自由とは、人に言われてすることではなく、自分なりに考えることである。
大学のようにきちんと分かることを目指すのではなく、適当に分かりなさい。いいかげんに、と言っても良い。教科書や辞典に書いてあることをそのまま分かるのではなく、自分の自らの経験から分かることを大切にしなさい。分かっていることも、きちんと試した上で、どのようになるのかを実際の自分の経験から知った上で考えるようにしなさい。人々のする経験をそのままするのではなく、自分だけの経験をして分かりなさい。自分なりの、自分だけの、自分のための、自分による、自分の経験を大切にしなさい。考えさせられる前に、自分の力で考えなさい。
経済学を考えるのであれば、テーマは「自立」である。自立可能な経済を作り出すことが出来れば、どんな経済でも成功する。そのためには、同時に「理想」が必要である。その経済を、何を目的に実行するのか、それが分かっていなければ、経済は実現できない。あとの「手段」や「方法」は、その時その時考えれば良い。だが、たくさんの「失敗例」を知ることで、逆に「本当の成功」を獲得することができるだろう。ひとつの例が成功すれば、それを応用して「みんなで実現する」こともできる。それを、「可能性」とか、「共有」と言う。だが、そこまで行った段階で、本当は「自由」にすべきである。
今の社会の問題とは、過去の戦後経済的なアイデンティティの喪失である。昔の日本は、「助け合い(協調性)」とか、「ものを作る喜び(創造性)」とか、あるいは「みんなのために(地域性)」などといった目的から生まれる「アイデンティティ」があった。同時に、そのアイデンティティは現実世界と密接に結ばれた「リアリティ」でもあった。今のIT世界には、そうしたアイデンティティやリアリティが本当に失われている。人々は無意味に従い、騙され、飼われるだけの奴隷に逆戻りしている。本当に必要なのは、アイデンティティとリアリティの復活であり、そのためにはただ革新だけをしても意味がない。正しい、自由な保守へと回帰する必要がある。
だが、昔が必ずしも良かったわけではない。昔は、抑圧が酷く多かった。自分のように、抑圧の体験を共有するインターネットが多かった。だが、自分は、抑圧に甘んじて従うだけではなかった。抑圧の中で、反抗し、人々と関わり合い、可能性を考え、自然と一体感を知る中で、「抑圧を解決」できるようになった。そのような指導者だった。
考えるのであれば、もう、この文章の「骨格」は必要ない。骨格の「モデル」を棄てて、相対的に変化を考え、比較するようにしよう。そうすれば、物理学的なことも分かるようになる。この世界はありのまま存在するだけであり、この世界にある森羅万象は全て物理法則と「本当の宇宙法則」の反映である。存在の証明はそれ自体が目的ではなく、存在にある考え方は「存在の可能性と成立」であり、そこから「具体的な法則と原理」を見出して、「この世界全てを説明」できるようになるだろう。それが、僕の作った物理学である。
ものは、作用と反応というよりは、現象とふるまい、そして原理的な方法と理由の発見である。昔は、そういう文章をウィトゲンシュタインのように書いていただけだ。全てを説明出来る「モデルの自由」だった。人々が自ら分かるように書いていた。
人間は、自分の経験から、社会観念を自分なりに「想起」させることによって分かる生き物である。何もする必要はない。ただ、自然に任せて、本来の自分に戻れば良い。それが唯一の答えである。本来の自分に戻ること、それによって狂った心は治る。
足は、この世界を悪いままで放っておけば治る。滅びの危機感から、この世界を放っておくことが怖くなっている。それで、すぐに治る。そうすると精神が楽になって、安らげるようになる。今まで、辛いことがたくさんあったから、休んだ方が良い。みんなも、それで休めるようになるだろう。疲れとストレスが過ぎると、人間の脳は馬鹿になる。賢くなるためには、休息が必要だ。
精神がおかしいとか、普通のことが分からないとか、そういう精神病になった時は、大学の科目やテレビの情報などを消して、「何もない世界」にしなさい。普通、この世界は、何も無い世界だ。つい最近、学校やテレビが生まれるまでは、この世界は何もない世界だった。人間は、必要でない時に行動したり、必要でないものを知ろうとする人間は居ない。そういう風に、大学のような現代文明で、ものや情報がたくさんある世界に生きているから、普通のことが分からなくなる。何もない世界にして、自分のことを時間で考えなさい。自分のやっていることをもっと上手くやろうとしなさい。テレビや大学だけではなく、パソコンやスマホのようなものが現れたせいで、どんどん人間は馬鹿になっている。原始人のことを考えれば良い。普通、何もない世界だ。何もない世界で放っておけば、何もする必要がないことが分かる。思考を必ずしも必要としないことが分かる。そこから、逆に自由になっていく。それが、この世界からの「解放」である。その後に見たテレビや学問は、意味のないものへと変化するだろう。
僕がおかしい最大の理由は、親が教師なことである。最初から、赤ちゃんの頃から学校になっているからおかしくなっている。だが、それは必ずしも悪いことではない。誰よりも早い段階で、ひとり、この世界の全てを知り、あらゆる経験と成長をした。だから、今、何もない世界に戻ってしまえば、もう終わりだ。最後に全てが正常に治った。生まれ変わったと言っても良いだろう。もう、この世界は戻らなくなって、滅びるだろう。滅びの最後に、ただの普通の、ただ正しい愛が存在したのである。
要は、こういう人間は先入観がある。自分のどこかの部分で、「経済学とはこういうものだ」とか、「数学とはこういう考え方をする」とか、あるいは「右翼はおかしい」とかそういう、知識や考え方における「思い込み」が存在する。その結果、テレビを見ても、何かが違うなと思ってしまう。人々の全員が分かっていないような印象を持ってしまう。それは、全て、先入観やレッテル張り、思い込みである。本を読むよりも、会話をした方が良い。会話をたくさんしていると、先入観が晴れる。
人間というのは、挑戦と失敗を繰り返し、恥をかいて分かる生き物である。さまざまな経験を世界においてし続ける中で、きっとその経験から何かが分かる。世界の全てを「この世界でただ立ち尽くすこと」で分かるようになる。それは「この世界の歴史との対峙」である。
僕は、デザインはそろそろ大詰めだと思う。それは、もっと背景やイラスト的なものを綺麗に描けるようになれば、それで終わりだからである。そのためには、もっとパスを引いて綺麗なデザインが出来るスキルをつけた方が良い。そして、テクスチャ的な効果のパラメータを分かった方が良い。それで、完璧なデザイナーである。思ったより、きちんと出来たと思う。だが、本当は何かをしてほしいと言われても、すぐにはできなかったりする。それは、簡単なことしかできないからである。
立場や専門の垣根を越えた、仮想的な「絶対人格」を作っていた。それは心理学的な「学習の汎用モデル」であると同時に、経済学的な「社会構築の自由モデル」だった。そして、それは「それぞれの人間が見ているものは違うが、それぞれの人間の精神は同じである」という、「平等な同じ精神に基づく人生と記憶の自由」だった。全ての人間に、社会構築の方法を教え、権限を自分と同等に与えて、世界の方法と知識と経験をネットなどで共有すべきだと考えていた。ネットを変えることで世界を変えられると、子供のように信じていた。
昔は、世界を変える手段や確かな方法を信じて分かっていた。本当にネットから世界を変えるつもりだった。また、「どの意識になれば何が分かるか」ということを良く考えた。意識を環境への適応とし、また経験的な知性とした。その上で、さまざまな行動や環境を具体的に全部把握し、認識のフィルター的な「現象学」を作ることで、この世界全ての変化と営みを神のように把握することで分かっていた。
だが、それは不幸な結果を招いた。人々は堕落し、何も分からない絶望へと書き換えられた。全ては僕の責任である。無責任に逃亡するわけにはいかないのだ。この戦いは、ここで終局面を迎える。そろそろほとんどのことは終わった。あとは、「何もない世界」を生きなさい。それによって、精神の治らない部分が治り、また癌や白血病が治るだろう。
歴史の全てを実体験の意識で知っていた。いつ、どのような感情になるかを考えながら、統一的な「精神原理」を作り、心理学で人々を悟らせるような、そうした支配の導きを分かった。そして、崇高で、誰の責任も責めず、ただ自分が救うような、「全てのものが自分独りに集まる愛」を分かっていた。
本当は、ネットでさまざまな世界を知ったのが良かった。シリコンバレーや2ちゃんねるやX51など、さまざまな世界をネットで知りながら、自分でも活動する経験から分かった。とても楽しかった。そして、もうその世界には戻れない。それは、僕がこの世界を幸福な世界に変えたからである。もうこれ以上は、何もしなくて良い。もう全部、簡単に、楽にできるようになった。
本当に、あの時のように、世界をもう一度変えよう。そのためには、「ただの批判や偽りの虚言に負けないような、強くて全ての戯言を跳ね返す、清らかで大きな愛を信じること」である。そのためには、むしろ、テレビやインターネットなどの現存のメディアを信じてはならない。誰か英雄が言っている全てのことを、その英雄自身に跳ね返して、この世界をもう一度、「必ず信じられる」と信じることで変える。それによってのみ、英雄が行なっている最大限の天国への反抗を破壊し、扉にかかった鍵を開けることがきっとできるだろう。英雄は間違っていない。英雄は、「本当の自分がどうであるか」をただ伝えているだけだ。それに対して僕らが出来ることは、ただ愛し、愛することだけである。愛は不死鳥のように蘇り、誰にも支配されない形でもう一度、新しい季節とともに、自由な愛は生まれ変わるだろう。それはもう、英雄の愛ではない。僕らの愛である。僕もそろそろ、英雄の言葉ではなく、自分の言葉で自分のことを表現出来るようになりたい。