人々が、色んな人々を知り、会話や経験をすることで人生のことや技術のこと、社会のことを分かるような、「土壌」が必要だと考えていた。コミュニティのようなものが必要だと考えていた。
影響力を考えていた。それぞれが影響力を発揮し、意識と影響力の高みに立って、ネットで世界を変えるような影響力を分かっていた。それが環境の正常であると考えていた。
分かった後と分かる前を比較し、思い出して分かっていた。なぜ分かるのか、分かることが何を意味しているのかを考え、認識や心を捉えて分かっていた。
自由を配慮していた。相手の自由を尊重し、相手の自由と立場を配慮することで、相手を自由にしたままで世界を変えられるようになった。そこには、世界を救うような「人類愛」があった。
昔は、実地的に社会を知りながら、行動することで、社会の可能性を分かっていた。世界の可能性と発想を積み重ねることで、世界のことを把握的・還元的に分かった。多様性と自発的な共有の自由を信じる中で、社会主義的な可能性を分かっていた。人間の法則を解明し、信念や世界観をモデルにすることで、人間のことを「全てを見るビジョン」のように分かった。その上で、信念や関係性から、人々は全員同じであるという考え方に基づいて、全員を吸収し、哲学的思索と認識の構造化から、哲学者になっていた。ありのまま、純粋に、この世界の変化を直観で捉える、右脳の思考力だった。
それを正しいと思うのは、何かしらの形でそれを信じているからである。昔は、そのように、経験論のように経験と知覚を考えて分かっていた。そこでは、「その人間の立場に立って考える」ということが、考える上での第一原理だった。この世界の全てを、その人間の立場になることから考えた。大人から子供まで、全ての人間を同じとしながらも、人生や社会の変化があることを仮定した上で、それぞれがなぜ違うのか、どのように違うのかを考えることで、人間の全てを理性的に捉えて分かっていた。その上で、客観視や俯瞰視のようにこの世界を高い視点と高い意識から分かっていた。全ての意識の上にある、「根源的なメタ意識」のようなことを良く分かっていた。意識の裏にはさらに大きな別の意識があるということを、自分の心の中の意識と精神の振る舞いから、実感して分かっていた。環境における実体験による、宇宙の意識の知性だった。人間は古代人から何も変わっておらず、発展した先の宇宙人の世界では、人は自然体で、調和して生きており、そして自由や平等は進歩の上でさまざまな方向に分岐することができ、それはどれかが劣っていてどれかが優れているわけではなく、可能性の違いに過ぎないのだと分かっていた。それを、「社会の自由な可能性」とし、具体的な社会よりも社会の「決め方」のような方法論の方に重要性があると考えていた。子供なりに考えていたせいもあって、自宅でレポートを書いて仕事をするとか、会社を作る資本金を平等に用意するとか、社会の制度の中でもっと正しい自由の形態があるとか、そういうことを分かっていた。議論し参加する自由のようなものがあれば、制度はどんなものでも実現して良いのだということを分かっていた。そして、そこからモデルと自然発生の柔軟性を分かり、人間を人間的に生活させるために政治家は何をしなければならないか、自分が政治家になったつもりで考えていた。科学は、カントのように考え方から森羅万象を作り出す横断的な総合科学だった。考え方だけを全て自分で作っていた。
社会を生むメタ社会だとか、正しい理性批判とか、そういうことを分かっていた。人間がこの世界で成し遂げてきたことは何か、今の営みはどんな社会状態の延長線上にあるのか、のようなことを良く考えた。自由にするのであれば、実際にどんな社会にしなければならないのか、「正しい指導者」として考えていた。そこから、自宅で仕事をするような、「今までにはない社会の労働のあり方」を子供なりに良く考えた。ひとつの仕事や立場に縛られず、社会全体を見るかのような発想をし、その上で2ちゃんねるのような「生の声」を聞いて、この世界をどのように変えるべきなのか、「確固たる信念の確立」を経験した上で、「それぞれに本当の正しい解決を与える」ことを考え、またそれを僕だけではなくみんなそれぞれが与え合い経験し合うような、「経験の共有」を考えていた。あとは、ウィトゲンシュタインが考えるかのように、言語や命題を「問題の共有」と考えていた。全て、自らの人生の経験から生まれた真実の哲学だった。自己意識の成長といえば、それまでだろう。
ピアノに行ってきた。デザインや執筆も行ったため、今日はとても疲れた。
子供が賢いのは、子供は賢くなるために生きているからだ。ピアノも、子供は賢くなるために弾いている。だから、習得を目指すのではなく、子供のように賢くなるのを目指してピアノを弾けば、ピアノは出来る。
精神を治すためには、「何もない」になることだ。子供は、何もない人間が多い。何もなくなれば、病気は治る。本当に治らない病気になった時にだけ、人は馬鹿になる。
世界は、権力で支配しなくても、心を動かせば変えられる。人の心を変えることで、この世界は変えられる。どんな発想でも、その人の望む形で、心を動かすことで「気付かせる」ことができる。それが愛である。
昔は、自由な社会について良く書いていた。理想を実現するためにどうなるか、自由を実現するためにどんな手段と方法を取るべきなのか、自由とは何なのか、自由とはどんな経緯を経てどんな理由からどんな結果となり、それは社会にとってどんな風に還元的な実際の世界を作っていくのかを考えた。
経験的な相対論を積み重ねていた。可能性を積み重ねることで、世界や環境が自由に、自然に変わっていくのを考えた。自然に自分の中から出てくる哲学的観念から、人生のこと全てを分かった。デカルトのように考え、ヘーゲルのように分かっていたが、それは完全に独自の経験的物理学だった。
季節の中での記憶の移り変わりは、時の経つのを忘れさせてくれる。生まれ変わった後に、「もう戻れない幸せ」を与えてくれる。僕はあなたのことを愛している。だから、あなたも、僕のことを愛してほしい。永遠の宇宙の魂の下で、僕らは永遠にともに居る。魂の中では、離れ離れになることはない。だから、この生を全うするまでは、あなたは僕と離れていても、誰かひとりの存在を僕のように、強く、気高く愛してほしい。それぞれが異なる方法で分かること、それぞれなりに生きることが、この宇宙の人間の目的である。あなたがあなたらしく生きられるならば、僕は必要ない。これで、この文学作品は、終わりである。
環境から社会全体まで、全てはこの世界を変えられる「機会」である。それはきっかけであり、宇宙の根源的場所では、全てはきっかけに応じて生まれる出逢いである。いつか、あなたにも運命の出逢いが訪れるだろう。僕を探し当てて、見つけるかもしれない。だが、僕はその出逢いの相手ではない。あなたの出逢う相手は、あなただけを愛するひとりの異性であることが決まっている。僕は、そうした存在ではないのである。だから、気を取り直して、新しい出逢いを探してほしい。機会を叶える誰かがきっと現れる。絶望の中で僕を愛しても、本当は堕落するだけで良いことは何もない。テレビやインターネットに騙されないでほしい。あなたは自分なりのことを考え、望む「自由」を持っているからだ。僕はあなたのことを完全に自由にする。次は、あなたの番だ。
僕が2つだけ、基本方針を決めよう。まず、人々のことを手助けしなさい。次に、善良な愛に人々を導きなさい。そして、それら2つのために、成長し、平和を目指して秩序を作りなさい。それが出来れば、この世界は平和になるだろう。誰かのことを愛するならば、まずはその人のことを助けてあげなさい。