新・日記2に戻る | 2018年10月の日記に戻る

=2018-10-02=

なんだかんだで、まだ書いている。

だが、今日は少し心が安らいでいる。それは、思い通りに生きようとするのをやめたからだ。人間は、なんでもかんでも全部思い通りに生きられるわけではない。思っていた結果と違っても、それを楽しむことはできる。

自分は「分かる」を目指すのをやめた方が良い。分かれば分かるほど、馬鹿になる。人間は、分かると馬鹿になる。

昔は、自ら物理学者の先頭に立って、さまざまな経験をし、社会を知りながら原理的法則を見つけ出すことが得意だった。難解な問題を解くのが好きだった。

それは、単純に、15歳ぐらいの子供だったからだ。子供は、分からない代わり、頭が賢い。だから、大人に僕のようなことはできない。子供にも出来ないかもしれない。馬鹿な子供なら、誰でもこういう経験をする。

自分は、昔のネットの世界を全部知っている。社会の底辺から労働者の意見まで、全て知っていた。その僕が判断するに、今のネットには価値がない。今のネットは全くどうでも良いものになっている。そういう風に、インターネット世界は終わった。インターネットなんか、既に終わっている。ネットは限界に来ている。

昔の文章は、みんなで国を変えられるような可能性のある、ボトムアップで民主的な社会システムと制度の国家を作っていた。発想も、「みんなで変えられる」というのがベースにあった。誰か一人が世界を独占するのではなく、みんなが平等な権利の下で自由に世界を変えられる、そうした社会モデルを作るのが好きだった。

そして、概念と方法と意見から、モデルを作っていた。考え方のモデルを作りながら、さまざまな実体験の経験をして、思弁哲学者のように、「同じ意味の捉え方の違い」を分かっていた。

また、世界がそれぞれ違っていて、環境や世界観はそれぞれの中にあるが、それは決して別々のものではなく、同じこの世界の中で関係し、関与し合う、というところから、客観視による環境の支配と自由な導きを分かっていた。

自由なルールをみんなで作る、という発想が多かった。基盤のようなものを作る。だが、本当は、全体主義は嫌いだった。本当に好きだったのは、「相手の自由にさせること」である。相手の自由にさせた上で、自分が周りから支援することでその人や環境を変えられると考えていた。

だが、本当は、そうした自由な発想は全て間違いで、世界を実験台にしているだけだった。社会実験のような、「ありえない出来る可能性」を良く発想として書いていたが、間違っていた。そんな実験はしない方が良い。何も変えない方が、社会は安定し、良くなる。自由を奪うことは、悪ではなく、善の手段であることもある。自由はやめよう。

パソコンも、外国語も、哲学も、神も、大学も、やめた方が良い。そういうものは、頭が馬鹿になる。それは「分かる」からだ。分かるのは賢くない。大人は分かっている馬鹿が多いから、何も分からなくなる。誰でも、何も分からないままで放っておいた方が賢くなる。子供が賢いのは、子供は分かる方よりも賢い方を取るからだ。大人が馬鹿なのは、いつも分かっていると分からないのが賢く見える。それが一番馬鹿で愚かな人間になる。やめた方が良い。良いのは、数学と文学である。そういう、まともなものだけが賢い。

もっと、文章の読み書きをした方が良い。大人には、何にも読まないのに分かっている人間が多い。きちんと読む人間は、子供にしか居ない。さまざまな文章を読めば良いとは言うが、最近はネットだから意味がない。ネットの文章は読まなくて良い。普通の文章を読んで、普通に考えれば分かる。だから、日本語をマスターしようとすれば、自然に賢い人間になる。大学も科学も経験も無い、日本語だけが分かる少年の方が、はるかに賢いことができる。そういう人間の方が良い。ネットも必ずしも悪いわけではない。昔のネットは良かった。賢い人間が多かったからだ。

つまらないと思われるかもしれないが、聞いて欲しい。必要なのは、勉強することでも行動することでもなく、なりたい自分になることである。その「なる」ということは、自分を変えることであり、明日を変えることである。だが、少し考えてほしい。行動や事実をただ正したところで、自分を変えることはできない。それはただ、辛いことをやりたくないと願っているだけである。正しく自分を変えるには、自分の「心の捉え方」を変えなければならない。絶対的に悪であると思っていたものを、善や正しいものであると、自分の中で捉え方を変えた時、そこにはじめて「自分が変わる」という経験が生まれる。必要なのはそれである。大学の心理学は、みんなの学習や行動を予測して考える悪魔の学問であるため、おすすめしない。自分で認知心理学者になること、それだけが唯一の自分を変えられる術なのである。

感情と記憶の捉え方を変えれば、関連づけが変わって、自分が変わる。自分が自分らしくなって、安心し、思い通りに変われるようになる。そう、幸せへの第一歩がそこに生まれる。

この文章を読んで、泣いても、笑っても、怒っても、僕は構わない。だが、その時、あなたは決して一人ではない。書き手である僕が、あなたの傍に居る。本当は、嫌っても、無視しても、排除しても良い。追い出されても、僕はそこに居ない。僕は天の高みから、あなたの行く末を知った上で、幸せを与える機会を今か今かと待っている。一人待ちぼうけで居るように見えて、本当は暇つぶしで遊んでばかり居る。それが僕である。僕のことは考えなくて良い。あなたの幸せをあなたが感じること、それが僕の幸せであると同時に、僕がこの文章を書く目的としている「約束の世界」へ進むための答えだからだ。

心理学的に突き詰めて考えた時、「自分はなぜそう思うのか」という思考に行き着く。そして、それは「自分が経験したことから、信じているからだ」という思考へと至る。だが、なぜそれを信じているのだろうか?何を求め、何を知ろうとし、何を望んでいるのだろうか?それはきっと、さまざまな経験をして、この世界の全てを知った上で、分かることだろう。ある意味、「ありのまま考える」ということが答えかもしれない。あるいは、「この世界を変えるため」が答えかもしれない。何が答えだろうと、そこまでの人生の経緯があった上で、自分が経験して分かるのが理想だと思う。だから、僕はその過程を明らかにすることはあっても、押し付けたりはしない。あるいは、本当はしたくなかった。あなたはあなたの、自分の人生を生きてほしい。自分らしさを感じて、この世界全ての人々の営みを知って、その上で出てくる想いの泉から、この世界をどのように変えられるのか、この世界とはどんな世界なのか、どんなに苦しく、また素晴らしい世界なのかいうことを知ってほしい。その上で、過去に想っていたことの何が正しく何が違っていたのか、「本当にこの世界は自分の手(みんなの手)で変えられるのだ」という信念などを知ってほしい。あなたの想う、あなたの哲学で、苦しみと葛藤の人生を知ってほしい。自分で考えた全てのことを書きとめてほしい。たとえそれら全てを失ったとしても、そこに宝を作ってほしい。あなたの人生、全てが、失った宝よりも輝く新しい宝を創造するだろう。その道が、きっと、ありのまま残っていくだろう。ゴミの山から宝を探し出すことはできる。だが、ゴミを宝に変えてしまえば、その方が楽しいだろう。

治したいなら、記憶を抹消するしかない。どのようにすれば出来るのかを忘れれば、人間は最初に戻る。

「なぜそうなるのか」や、「どうしてそういう風になっているのだろう」ということを知る気持ちを忘れないこと。そういう気持ちを、子供心と言う。子供には、仕組みを知ったり、自分で作ったりすることが楽しい人間が多い。それで、ネットを見て世界を知っていくと、世界のことを自分で体験した通りに作れるようになる。自分の心の中で、世界のみんなを吸収し、過去の体験を再体験できる。僕の子供時代は、そういう人間だった。可能性のパターンから、具体的な前提の成立を分かっていた。全てを知り尽くして、マクベスのようなオープンソースの王になっていた。絆から、人生の全てを分かり、仏のように悟った。

昔作った経済学も、言わば「コドモ経済学」だった。想像力から言葉と、それぞれの社会でそれぞれがどういうことが出来るか(ということが成り立つか)を知り、人々が苦しむ原因を「アイデンティティの喪失」とした。不安や苦しみの中で、分からなくなってしまう大人の視点を、別の角度や別の視点から見ることで、本当に正しい解決策が何であるかを考えた。そこから、「人間と社会の理由」を考えた。その上で、心の平安のために、自分の経験から、何が出来るか、何が大切かを、「完全に自分なりの、実体験に基づく理想」から分かっていた。それが正しいと本当に言えること、それが好きだった。