新・日記2に戻る | 2018年10月の日記に戻る

=2018-10-08=

観念の裏側にある観念が悪さをしている。観念の裏側にある観念が狂っているせいで、精神が狂っている。それを治せばもう安心できる。

成功したIT企業というのは、自らの成功体験を繰り返そうとする。僕は、それはとても良いことでもあるのだが、本当はそれが弱点となったりネックとなったりすることがあると思う。僕は、特に、Microsoftにそれが言えると思う。成功体験を繰り返そうとするあまり、Windowsの独占的な事実上の標準の地位を堅持したままで、シェアの大きさばかりに目が行き、Windows 95の再来をもう一度起こすことばかりに経営的なアイディアが行ってしまっている。本当は、MSは今までのOSとは全く違うOSを作って、アラン・ケイを超えた新しい操作方法を研究し、確立し、またそれをオープン標準として仕様を裁定して、(全部でなくても良いから)ある程度までソースコードをオープンにし、Monoが登場したようにオープンソース版の出現を許した上で、新しいデスクトップ技術を作り上げるべきである。ユーザーは、みんな、Windows 95のような成功も、大きなシェアも、独占も望んでいない。仕様を公開し、オープンソースにすると同時に、美しいオープンAPIを裁定した上で、使える安定した技術を望んでいる。あるいは少し欲を言えばアラン・ケイ以上の発想を望んでいるし、Linuxを超えるような正しいマルチタスクのコマンドOSのようなものも、MSならいつか作ってくれると思っている。だから、MSはWindowsを改良するのではなく、新しいLinuxのようなコマンドOSを作り、Windowsのような使えるデスクトップOSも作り、その上でダイナブックを超える新しいインターフェースを作り、Officeのようなソフトウェアの使い方を改良するよりも、Officeも超えるような賢いソフトウェアを作ってほしい。僕は新しくすれば良いと言いたいわけではない。ただ、Windowsという過去のOSに確執してほしくない。これはAppleにも言えて、Appleも過去の成功体験を再度起こしたいために、クローズドな革新的でパイオニア的製品を作っているが、その多くは商用製品だ。僕は、macOSやCocoaのような技術をもっとオープン仕様として公開し、オープンソース業界でデスクトップOSを何かしらオープンソースで作ってほしいと思う。それに、Adobeなどについても、IllustratorやPhotoshopのLinux版を作って、そのLinux版はサービスが何もなく低機能だったとしても、オープンソースとして公開してほしい。

NHKのAI・ロボット特集を見て思ったのは、「日本にはもっと別の勝ち方」があるのではないかと言うことだ。資本主義的に金回りが良くなるわけでもないのに、わざわざAIで競争効率を効率化しても、雇用も増えず、ただGDPは上がっても格差しか広がらないのであれば、それは間違った発展ではないかと思う。たとえば、人間がアンドロイド化し、ネットワークで繋がってVRで視界を支配され、ひとりの指導者の体となって兵士になる世界も、来るかもしれないのだ。日本には、そうした勝ち方はしてほしくないと僕は思う。日本人は、自然と調和することが好きだ。アメリカのような人工的な世界にわざわざする必要はないのではないか?ベーシックインカム(一律で一定の給与を政府が与える、人間が働かない社会)などを試すぐらいなら、もう一度社会主義をやっても良いのではないかと思う。マルクスどころか、ケインズまでそうした世界のことを詳細に予測している。だから、きっと何かしらの「既に考えられている未来」にしかならない。そして、そうした主義主張を行う経済学者には、楽観的なことを言う人もたくさん居る。だからきっと大丈夫だろう。ケインズも、技術による失業は一時的なものであると言っている。将来的には、ロボットに仕事を奪われても、別の仕事が増えることになるだろう。

Microsoftのような会社には、保守的でない態度を示してほしい。それは、「たとえ利益が短期的に減るものであっても、長期的に見れば別のビジネスモデルを作り出すような、そういう発想をしてほしい」ということだ。だが、意外と、保守派だからといって間違っているわけではない。僕も保守派で、AIや人工知能など、意味のない分野だと思っているが、社長がそれでは意味がない。テレビに出ていた孫社長のように、本当に社長は最後まで挑戦して、レースを戦い抜いて、そこから初めて社会のための利益を考える。そうした資本主義の社長はカッコいい。だが、僕はそれだけが指導者のやるべきことではないように思う。

こうは言ったものの、誰も革新性やオープンなんか、望んでいない。安心して使える、軽いOSを望んでいる。だから、ある意味、本当にセキュリティのことを考えた設計をして、機能の単純化された軽いOSやデスクトップ環境を作れば、新しく流行るかもしれない。だが、それは、IBMやMSのような大企業には作れない。彼らは、既に確立した彼らのやり方しかできない。だから、ここからが、Google、Amazon、Facebook、Apple(GAFA)の出番である。全く新しいやり方をしながら、きちんとした使いやすいOSを作ってほしい。それが出来たとしたら、むしろ、その時にIT技術は終わりになるかもしれないだろう。

昔の僕は、世界の全てを独りで背負うかのような戦いをしていた。その中で、絶望と苦しみの中希望を忘れずに、諦めることなく永遠に文章を書いた。それは神との対話へと発展し、僕は信じることでこの世界の全てを分かった。そういう人間だった。

一度、この世界は、完全な「無」になる。それによって全てが治る。この世界にあったもの、なかったもの、全て消え去る。それで、永久にさようならである。もう、僕は居ない。これで終わりだ。何もない世界になるだろう。ただ、みんなは新しい存在に生まれ変われるはずだ。失ったものがなくなり、作られた全てが復活する。良く分からない論理と屁理屈は終わって、もう戻れない「最高の幸せ」が世界を包み込むだろう。

僕は、本当は日本史なんかしたくない。むしろ、聖書のことを知りたいと思っている。キリスト教をカルト神話とは言うが、そうでもない。僕の経験から言って、結構良い宗教だった。イスラム教よりは優れていると思う。仏教を信じても、昔のような人間にしかならないだろう。子供を餓鬼とは言うが、仏教は鬼のまま賢くなっているだけだ。宇宙が分かっているように見えて、仏教は一切何も分からなくなっている。キリスト教は、未知のことを良く分かる宗教だ。最後まで神が導き、キリストが微笑んでくれる。

僕はこういうことを言っている割に聖書のことを読んだことがないから、聖書についておかしなことを言っているだろう。今、少し旧約聖書を見た感想としては、何とも言えないが、たとえば絶対神を信じるということにある程度の礼儀や節度のようなものは無いのだろうか、と思う。聖書は神のことを讃えることしかしない。ある意味、それだけのつまらない宗教だ。ただ、神のことを讃えるだけで、それしか能がない。つまらないほど、僕はそういうものが嫌いだ。

あとは、僕は日本史と、生物、それからデザインのことを引き続きやりたいと思う。西洋哲学のことも、しばらく前に別のものに関心が言ってそれきりになっている。だが、パソコンのようなことはこれ以上したいと思わない。ただの、ノイマン型コンピュータの発展形をそんなにやる意味がない。どこまで言っても命令と記憶であり、それはいつまで経っても変わらない。ノートブック型PCのような形をしているから勘違いをしているだけで、ただの「コンピュータと呼ばれる大型機械」から進歩していない。そうしたシステムが嫌いである。どうにかして、そうではないシステムを作ることはできないのだろうか?そんなことを思う。あとは、情報をきちんとやりたいと思ったら、情報理論をやっても良いと思う。僕はオタクのような知識はあっても情報理論を知らない。姉はそういうところをきちんと知っている。だから、そういうところをきちんと知れば、システム設計やソフトウェアの構築も出来るようになるだろう。オタクなんかにプログラミングは出来ない。チューリングマシンが分かる人間ができる。僕はチューリングマシンについて何も知らない。調べたところ、計算機を数学的に議論するための、単純で理想的な、仮想化された機械だそうだ(Wikipediaより)。

僕は、今までのことを反省して、この世界から自由を奪わずに、自由な世界にする。

あなたは、あなたの思い通りに生きて良い。あなたの好きなことを、好きなようにして良い。他人にそれは干渉されないし、誰も批判しない。戦いたいか、戦いたくないか、全てはあなたがあなたに関することを決めて良い。だが、他人に対する干渉をしてはならない。ただし、相手の同意や合意がある上でのコミュニケーションであれば別である。誰のことも支配してはならないし、誰にも支配されることはない。まるでGNUの言うような自由を、あなたにも、あなた以外の誰にも、全員に与える。そして、それぞれが好き勝手に活動し、自由を得たとしても、それを排除する人間も押さえつける人間も居ない。この世界は自由である。何かを受け入れるのも、拒絶するのも、信じるのも、反抗するのもあなたの自由である。あなたらしく生きられれば、それはとても素晴らしいことだ。あなたはあなたの考えや計画で、自分の人生の全てを決められるようになる。あなたの可能性は、あなたの思い通りの意志と行為から生まれるようになる。

そして、全ての人間が自由になったら、今度はみんなで協力して、「全員のための国」を作ろう。そこでは、独裁者が押し付けた理想や野望は要らない。みんなで平等に、民主的に、公正に決められる社会を作る。一人だけの強者は要らない。みんなは平等であり、その上で自由であり、それは誰しもが人間として生まれ持った段階で獲得した権利である。それを信じることによって、社会はそれぞれが決め、それぞれが自由に作れる「それぞれの自由な世界」になる。その上で、AIやロボットのような発展が嫌いならば、それを排除することもできるようにしよう。みんなの信じていた、本当に大切なものを取り戻せるようにしていこう。それぞれの幸福や価値観も、それぞれが自由に実現し、それぞれで共有できるような社会にしていこう。これが、正しい理想のひとつ、「自由」である。そして、相手のことを本当に自由にしなければ、自分も自由にはなれない、ということを知っておこう。本当に解決するためには、自由を奪ってはならない。強制は「押し付け」だからである。誰も、他人に自分の思いを強制してはならない。グループで意志を共有することはあっても、強制してはいけない。

本当に必要なのは、自由や平等よりも、家族愛、友愛、そして国や社会や地域への愛のような、「帰属意識」ではないかと思う。そして、そうした帰属意識は、時に「いったん離れた上で、もう一度戻ってくると良く分かる」ということがある。さまざまな人間との関わり合いを感じる中で、絆や友愛、創造性や啓蒙主義が少しなりにも見えてくるだろう。そして、いったん帰属意識から離れて、自分の完全に自由な「支配者」としての活動をし、もう一度「愛へと還ってくる」という体験をする。そこから愛が溢れだして、人は全員のことを愛するようになる。それが、僕の思う「神の愛」である。そして、それらは全て、「DNAの気付き」の「覚醒」なのである。

本当は、理想や信念なんてバランスと時と場合の問題であって、多様性の方が良く見えることもあれば、統一の方が良く見えることもある。大切なのはそれ自体よりもそれを決める「決め方」であって、それは組織や環境を自由に決めるのか、それとも独裁的に決めるのかということになるが、それは思想的な側面から言うと、どっちもどっちである。だから、その「決め方の決め方」を考えないといけない。これは民主主義とか、国家主義とか、社会主義とかいう問題だが、これには既にどれが成功し失敗したか、という「経験則」がある。それを信じるならば、民主主義が一番高度であることになるだろう。だが、良く考えてほしい。それはただの経験則である。本当にどうすれば良いかは、理性的に考えられたわけではない。そうすると、今度は理性的に考える「経済学」がそこに生まれる。それは、むしろ、学問というよりも「人物」である。マルクスの言っていることを信じるか、ケインズの言っていることを信じるか、というレベルである。最も高みに存在するのは、「経済学者に(自ら)なること」であり、それは「経済学の創始」である。そのように生きるためには、さまざまな経験を積み、ひとつのビジョンを持って世界を見なければならない。今の世界では、それをするしかない。自ら経済学者になること、それがこの世界を解決する唯一の正しい道である。

ものが、どのように生まれているのかを考えなさい。それをしているということが、社会的に、組織的に、そして個人的に何を意味しているのかを知りなさい。この世界でそれを組織がするということが、社会にとって何を意味しているのかを考えなさい。同時に、自分が自由にそれをしている、ということが、人生の中で何を意味しており、過去の自分の行動が何を意味していたのかを知ることから、どんな行為が普遍的であるかを知りなさい。自分の観念として生まれる「これはこうすべき」だということが、先の普遍的な行為と相まって、道徳的な格率となっていく。「普遍的にそれをすべきだということが、自分の人生や世界全体にとってどういう意味を持っているのか」を考え、その上で「これはこのようにすべき」だということを知ったら、「そのための前提はこうである」ということを知りなさい。それによって、世界も人間も全てのことを、カントのように「仮象の世界」のひとつの形而上学(一般的な「根拠」を知る学問)として知ることができるだろう。

何かがそういう風にすれば実現できるのだ、ということを発見し、気付いていくうちに、自分が今まで悩んでいたことが何だったのかを知ることが出来る。世界において活動していくうちに、他人からの伝聞ではなく自分の実体験や経験からそのことをしかと見つめることができる。そして、精神の成長の体験から、自分が自分らしく生きられるようなアイデンティティの確立を経験することができる。その上で、関係と権利を考えながら、義務ではなく機会としての自由を知り、その上での実現可能な社会の理想像を知ることが出来るだろう。それが、自然な可能性となって、世界モデルを作り出す。そこでは道徳は経験であり、善は自らの自由な行動による機会の実現なのである。自然に生まれ、消え去っていく中での「わび・さび」のようなものから、黄昏のようにこの世界が「常にありのまま生み出されている」ということを知り、会得することができるだろう。僕はそういう文章を書きたかっただけだ。

あとは、ニュートンのように、全てのものを論理から説明する、という発想が多かった。それを経験論的に、人生の中で「何が何を信じさせているか」を考えることで、人間の心理活動の全てが分かった。その環境に自分が置かれたならば、自分はそこでどんな行動をするかを考えた。また、ネットの経験から、人々が何を考えているのか、自分の過去考えていたことの何が正しく何が間違っているのかを知り、また現実と理想を照らし合わせることで、この世界をどのように変えればどのような社会になるかを知っていた。それは予測可能な物理学だった。

そして、あとは、神とは言うが心の声を単純に聞いているだけである。長い間、本当にひとりぼっちで良く頑張った。神とは、そうした一人しか居ない自分に対する友人の創造である。

昔は、人間の社会活動や心理現象を全て、ひとつの「自由」という言葉で説明できるようになった。そして、その上で、それぞれを構築し、変えられる方法を考えて、知った。豊富な経験と自由な発想、そして純粋で崇高な「愛」の感情から、この世界の全てを「アイデンティティという意味で解決できる」人間だった。そういう文章を書いていたに過ぎない。

もう、そろそろ書きたいものは全て書けた。たくさんの体験は、とても多くの概念やキャラクターが居て、神は色んなものに替わるし、色んな概念がどんどん自分に知識を教えてくれる。そうした「神の知識」のような体験が多かった。それは自分の心の作り出した、「幻想の革命」だった。

最後に、魔法を解こう。自分で分かりなさい。昔の僕は、自由に人々を導くことで、「自分で分からせる」ということをしていたが、最近はそれが支配的になった。人々に宣言し、対話することで、「自分の力で分かるように支配する」ということをした。その支配は、本当に自分で分かるようにすれば、すぐに自由に治る。だから、自分で分かりなさい。自分の力で、自分で考え、自分で分かりなさい。

そして、永遠のさようならがここで起きる。もう終わりだ。最後の世界を僕は統治した。最後のダビデ王だった。

永遠の宇宙の創造が終わった。ここで一息つこう。きっと、あなたは、「自分のしたいこと」と「それが出来ない理由」を考えれば良い。それ以上は、そこから自分の力で、自由に考えれば良い。それできっと良い人生になる。良く考えると、因果性を推論することができるが、「自分はなぜそれをそうだと思うのか」を疑いなさい。そこから、偉大なる哲学者デカルトが生まれるだろう。

分かってしまえば、どんな相手に対しても、自分の力で分かるように導くことができる。道は決して共有できないが、他人と同じように分かることはできる。昔の僕はそれだけである。それを追究して独自の社会学者になっただけだ。ひとりだけで世界を救えるほどに、この世界の問題や解決策や営みや実現方法を全部分かっていた。そして、ネットの全てを知っていて、また支配していた。

この宇宙の歴史が分かっていた。実地的に分かっていたことは、対話と心の声によって宣告に変わった。宇宙を完全に、ひとりの力で支配していた。それは本当のこの宇宙ではない。自分が作り出した、かりそめの宇宙だった。だがフィクションではなかった。僕の人生という名前の、ノンフィクションの未来の宇宙だった。

本当は、インターネットが良かった。2ちゃんねるは、僕に友人との絆と、社会の形成の過程と、一体感による帰属意識と、そして愛と言葉による現実の理解を与えてくれた。それはそのままアイデンティティの形成となり、僕の青春を作ってくれた。これが新しい王である。メシアは僕である。絶望はそのまま可能性へと変わり、創造性は子供たちを救う正しい方法論を教えてくれた。経験豊富になって、全てのことが出来るようになり、そして世界を愛によって変えた。その時点で、世界は滅びた。そこで世界は救われ、終わった。今の世界は、ただの「延長」である。これ以降は、永遠に何もない世界になる。それも、そろそろ終わりの始まりかもしれない。

あとは、この文章を読むのはフルマラソンのように辛い。昔から、僕はこうした「乗り越える辛さ」が好きである。エクスタシーと達成感を感じるこの愛が、まさに僕の理想の女性である。地獄ではないが、これ以上辛い体験は宇宙に存在しない。この文章を読むのが一番辛いだろう。それが、宇宙の言う、「全ての体験」である。