を与えるべきだと考えた。また、この世界で人々と一緒に活動し、経験を共有できる「土壌」が必要だと考えた。そして、変えられる、ということから、「世界を自分の力で変え、人を導けるような経験と方法を知るべき」だと考えた。そこから、人々のことをローカルでボトムアップな「参加することができる」という自治の基盤を考え、「多様性と創造性を高め、それぞれを本当の意味で自由にさせる」ということが必要だと考えた。理想の社会は、それぞれのことを思いやる「自由」と「精神的なレベルの高さ」から生まれると考える。良く考え、良く経験すれば、自由にすることこそ、世界を本当の意味で理想にできる、と考えていた。自由な中でも、経験と理性があれば、必ず理想の社会が訪れる、という「強き英雄の信念」を持っていた。今考えると、そんなに強く生きられる英雄など、居ない、ということが分かっていなかった。特にか弱き少女のような人間を想定すると、強さよりも信じることの方が、大切であることもあるだろう。反抗して勝つだけの指導者は、自分のことしか見えていない。ただ、キルケゴールが言うように、経験から価値観が「倫理的」になっていく、ということはあるだろう。少しずつ、人生の可能性から正しさが見えてくる。そこでは、「いかに善く生きるべきか」が見えてくるだけではなく、「いかに善い社会を作れるか」ということが見えてくる。実利から啓蒙や宗教性を帯びてくるその段階は、「実存主義」と呼ぶにふさわしいだろう。
本当は、ニーチェのように考えるのが良い。ただキリスト教を批判しているだけではなく、本能や本当の意味で相手の立場に立って「喜ぶ」こと、など、きちんと分かっている。僕はニーチェが好きだ。彼は賢い。哲学者となるための入門に良い。
哲学を分かるために良いのは、哲学者や文学者や宗教家の言うことをただ聞くだけではない。プログラミングや音楽や読書など、さまざまな経験を積むことで、哲学的な「世界の把握」が見えてくる。これは、病気を治すためにもとても良い。精神がおかしくなった人間は、全てのことを部分的に見て、別の場合には別のことが成り立つのが分からなくなっている。全体を統合することが出来なくなっている。これは、むしろ、パソコンをしない方が良い。パソコンを使っていると、自然に世界や自分のことを見失う。それが酷くなると、パソコン中毒がそのまま自閉症のような症状を出すようになる。だから、パソコンから離れること、全体を統合し、視野を広く持つことで、精神病はそのうち治るだろう。いつも同じ世界を見ているのも、いつも違う世界を見ているのも、バランス感覚が必要で、「極端だから狂う」ということが、分からない人間が多い。
世界は、心で変えられる。自由な行いと、正しい接し方、そして良く分かっている上での教えと導きによって、世界は必ず変えられる。だが、そのためには、どのように変えれば良いのか、「目標や理想」を考えないといけない。そこまで出来た段階で、人々がなぜ辛いのかを「相手を責めない形で」分かること。そして、愛し、助け、優しく接することで、「理想的な自由」を「自分の力で分からせる」ことができる。親友となった上で、相手のことを「本当の意味で許し、愛すること」で、「受け入れる」ことができる。その上で、本当にそれが「理性的に考えて正しいのだ」と導き、また「経験から言ってそうなるから、こうすべきだ」ときちんと提示することが出来れば、もしインターネットのような自由な場で会話をするだけであっても、世界は心で変えられるだろう。正しさとは、自分の心から生まれるものだと、ソクラテスも言っていた。社会を作るのも、科学を作るのも、同様であり、むしろ、僕はソクラテスというよりも、ブッダの「四諦(全ては苦であり、苦を滅することやその方法などを考える4つの真理)」に近いと思っている。
子供に何をさせるべきか。それは、「一度、自分の力で、この世界のことを広く知らせ、分からせ、自分の力で考え、行動し、経験するようにさせること」である。子供は賢いから、広く世界を知らせれば、あとは自分だけの力でどんどん伸びていく。インターネットは、子供たちと親和性が高い。今の時代、学校なんか行かなくても、ネットだけで全て分かる。そのうち、今の「全日制の学校」という施設は無くなっていくだろう。いじめは無くなり、あるのはもっと自由で伸びやかな「専門的なことや文化的なこと、技能的なことを教える教室」だけになっていくはずだ。ピアノ教室でも良いし、もっと技能的な専門学校でも良いだろう。今の学校の間違いは、全員にこの社会全部のことを出来るようにするあまり、何もできないで何もしないまま、大人になってしまうことである。人間とは、本来、もっと「自由」で、「自分らしく」、自分のやりたいことをやる生物である。そもそも、大人が全てのことなんか出来ないのに、子供に一般的な全てのことをさせたいのが、一番子供を不幸にしている。だが、教育の改革は慎重にやらなければならないだろう。日本の未来全体を変えることに繋がるからである。保守派の方が多い。ある意味、一番変えやすいようでいて、誰にも変えられない、最後の難攻不落の要塞が、教育問題である。ただ、議論してほしい。さまざまなことを議論することが、一番、世界を知ることに繋がり、自分の力で考え、行動し、実現することに繋がっていく。そのために、議論や批判を恐れてはならないのである。ただし、それが、もっとも恐ろしい「独裁権力」を生み出すことにも繋がるだろう。心理的に人を支配する、愚かな独裁者に騙されないようにしなければならない。
ネットからさまざまなことを経験で実現できるようになると、どんどん自由な独裁者になっていく。だが、本当は、一度ネットから離れて考えると、ある意味、それらには簡単に勝てることが分かる。自分で勉強し、自分独りだけで経験し、成長した知識が、人々に負けることはない。自分だけの特異な体験をすると、むしろ、全く真逆の平和的な精神主義者になる。自ら創造し、平等に導く、天使のような愛溢れた存在になる。それを持って、独裁権力は倒れるのである。
ある意味、僕はこの世界の平和な秩序を作った。日本は、誰も悪いことをしない平和な国になった。アメリカは終わりであり、ヨーロッパは昔の王国に戻るだろう。これから先、民主主義は無くなっていく。民主主義では、まともなことが何も決まらない。昔は、何も決まらなくても金で上手く行っていたが、最近はネット世論のせいで、まともなことをするのではなく、おかしな右翼政策をするようになった。これで、民主主義は終わりであり、社会主義も終わりである。王国に戻って、「平和主義の立憲主義王国」を作るしかない。国王の絶対権力を憲法で制限することで、平和な良い国になる。
こういうおかしな独裁者のような救世主は、あとで地獄を見る。メシアに見えて、サタンだからである。神はサタンには容赦しない。それが地獄をやっていると、神が現れる。神は信じるものを救う。サタンでも、神を信じれば善人だ。
最近、日本に障害者が増えているのは、進化の兆しが見えている。僕のような人間が増えている。障害者から、新しい進化した人類が生まれるだろう。その時は近い。
僕は、昔の自分が賢くないのが分かったから、もう、きちんと勉強したいと思う。学校に行かず、2ちゃんねるばかりやっていると、こういうメシアになる。それは賢くない。この世界の罪と苦しみを全部背負っても、生産手段の共有から可能性を見出しても、どちらも賢くない。今から、きちんと哲学と歴史と芸術のことを勉強することに決めた。きちんとした博士になりたいと思う。
最近、やっとマルクスの言う生産手段の意味が分かった。ものを作る手段があれば、それは生産能力がある。それがプロレタリアにあれば、共同体として自立できる。そうなったとしても、そうならなかったとしても、やがて生産力の高まりによって、供給過多で資本主義は破綻する。そういう、論理的で科学的なことを言っているのが、科学的社会主義である。
ただ、社会主義はもう良い。僕は、最初から、権力に反抗しようとは思っていない。ただ、自分を肯定し、愛し、受け入れようとしているだけであって、マルクス経済学なんか嫌いである。僕はもっと別の視点から、新しい社会学や経済学を生み出したい。それは、個々人に自由を与え、それぞれが最大限できるようにし、効率よく共有・再分配・初期投資・ルール作りなどができるような、新しい「合理的」で「自由」な経済学である。そういうものを、マルクスとは別に、新しい視点と本質から、見出したいと思う。
社会とは、労働と政治の決定と、経済の配分の形態である。
まず、それぞれが決めるか、みんなで決めるか、代表者が決めるか、ひとりの元首が力によって決めるか、がある。
そして、どのような方式で決めるか、ということがある。民主主義か、経済理論か、独自の思想か、神による信託か、などがある。
その上で、配分の方式がある。それは、それぞれが自由に与え、自由に得るか、あるいは、同じものを配給するか、の二択である。
そして、それらは一長一短があるが、基本的に、「自分のことは自分で決められるべき」である。
あとは、数量や関係性から経済の理論を考えられるが、ここで必要なのは、「参加者とは誰なのか、配分とは何を意味しているのか、何が変わり、何が作られる中で、それを決定しているのは誰なのか」ということである。
日本の今の問題とは、経済的な問題ではなく、文化的・歴史的な問題であり、それは「アイデンティティの喪失」である。それは、IT化と格差社会の先にある、「何もない世界」の出現である。
何もない世界では、今までの自分たちのルーツや、戦争や国際関係、社会的な抑圧や貧困、あるいはいじめや少子化のような問題すべての先にある、「何一つ、これが自分たちであるということが言えない社会」の到来が起きている。
もう一度、アイデンティティを作り直すしかない。そのためには、必然的に「リアリティの構築」が必要である。現実とは何であるのか、現実に実現可能な理想や夢や希望とは何であるのか、ということに対する、「IT化や格差社会とは別の道による、別の道筋(パス=英語でいう「小道」)による進歩」が必要である。新しいパスを作らなければ、希望ある平和な社会にはならない。右翼とは、それをIT化による右傾化に求めたものであるが、これが民主主義を滅ぼす。本当のパスは、右翼による「ナショナリズムの主張」によっては得られないのである。帰属意識を国に求めても、その国とは未来ではなく、過去のものであり、過去を復活させたくても、過去は復活しない。これは共産主義の問題にも言えることであり、いくら産業革命による工業化を原始共産主義に戻そうとしても、工場や蒸気機関による「未来」に勝つことはできない。
そして、自由とは、社会システムの合理化であるが、これはIT化によってロボットや人工知能と結びついてきている。ここから、ITを排除して、もう一度、社会システムの合理化が出来るならば、それは少しの選択肢にはなり得る。たとえば、創造性を高めてクリエイティブなものを作る、などと言った具合であるが、これは社会システムや歴史の希望とはまた別個に考えるべきだろう。なぜなら、クリエイターは今からもきちんと夢として存在する。そのような、「普遍的な文化」は無くならない。だが、ロボットやAIとともに、それが変質し、さらに「カタルシス(鬱積からの解放)」を増やすことはあるだろう。だが、ロボットが世界を変えるとは言うが、本当は、むしろ、もっと巨大な何かが訪れる。それが今から、誰かが始めるだろう。今のロボットは、「ものを加工し、運輸し、整理し、生産する、人間の代わりとなるもの」だが、本当はパソコンやITの可能性とは、そうした「ハードウェア」や「もの」だけの可能性ではない。ハードウェアに接続された人工知能としての、ごく単純なロボットは、すぐに廃れる。今から現れるのは、たとえば「初音ミク」のような、バーチャルな世界における、「ソフトウェア」や「仮想化」の世界である。VRは、まだまだ現実の拡張にすぎない。この宇宙の本当の能力、この宇宙における三次元空間を超えて新しい「プログラムされた空間や現象」のようなものが増えていく。それが、これからの日本の技術である。だから、ある程度アメリカや中国にAI技術で負けていても、悲観することはない。日本には、ゲームやオタク文化のように、「もっとも豊かなバーチャル技術」が存在する。それが、まるで90年代のガンダムのように、今、活きてくるだろう。僕は、それが流行り、Windows 95を超えていくと思っている。それが、新しいIT技術であり、新しい「人間の住む空間としての宇宙」である。「新しい人間の創造」や「新しい頭脳の創造」の先にあるのは、「新しい宇宙空間の創造」である。
本当は、日本は今、一番良い位置に居る。AIと人工知能は、アメリカや中国に比べて遅れているが、それでもソフトバンクなどがきちんと頑張っているし、ネットを見ているとIoT(もののインターネット)の技術者もたくさん頑張っている。IoTとAIが組み合わされることで、どんな生産技術もロボットにした上で遠隔操作で管理・操作できるようになる。昔から、アメリカ、ロシア、ドイツ、中国の次に賢いのは日本である。特に、日本には、夢や希望のようなものが多い。それは、たとえばガンダムやエヴァンゲリオンのようなオタク文化や、FF/ドラクエ/ポケモンのようなゲーム文化などにも言えることで、独自のネット空間では、独自のWindows向けフリーソフトのようなものをたくさん作っている。真の意味で「日本」とは、ただ「経済的な勝利」だけを目指すアメリカやロシアや中国とは違う。勝利を目指しているわけではない。きちんとした、「良い世界」を目指している。それはドイツやロシアのような、経済的な「繁栄」や「正義」や「是正」ではない。そういうものではなく、日本人は日本のことを「新しい時代」にしようとしている。だから、僕のような人間が生まれる。こうした、友愛と希望を信じて、「みんなのために頑張る人間」になる。まるで子供のような国だが、そうした日本人的な魂と理想があるせいで、日本が滅びて後進国になることはない。いつでも、日本人の魂を継続するならば、それだけで日本は勝てる、そういう国が日本である。バーチャルアイドルが可愛いとか、そういうことを言いたいわけではないが、日本が一番「可愛い」国であるということは言えるだろう。きっと、この先、悲惨な異常気象と戦争の時代が訪れるだろう。だが、日本人が日本的魂を忘れなければ、「一番にはなろうとしない」だろうが、いつまでも永遠に、「良い位置」につくことはできる。むしろ、今のソフトウェア技術においても、日本はとても良い位置についている。僕は、プログラマの技術・知識レベルや、ソフトウェアの土壌の豊富さという意味で言えば、国や政府として勝つためにやっている他の国ではなく、純粋な「興味や好奇心」からやっていると言う意味において、日本人は一番最高の技術力を持っている。それは、きっと正しい。
言ってみれば、日本には「夢」がある。それは、「ジャパニーズ・ドリームズ」というような夢である。昔の、明治維新や昭和の戦争の時代も同じだった。日本を新しくし、最強にし、アメリカやイギリスに勝つという「夢」があった。そして、戦後の大発展も同じである。鉄腕アトムをいつか作るという、「純粋な好奇心的な興味」があった。それは、決して不可能だから生まれる夢でなく、「可能だということが分かっているから生まれる夢」だった。そして、それは、いつでも、大国の次の次、三番目ぐらいの位置につけるぐらい、いつでも日本人は賢い。それは、精神性と合理性が融和した、独自の「大和民族の魂」があるからである。東の果て、日本は最高の国である。本当の意味でイギリスに負けることは、きっと永遠にないだろう。だが、本当は、一番になって勝つことは目指していない。夢を叶えるための勝利を目指しているだけで、勝利そのものは目指していないのである。日本人よ、あっぱれである。
そもそもなぜそうなるのか、というと、僕はまだそれは分かっていない。だが、日本人には、何もない空間における、何もない時間における、何もない世界における、あふれる情熱、最高の可能性、限界のない挑戦、全てを覆す大発明や大発見のような、何か、そういうものがある。日本の情熱は、ただの情熱ではない。本当にこの宇宙全てを悟って、その上でこの宇宙を作り直すような、そういう情熱である。単なる勝利とか、精神世界における悟りではない。日本人とは、最初からそういうものである。キリスト教を信じないのは、ただのヨーロッパになることは「つまらない」からである。日本人は、そういう、「つまらない発想が嫌い」である。
日本が水道管やダムのようなものが作れるのは、「それが出来ることによって、はじめて出来るようになること」が多いからである。なぜか、日本人はそういう発想を「面白い」と思う。だから、新幹線のようなものは作れる。ゼロ戦のような戦闘機も、そういう発想である。それではじめて勝てるなら、それをする。どんどんそれを推し進めていくと、不思議と、何でも簡単に出来るようになる。良く考えると、僕の書いた文章も良く似ている。「どんどん出来るようにしていくと、不思議と、全て出来るようになる」という発想が、日本人の神髄ではないかと思う。逆に、既に旅客機のような技術がフランスなどに負けているのは、政治的な「戦闘機を日本には作らせない」という意図もあるが、むしろ、戦争をするという発想が、もうつまらないからである。誰も、戦争なんかしたくない。悲惨な結果になるだけなのが、誰でも分かる。だから、最近は民主主義が好きである。それぞれが競って色んなものを作るのが、面白い状態になっていた。だが、最近、それはもうつまらなくなってきている。競争の行きつく先はコスト削減と不正である。構造的な問題もあるが、社会主義の行きつく先は強制労働と腐敗である。だから、民主主義も嫌いだが、社会主義は一切やろうとしない。それは、一度社会主義になると「民主主義にもう戻れない」。それは、「民主主義という可能性がまだあるのに、途中でやめてしまうのはもったいない」という心理が働いている。最近はそういう国である。右翼が台頭しているのは、「むしろ、結構戦争で勝っても良いのではないか」という発想が生まれている。それは、明らかに戦争で技術が発展する、というところもあるが、マルクスの言うように、「日本は生産力が高まりすぎて、発展しすぎた。そろそろ、社会や国際情勢も良くしたい。」とか、「軍事力を強くすれば、それではじめて色んなことが出来る。」とか、そういう心理が新しく働いている。危険ではあるが、日本人はそういう危険をすぐに察知する。それは、日本人はいつもおかしいことばかりするから、「おかしいことはしてはならない」という何かの強迫観念のような意識があるからである。だが、今僕が見ると、もう、日本人は元に戻るべきである。90年代のごろ、完成した良い国だった。さっき、未来ではなく過去に戻るのは停滞するから起きない、といった意図のようなことを言ったが、そうでもない。一度元に戻って、今度はMicrosoftなどのアメリカの会社ではなく、日本の会社がWindowsのようなOSを作って、パソコンの標準も作るべきである。それは、きっと、元に戻らなくても、誰かがそのうちやるだろう。日本が作れば良いものになる。アメリカは最初から、一番に勝つことだけを目標としているから、勝ってしまえば居座るだけで、一切何もしないからだ。